第2話SecretGarden

朝から雨が降っていた。港町の空は分厚い雲に覆われ、山の稜線は霞に溶けて見えない。しとしとと絶え間なく降る雨粒は裏庭の土を濡らし、葉の上に集まっては静かに滴り落ちてゆく。濡れたハーブは香りを増し、ローズマリーやレモンバームの青い匂いが雨気と混ざり合って、窓を閉め切った室内にまでほのかに届いていた。


桜庭はカウンターの前に腰をかけ、祖母の古びたレシピノートを広げていた。紙は少し黄ばみ、ところどころインクが薄れている。けれど丁寧な文字で書かれた配合の数々には、祖母の声がまだ宿っているようで、読み返すたびに胸が温かくなった。

カフェの棚はまだ組み立て途中で、木の板や金具が部屋の片隅に寄せられている。未完成の空間はどこか落ち着かず、しかし同時に、これから形づくられていく未来を思わせた。


「ローズマリーとレモンピール……これ、どこにしまったっけ」

独り言をもらしながら、桜庭はキッチンの引き出しを探る。瓶に入れたドライハーブが並んでいるが、まだ整理が追いつかず、目当てのものはすぐには見つからなかった。


足元では黒猫のバステトが丸くなり、静かな寝息を立てていた。毛並みは雨の日の闇のように艶やかで、丸まった背中から伝わる温もりは、孤独をやわらげる灯りのようだ。ときおり尾が小さく動き、夢の中で何かを追っているらしかった。


ふと、窓の外に目をやる。雨にけぶる庭の向こう、隣の家の灯りが早くもともっている。カーテンがわずかに開いていて、その隙間から人影が見えた。


裏川だった。

タオルで髪を拭きながら、無造作に立っている。湯上がりなのだろう、上半身は裸のまま。湯気を含んだ肌が柔らかな艶を帯び、肩や鎖骨の線は細く頼りないほどに華奢だった。濡れた黒髪が頬にかかり、その影が表情を曖昧に隠している。けれどその眼差しは遠くを見ているようで、何か思いを巡らせているようにも見えた。


桜庭は、息を呑んだ。

見てはいけないものを見ている――その意識が胸を刺す。だが視線は凍りついたように外せなかった。雨に濡れたガラス越しの光景なのに、手を伸ばせば届くように近い。無防備にさらされた姿が、なぜか切実に心を揺さぶる。


裏川は、誰かに見られているだなんて思いもしないのだろう。その無自覚さがかえって痛々しく、同時に目を離せない。心臓の鼓動がいつもより強く耳に響く。


「……裏川さん」

思わず名前を口にすると、目の前のレシピの文字がにじみ、焦点が合わなくなった。雨音と鼓動とが重なり合い、現実と夢の境目が曖昧になる。


桜庭は慌てるようにカーテンを引いた。布の落ち着いた色が視界を覆い、ようやく自分を現実に引き戻す。外では雨脚が少し強まり、屋根や葉を打つ音が一層はっきりと聞こえてくる。


バステトが小さく鳴いた。桜庭はしゃがみ込み、その柔らかな頭を撫でる。猫の温もりが指先から伝わり、胸のざわめきを少しずつ鎮めていく。


隣の灯りは、カーテン越しにぼんやりと揺れていた。雨ににじむ光は、どこか人の気配を孕んでいて、桜庭の心に静かな影を落とす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る