第2話 異界への扉
地下鉄のトンネルの奥――。
黒崎と美咲は、常ならぬ気配に包まれていた。
蛍光灯が不気味にちらつくホームに人影は一切ない。ただ、二人の足音だけが空虚に響く。
だが、耳を澄ませば聞こえてくる。誰もいないのに、靴音が遠くから忍び寄り、やがて頭の奥で直接囁く声に変わる。
――来い……忘れろ……眠れ……。
「……黒崎さん、聞こえますか」
美咲は声を潜める。懐中電灯の光が壁をなぞると、タイルが波打つように揺れ、黒ずんだ影が形を変えて蠢いた。
「聞こえるさ」
黒崎は低く応じた。
「湖底の歌と似ている。だがこれは……より巧妙だな。
声が感情に直接絡みついてくる」
「心を溶かし、抵抗を奪う……そういう仕組みですね」
二人は慎重にトンネルを進む。足元のレールは冷えきり、湿り気を帯びた空気が肺を重くする。やがて、美咲が前方を指差した。
「黒崎さん、あそこを!」
暗闇の中に、人影が浮かんでいた。
輪郭はぼやけ、ガラス越しの映像のように透けている。それは消えた乗客たち――目は虚ろに開き、囁きに導かれるまま、ゆっくりと闇に歩み出そうとしていた。
黒崎は眉をひそめ、歯を食いしばる。
「……これが、異界の入口か」
彼の目にはさらに奥が見えていた。線路はねじれて無限に続き、天井の鉄骨は生物の骨格のように蠢いている。異界の『構造』が現実に滲み出しているようだ。
「足元に注意しろ。影に触れれば意識を奪われる」
「はい……。この雰囲気……体温が削られていくみたいです」
美咲は小刻みに震えながらも黒崎の腕を強く握った。
やがて――。
ホームの奥、暗黒の一点に光が集まり始めた。
その光は渦を巻き、まるで巨大な眼孔のように開いていく。中心に向かって人影が吸い込まれ、かすかな悲鳴とともに乗客たちが飲み込まれていく。
「……あれが『扉』だな」
黒崎の声は冷たく、決意に満ちていた。
「行くんですか」
「行くしかない。扉が閉じれば、やつらは二度と戻れない」
二人は手を固く握り合い、渦の縁へと歩を進める。
囁きは激しさを増し、甘美で危険な言葉が頭蓋を揺らす。視界の端では、壁が液体のように崩れ、床が時折消えて見えた。
黒崎は鋭い視線を前に向けた。
「任せろ。こんな囁き、もう二度と負けはしない」
「黒崎さん、しっかり!」
美咲の声が震える。
彼の脳裏には、湖底での悪夢がよぎる。あのときは歌声に心を揺さぶられ、危うく引きずられるところだった。だが今度は違う。美咲と共に、声を打ち消すように意識を研ぎ澄ませ、呼吸を整え、己の輪郭を確かめる。
「……黒崎さん、渦の中心に、人影が!」
渦の奥、光と影の狭間で、青年の姿がかすかに浮かび上がった。
その腕を掴もうと黒崎が踏み込んだ瞬間――。
渦の奥底から、別の力が蠢き出した。
それは声ではなく、低周波の振動だった。
骨を揺さぶり、思考を鈍らせる、不協和音の波。
壁のタイルが裂け、黒い粘液のような影が触手めいて渦の外へ伸びてくる。
美咲が悲鳴に近い声を上げる。
「扉を守っている『何か』だ。ここからが本番だぞ」
黒崎は拳を握り、光を渦の中心へと突きつけた。
闇と光の境界で、二人の足元が揺らぐ。
現実と異界の間に、二人の存在そのものが試されるかのように、渦の底から『眼』がひらいた。
次回、第3話「記憶の駅」
――駅に込められた思いが渦巻く。
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