第3話SecretGarden

夕方、風が少し涼しくなってきた頃。

港町の空は群青に染まり始め、裏庭のハーブの葉先を撫でる風が、昼間の熱気を少しずつ和らげていた。桜庭は小さなグリル台に火を起こしていた。祖母がよく使っていたものだ。錆びは浮いているが、鉄の厚みはまだしっかりとしていて、炭をのせると心地よい熱を返してくる。


火種にマッチで火をつけ、うちわで扇いで風を送る。炭が次第に赤くなり、やがてぱちりと音を立てた。立ちのぼる煙は少し焦げたような、しかし懐かしい匂いを含んでいる。

「……よしっ、なんとかなったな」

独り言をもらしながら、桜庭はウッドデッキに並べた皿を見やった。カラフルなパプリカ、とうもろこし、茄子やズッキーニ。それにソーセージと鶏肉を串に刺したもの。庭先でひとりきりのバーベキューにしては、ずいぶん本格的な準備だ。


今日は開店準備を少し早めに切り上げた。祖母の庭で過ごす時間を、自分なりに取り戻したくなったのだ。

足元の椅子の下には黒猫のバステトが丸くなり、煙の匂いを嫌がるようにしっぽをぱたぱたと揺らしていた。


そのとき、隣の家の門扉が開く音がした。

顔を上げると、裏川が傘を畳みながら敷地に入ってくる。手にはコンビニの袋。シャツにスラックス姿で、襟元は少し汗で濡れていた。

「おかえりなさい」

桜庭は自然に声をかけた。裏川は少し驚いたように顔を上げ、すぐに口元を和らげた。

「……ああ。こんばんは」


「炭火、起こしてみたんです。祖母のグリル、まだ使えそうで」

桜庭は笑みを浮かべ、炭の赤を見せるように身を引いた。


裏川は袋を持ち直しながら、煙の匂いを嗅ぐように顔を少し上げた。

「……いい匂いですね。懐かしい感じがします」

「よかったら、食べていきませんか?奥様、今日はご不在ですか?」


裏川は一瞬だけ間を置いて、袋の中を見やった。

「夜勤です。……今日は、これで済ませるつもりでした」

ビニール越しに見えるのは、無造作に選んだコンビニ弁当。


桜庭は串を炭火の上にのせ、にやりと笑った。

「せっかく火を起こしたので。よかったら、少しだけでも」

「……じゃあ、少しだけ」


裏川はそう言って、庭の柵越しに腰を下ろした。桜庭は皿を取りに行き、焼けた野菜やソーセージを盛りつけて差し出す。

炭の上では脂を含んだ肉がじゅうっと音を立て、煙が弾けるように立ちのぼる。ソーセージの皮がぱんと膨らみ、表面から肉汁が滲み出す。トウモロコシの粒は甘く焦げて、香ばしい匂いを漂わせていた。


バステトが裏川の方を見て、小さく鳴いた。


桜庭は冷蔵庫から白ワインを一本取り出し、グラスを二つ用意した。

「料理用に買ったものですけど……どうですか?」

裏川はわずかに驚いた顔をしてから、小さく頷いた。

「では……お言葉に甘えて」


グラスに注がれた白ワインは、炭火の揺らぎを映しながら淡く光った。ひと口含むと、裏川の喉がゆっくり動き、吐き出された息にわずかな酸味が混じる。

「……美味しい。冷たくて、食欲が増しますね」

桜庭も一口飲み、炭火の上の肉を返した。脂が火に落ち、炎が小さく弾ける。


「いただきます」

裏川が串を手に取り、焼き野菜を口に運ぶ。熱さに少し眉を寄せながらも、噛みしめた瞬間に目を細めた。

「……美味しいです。コンビニ弁当より、ずっと」

「よかった」

桜庭はうちわを置き、グラスを軽く掲げた。


炭火の音、肉汁の匂い、夜風に混じるハーブの香り。食卓を囲むぬくもりが、沈黙を満たしていた。


その夜、裏庭の灯りはいつもより長く揺れていた。

炭の赤が静かに夜に溶け、ワイングラスの底で星のようにきらめいた。

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