第四章

 秋の気配が、山里のすみずみにまで満ちていた。

 風は澄み、稲穂は黄金の波となって田を埋め尽くし、刈り取りを待つ匂いが空気に濃く漂う。空は限りなく高く、群青に近い蒼さを湛え、鳥が渡りの群れを描いては、遥か彼方へと消えていった。

 貴人はその風景の中に佇み、歩を進めるごとに胸の奥が浄められていくのを覚えた。落ち葉が衣の裾にまとわりつき、踏みしめるたびに乾いた音を立てる。その音は、まるで大地が貴人の歩みを確かめるような優しい調べであった。

 やがて足は、あの日の岩間へと導かれる。

 不思議なことに、そこには今年も白菊が一輪、気高く咲き誇っていた。季節の移ろいを超えて佇むその姿は、ただの花ではなく、ひとつの祈りの形であるかのように思えた。

 貴人は膝を折り、深く息を吐き出す。

 白菊の花弁は、朝露を含んで淡い光を宿していた。秋風に揺れるたび、花は言葉を持たぬはずなのに、静かに語りかけてくるようである。

 ──清らかであれ。高貴であれ。

 その響きは、幻ではなかった。

 都で過ごした日々、虚飾と欲望にまみれた宴の記憶が胸をよぎる。あの中にあって、自分は何度も息苦しさを覚え、心が凍えるようであった。だが、ここで出会った自然は違う。風も、水も、木々も、そしてこの菊も──すべてが偽りなく、ただ真実を差し出している。

 「人は世を離れてもなお、こうして尊く生きられるのか……」

 呟きとともに目を閉じる。

 すると、風が木立を抜け、葉のざわめきが波のように広がった。その響きは、まるで自然全体が応じる合唱のようであった。月明かりが雲間からこぼれ、川面が銀に揺れ、虫の音が夜気を彩る。すべてがひとつに融け合い、貴人の胸を満たしていった。

 やがて心は深い静けさに至った。

 そこには恐れも迷いもない。ただ白菊のように、ひとところに立ち続け、澄みきった存在としてあるのみ。その在り方こそが高潔であり、真の高貴なのだと、貴人は悟った。

 立ち上がり、白菊に一礼する。

 その足跡は、朝露に濡れた小径に淡く刻まれる。まるで白菊の轍が延びていくかのように、澄んだ道が未来へと続いていた。

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白菊の轍 Aoi @Aolemon99

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