第三章

夜、山里を包む静けさは、都のどの夜よりも深かった。

 月は澄んだ光を地に投げ、田の面は銀に染まり、川は鏡のように星を映す。虫の音が遠く近くに響き、空気そのものが呼吸をしているかのようであった。

 貴人は、庵の前に腰を下ろし、空を仰いだ。

 白菊の姿が瞼に焼き付いて離れない。あの岩間に咲いた一輪の花は、確かに何かを語りかけていた。声なき声は胸奥にまで届き、今も静かな余韻を響かせている。

 ──都にいた頃、自らは高貴なる血に縛られていた。華やかな宴の灯りに囲まれながら、内心は冷め、虚飾を纏った言葉の数々に息を詰まらせていた。

 しかし山里に降りてからというもの、言葉なき自然は絶えず貴人に語りかける。鳥の囀りも、風の音も、川のせせらぎも、どれもが澄んだ声を持ち、胸を打ってやまない。

 「人の世を離れたことで、初めて聞こえる声があるのか……」

 独り言のように呟く。

 その瞬間、風が杉木立を抜け、ざわめきが波のように押し寄せた。耳を澄ませば、ただの風音であるはずなのに、そこに「清らかにあれ」という響きを聴き取ってしまう。

 貴人の心は揺れた。

 これは己の幻聴か、それとも確かに自然が伝えようとするものなのか。答えは出ない。だが、確かに胸の奥で光が瞬くのを覚える。それは都では決して得られなかった感覚であった。

 やがて、庵の傍らに咲く野の花に目を留める。小さな紫草の花が夜露を纏い、月明かりを吸い込んで淡く光っている。無名にして儚きその花でさえ、この世に在ることの尊さを語っているように思えた。

 貴人は深く息を吸い込み、夜気を胸いっぱいに受け止めた。

 そこには苦味も甘さもなく、ただ澄んだ冷たさが広がっていた。人の世を去った自分に、自然が新たな道を示そうとしている──そう思わずにはいられなかった。

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