花の舞い手と黒鉄の皇子は神樹の萌芽に愛を誓う
沖弉 えぬ
第1話 出来損ない
風に煽られた巨大な炎が天をも衝く勢いで燃えているのを恐ろしい思いで眺めていた。
「どうして畑を焼くのですか?」
四歳になったフィロは、慣れない敬語と恐怖で舌を縺れさせながら訊ねる。
自分と手を繋いでいる母を見上げると、フィロと同じ青い色をした
母は火など全く恐れておらず柔らかく微笑む。
「必要なことだからよ。こうして畑を焼くことで、大地に力を戻すの。私たちが
まるで火の海のようだ。
麦が刈られた畑は程よく渇き、風に舞った炎がどんどん広がっていく。広大な麦畑が火炎に呑まれていく光景を見て、ひょっとしてこのまま自分の故郷まで燃やし尽くされるのではないかとフィロは恐怖した。
すると母はフィロの素直な反応を見て笑い、その胸に抱き上げてくれる。
母の笑う声を聞きながら、炎の熱から逃れるためにフィロは母の胸に顔をうずめた。
「かあさまは怖くありませんか?」
「そうね、平気かしら。だって綺麗だもの」
あんなに熱くて恐ろしいものが綺麗だなんてかあさまはすごい。
それに母が舞を舞った後は暗い顔をしていた人たちが笑顔になった。
「私はかあさまのような覡になりたいです」
民を幸福にし、笑顔にする。そんな覡に。
「なれるわ、きっとね。でもそのためにはあなたも笑顔でなくちゃいけないわ。ねぇフィロ、母様のことを覚えていてね。私があなたを愛したことを覚えていてね」
忘れませんと答えたのかそれともただ頷くだけだったのか、或いは何の反応も返さなかったかも知れない。この時のフィロはまだ母と今生の別れが迫っていることを知らず、これが母と交わした最後の言葉になるとは露も考えていなかった。
翌日、次代の花覡として黒鉄の帝国の皇帝に挨拶をした後、フィロはイピレティスと共に帰郷する――母だけを残して。
何度説明されてもどうして母と別れなくてはならないのか上手く理解出来ず、フィロは声が枯れるほど馬車の中で泣いた。
イピレティスは言う。フィロがもう少し大きくなって「巡教の旅」をこなせるようになったら、きっとまた母に会えると。イピレティスも寂しそうで、悔しそうで、だからフィロは涙を堪えた。フィロが泣くとイピレティスは余計に悲しそうにするから。
しかし終ぞ母との再会は叶わなかった。フィロが九歳の時に母は亡くなってしまう。巡教の旅が翌年にまで迫ったある日のことだった。
***
この日フィロは巡教の旅の最後の地である、帝都からほど近い農村を訪れていた。帝国貴族が直轄する比較的大きな農村で、しっかりと測量をなされた面積の広い畑が何枚も並んでいる。
よくよく思い出してみると、ここで火入れされた麦畑を母と共に見たのだった。そのせいで十五年も前のことを不意に思い出してしまったのだろう。
残念ながらこの村のことはさほど覚えておらず思い入れは無い。フィロの記憶に焼き付いているのは燃える炎の熱さと母のことだけだ。
フィロは嘗て母が救った畑を一望する。
現在植わっているのは収穫が近いトマトやキュウリといった夏野菜と秋に採れる芋類、そして全体の半分を占める麦だ。そのどれもが長い雨に当たって葉が変色したりせっかく生った実が裂果を起こしたりしていた。
フィロが身の丈ほどもある杖を天に掲げると、その杖に導かれるようにしてぱあっと雲間から夏の陽光が差し込んだ。藁にも縋る思いだった村人たちはまさに神の御業たる光景を目の当たりにしてどよめいた。
「おお!」
「お日様だ……! これで今年も何とか税が納められるかも知れないよ」
母が死んだ日から十年が過ぎフィロは十九歳になった。覡として独り立ちを果たし、巡教の旅にも慣れ、フィロは大地を癒やすために舞を舞う。紗幕のように薄くあえかな太陽の光を受けて、僧が持つ錫杖のように長い杖の突端に嵌め込まれた青い宝石が煌めいた。
この杖はただの杖ではない。神樹から落ちた枝を削ったもので、柄に巻かれた清廉な白い紐には
フィロが杖を振ると人々の視線は舞そのものよりも先端の宝石に吸い寄せられているのが分かった。それは黒鉄の帝国から神花の里へ友好の証に贈られた巨大なサファイアで、その大きさはフィロの拳ほどもある。サファイアが選ばれた理由はフィロの眸の色に似ているからということだった。
けれどフィロはこう思う。サファイアが選ばれた本当の理由はフィロではなく母の眸の色に似ていたからだろうと。皇帝はフィロの母を強引に娶った人だ。
十五年前、母は巡教の旅を終えるとその足で帝都に赴き皇帝との婚儀を行った。最後に見たのは皇帝の隣に座る姿で、母は決してフィロの方を見ようとしなかった。俯くばかりの青い眸がこちらを見てくれない悲しさは、今でも鮮やかに蘇ってくる。
