硝子の紫陽花

桜川 渚月

序章

 視線のない社会に摂動は生じない。

 視線は其処此処に存在する。誰と会話し誰と食事をしたか、誰と寝て誰と寝ないか、階段を登るとき必ず左足から踏み出す癖も、お土産の包装紙の角の擦れ具合まで誰かが見ていて、互いが互いにそれぞれの視線に苦しい言い訳を紡ぎ出す。視線は実態を持たない。だがそれは光という媒体を通じて人を傷つけていく。私はその視線に対して、言い訳のひとつも見つけられないままでいた。ただ目を閉じ、ひたすら沈黙を押し通してきた。


 私は何も見ていません。だから私をそういう視線に晒さないでください。


   ◇


 静かに雨が窓を鳴らす。私のすぐ背後にある大きな窓ガラスは、その存在を強く主張することもなく少し隔てた私をその雨から守ってくれている。縁側のすぐ先には青色の紫陽花が植わっており、私はつい先日の苦々しい思い出と、その花言葉を思い出す。母が死んだというのに、何も感情は込み上げては来なかった。十歳の私には、母が死んだこと以上に、自分自身にそうした人の感情というものが備わっていないのではないかという恐怖のほうが大きかった。時折涙を流して悲しむ周りの中で私はただ一人浮いていて、居心地の悪さを感じていた。

 窓の外で静かに雨に打たれている紫陽花を見つめながら、手の平に遺された切子のグラスのカットに指を這わせる。滑らかな感触と共に指の先から熱が吸い取られていく。その冷たさと手に馴染む重さだけが唯一母と共有できた感覚だった。

 私は隣で黙ったままの父に対してやるせない思いを抱いていた。私はまた窓ガラスへと目を向ける。紫陽花越しに薄っすらと私達の姿が浮かぶ。私は長い黒い髪を雨粒の軌道上に垂らしている。父はいつもの坊主頭だが、それを覆う布を今日は被っていなかった。親戚たちは私達の向こうで食事の支度をしたりと動き回っている。まるで紫陽花畑の亡霊のように。そう、もしこの亡霊たちの中に母の姿があったのならと、その姿を探す。ぼんやりと浮かんだその亡霊たちは青色の紫陽花の間をさながら舞踏会のように艶やかに舞い踊る。しばしそんな姿を眺めて、今度は視線を手元の切子のグラスに戻した。

 親戚中の誰もが父を腫れ物のように扱った。父はそれだけのことをしたのだ、と私も思った。しかし同時に父のこれまでの行動にまるで何も考えがなかったとは思えない、という疑いもはっきりと持っていた。私以外の親族が父をどこまで理解していたのかはわからない。表面上の言動だけをなぞって純粋に彼の在り方を否定していた。私はそうした親族ともまた距離を置いていた。もちろん、かくいう私にもはっきりとした父の心の在処などわかりようもなかった。私にはどこにも正しい在り方を求められずにいた。

 私はグラスを机の上に置くと、それをぼんやりと眺めた。母は最期までこのグラスを片時も離さず持っていた。深い青がグラスの底から浮かび上がっていくように甘いグラデーションを描き、その色を引き立てるように繊細なカットがいくつも施されていた。

 私は胸に燻り続ける父への疑念を拭うように、いつまでもそのカットを指の先で確かめるように撫でていた。父はそんな私の姿を少しだけ見て、それからまた肩を落として私と同じようにこの広い居間の隅で二人して時間を持て余していた。私はもうすっかり長い闘病生活の中で別れの心構えはできていて、ただ予測された出来事が起きたに過ぎなかった。雨音が騒がしい。まるで誰かを窓の外に誘っているようだった。

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