第11話SecretGarden
夜風が肌を撫でるたびに、ほんのわずかな冷たさが混じるようになっていた。
港町の空は薄い雲に覆われ、星の光が柔らかに滲んでいる。
裏庭のテラスに、桜庭は大きなトレイを広げ、試作品のハーブティーと焼き菓子を並べていた。
祖母が遺したレシピノートは、今日もテーブルの片隅に開かれている。
古びた紙に残る走り書きの文字は、今でも温かさを宿しており、桜庭にとっては道標のようだった。
今夜は秋に向けた新しいメニューを考えている。
レモンバームにシナモンをほんの少し。
湯気とともに立ちのぼる香りは、涼しくなった夜気に溶け込み、鼻先をやわらかくくすぐった。
栗のペーストを練り込んだスコーンは、まだほんのりと温かい。
バターと栗の甘さがほどけていく香りに、自分の心までほぐされていく気がした。
祖母もこの時期になるとよく試作を繰り返し、失敗作を笑いながら差し出してくれた。
その記憶が甦るたび、桜庭の胸に小さな灯がともる。
静かな時間が流れていたとき、隣の家の門扉が開く音がした。
桜庭が顔を上げると、暗がりの中を裏川が帰宅してくるところだった。
肩にかけた鞄の重みを持て余すような仕草。
家の窓には灯りがなく、妻はまた夜勤なのだろう。
「おかえりなさい」
自然と声が出ると、裏川は少し驚いたように足を止め、目を瞬いた。
「……こんばんは。遅くなりました」
「よかったら、試食会に付き合ってもらえませんか? 秋向けの新作なんです」
一拍の沈黙のあと、裏川は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……では、少しだけ」
ふたりはテラスの椅子に並んで腰を下ろした。
ポットに湯を注ぐと、シナモンとハーブの香りがふわりと広がり、夜気の冷たさをやわらげる。
湯気が白く揺れ、その奥で秋の始まりが見えるようだった。
「栗のスコーンと、紅玉のコンポートです。祖母がよく作ってくれた組み合わせで」
差し出された皿から、裏川はスコーンをひと口運んだ。
ゆっくりと噛みしめ、静かに目を細める。
「……美味しいですね。なんだか懐かしい味です」
短い言葉だったが、確かな響きを持っていた。
その一言に、桜庭の胸の奥に柔らかな温かさが広がっていった。
祖母の残したものが、こうして誰かの記憶を呼び覚ます。
その事実が、不思議な力を帯びて感じられる。
ふと、庭の奥から鈴虫の声がした。
規則正しく、けれどどこか儚い響き。
桜庭は耳を澄ませ、マグカップをそっと両手で包んだ。
「この音、好きなんです。前に住んでた所では、こういう季節の環境音とかも、わざわざ動画サイトで探したりして」
裏川はスコーンのかけらを皿に戻し、静かに庭を見つめた。
「……季節の音ですね。夏の終わりの」
低い声が夜の静けさに溶け、鈴虫の声と重なる。
その足もとでは、黒猫のバステトが丸くなり、耳をぴくりと動かしていた。
虫の音に反応するように、尾がゆっくりと揺れる。
「こういう場所で暮らすと、季節の変わり目も悪くないですね」
桜庭はそう言いながら、紅玉のコンポートを口に含む。
煮詰めた果実の甘酸っぱさが舌に広がり、秋がすぐそこまで来ていることを告げていた。
鈴虫の声が夜を縫い、ハーブの香りがその糸をやわらかく結んでいく。
夏が終わり、秋が始まる。
その境目の夜に、ふたりは静かに同じ時間を分け合っていた。
灯りはどこにも強くはなく、ただ夜風と虫の音と、温かな飲み物とが、ささやかな幸福を形づくっていた。
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