黒崎探偵事務所-ファイル05 忘却の地下鉄

NOFKI&NOFU

第1話 消えた乗客

東京の地下鉄。満員電車で、肩が触れ合うほどの混雑の中、一人の乗客が煙のように、忽然と消えた。

――そんな事件が通勤ラッシュの混雑の中続いていた。


被害者の一人、大学生の青年を探してほしいと、黒崎探偵事務所に訪れたのは彼の母親だった。


「お願いです、警察では取り合ってもらえないんです! 警察は統計や証拠ばかり見る。でも私の目は、あの時、息子の背後に『異常な気配』を見たんです」


母親の声は切羽詰まっていた。

息子は真面目で、家出をする理由もない。警察は『本人の意思による失踪』と片づけようとしている。


しかし母親は納得できなかった。


「駅で姿が見えなくなった直前まで、スマートフォンの通話記録が残っているんです。『次の駅で降りる』って……なのに、どこにも降りていないんです」


老眼鏡を押し上げ、黒崎は静かに目を細めた。

「つまり――乗っていたはずの列車の中から、忽然と消えたわけか」


「ええ……。息子は健康でした。借金も、人間関係のもつれもありません。事故や自殺なんかじゃない。きっと、何かがあったんです!」


母親の必死な言葉に、美咲が小さく息を呑む。

(…普通の家族が、警察ではなく探偵に縋る。そこには、直感的な『異常さ』への恐怖がある。美咲は思わず、自身の心臓の音を聞いた)


「黒崎さん……」

と美咲が視線を送る。


「分かっている。おそらく、これは……」


黒崎は顎をさすりながら書類を脇に置き、母親を正面から見据えた。

「……間違いなく、人の理から外れたものの匂いがする」


母親は泣きながら深々と頭を下げた。

「どうか……助けてください。息子を、取り戻して」


黒崎は短く頷き、机の上に広げられた路線図と駅構内の監視映像を指先で示す。

映像には、一瞬だけ光が歪むような奇妙な揺らぎが記録されていた。


「……見えるか、美咲」

「ええ。あれは……(一瞬言葉を詰まらせ)境界の痕跡ですね」


美咲の声は硬い。彼女の脳裏には、以前の『湖底事件』の記憶がよみがえる。

人を幻惑し、深淵へ引きずり込んだ、あの不気味な歌声。


黒崎は老眼鏡を押し上げ、低く呟いた。

「湖の声と同じだ……人を呑み込む『何か』が、また都市の闇で動き出している」


その瞬間、事務所の窓ガラスがわずかに震えた。

地下鉄の風が吹き込んだかのような冷気が流れ込み、二人の耳をかすかな囁きが掠めていく。そして、静かに瞳を交わした。


――思い出せ……忘れるな……。


黒崎は母親を安心させるように一言だけ告げた。

「この依頼は受けます。全力で捜索する」


そして、美咲に向かって低く命じる。

「行くぞ」

「……はい。今回は『都市の異界』油断は禁物ですね」




黒崎が資料を鞄に収め、美咲が懐中電灯を握りしめ、二人は夜の駅へと向かった。

防犯カメラに気をつけながら進む。エスカレーターを降り、トンネルの暗闇に足を踏み入れると、空気の密度が変わった。


湿り気を帯びた風に交じり、「……アノ子ハ、キミヲマッテイル……」という微かな囁きが聞こえる。――それはまるで、駅全体が生き物のように蠢き、乗客を飲み込んでいるかのようだった。


「どうしてこの駅だったんでしょうかね」


「前の地下鉄事件と何か関係があるのかも……

この駅そのものが、扉になっているのか」

黒崎が低く呟く。


やがて、闇の奥で揺れる光の粒が見えた。

そこには消えたはずの人影が、薄膜のように漂っている。

囁きは次第に強く、甘く、耳にまとわりつく。


「気をつけてください、黒崎さん」

美咲の手が彼の腕を強く掴む。その瞳は、黒崎をじっと見つめていた。


黒崎は幻聴に抗いながら、静かに前進した。

「この声の源を突き止め、連れ去られた者を取り戻す」



――そして彼らの視界の先で、黒ずんだ扉の縁が、濡れた唇のようにじわりと開いた。地下鉄の風とも違う冷気が吹き出す。



次回、第2話「異界への扉」

――異形の影が蠢く都市の底へ。黒崎と美咲が踏み込む忘却の迷宮。



※ 前の地下鉄事件……クトゥルフ神話短編小説01-残業終電で「それ」に出会った夜

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