眸の色に限らずフィロは母の面影を濃く受け継いでいた。白い肌、金の髪、柔らかい眦に、高すぎない鼻。頬骨も顎もあまり尖っていないので同年代より少し幼く見える顔立ちに、真っ青な色彩が目を引く。もし父に似て焦げ茶の眸だったら一体どんな宝石が贈られたのだろうと考える。
しかし所詮、宝石の色など大して関係ないのだ。何が友好の証かと、宝石を押し付けられた時にイピレティスも憤っていた。
黒鉄の国が帝国と呼ばれるようになってから四十年余り、この巨大な青い宝石は聖域と呼ばれる神花の里さえも帝国の意のままになるという「示威の贈り物」に過ぎなかった。
母を奪った皇帝が治めるこの土地への思いは複雑だが、神樹の恩恵を大陸中に届けるのが覡の使命だ。
フィロは村人たちを助けるために、神樹に捧げる舞を舞う。宝石の分だけ重くなった長い杖をそれでも優雅に操って、腰に届く長い金の髪を風にたなびかせる。白くたおやかな覡装束がひらひら宙を泳ぎ、首元では母の形見である首飾りが揺れた。
俄かに裂けていた果実が修復され、葉は艶やかな緑に染まっていく。根腐れしかけていた麦には生命力が戻っていき、たっぷりと実をつけた麦の穂が重たそうに風にそよいだ。しかしその様子はまたいつ雨に打たれるかと不安に揺れているようにも見えた。フィロの呼んだ太陽の光は頼りなく、またすぐにでも雲に隠されてしまいそうだ。
神代の時代には路傍の花を咲かせるに過ぎなかった小さな力は、云千年という途方もない時代が流れ、時に風雨を、時に太陽を呼ぶまでになった。そうして覡は民草の心を安んじてきたが、フィロの力は歴代の覡たちと比較するとあまりに心許なかった。
舞を舞う最中に村人たちの会話が聞こえてきた。
「みるみる畑が蘇っていきますよ!」
「ああ、だが先代様はこの比ではなかったよ。当代になって覡の名を聞かなくなったと思ったが、これではな……」
舞を終えるとフィロは杖を胸元に引き寄せて握りしめる。母の時代を知る老爺の目にははっきりと落胆が滲んでいた。
希代の花覡と呼ばれた母ローサから教わった形見のようでもある祈りの舞を、どれだけ正しく舞おうと曇天の空を快晴に変えられたことは一度もなかった。その逆もまた然りで、日照りに慈雨を降らせた試しもない。
溜め息が零れそうになって、きゅっと唇を引き結ぶ。
もしもフィロではなく母が舞を舞っていたら、金の麦穂に勝るほど輝く黄金の太陽がたちまち空を席巻していたのだろう。
「覡様、感謝致しますぞ」
農村の長らしき老婆が胸に手を当てて礼を告げた。その顔には喜びも悲嘆もない。大人としての対応だ。こういうのが一番堪えた。何故なら最初からフィロに期待していなかったことが分かってしまうから。
老婆の背後には金品を積んだ荷車が用意されている。受け取ってほしいと言われたが、謹んで辞退した。
「感謝の心はどうか神樹への祈りに代えてください。私はあくまで神樹の力をお借りしただけの覡に過ぎませんから」
フィロの慎ましい態度を見て老婆はその顔に安堵の笑みを浮かべた。彼女のその反応をさもしいとは思わない。帝国の圧政が続く中、更に年々おかしくなっていく天候のせいでどの国も常に食料不足に陥る不安を抱えている。寧ろ覡として民の不安を癒やしてあげられない自分が不甲斐なかった。
ミユディア大陸のほぼ中央に位置する黒鉄の帝国は、四十年前に起きた戦争にて大陸の覇者となった。嘗ての「黒鉄の国」を含む「狩猟の国」「医術の国」「商業の国」の四大国のうち、狩猟の国と医術の国を降してしまうと、周辺の小国を取り込んで「黒鉄の帝国」と呼ばれるようになった。狩猟の国も医術の国も現在は帝国の属国である。
黒鉄の国は剣に秀でており、戦いにおいて狩猟の国を抑え大陸随一の戦力を誇っていた。しかし、黒鉄の国に勝利のきっかけを齎したのはフィロの故郷である「神花の里」だった。
黒鉄の国は長引く戦争の中である時突然、「神花の里の守護者」を自称したのだ。今でこそ神樹信仰は衰退の一途を辿りつつあるが、当時は絶大な影響力を持ち、里の守護者を名乗り出た黒鉄の国へ弓引く者はいなくなった。
神樹が集める信仰心を盾に大陸のほとんど全てを支配下に置いた帝国だったが、「神花の里の守護者」という立場はもはや忘れられ、帝国は里にとって単なる支配者と化してしまった。里が帝国の法の下に生きていくことになるのは時間の問題だろう。
農村での巡教を終えたフィロは、現在帝都へと向かっていた。
セミタデイ水路橋の上を神花の里から走らせてきた箱馬車がカラカラ車輪を回してのんびり進む。馬車の速度が遅い理由は、主にフィロを休ませるためだ。舞は神樹の持つ神に属する力を使うので、舞った後は体力を大きく消耗した。
芯から眠るというほどではないが目を閉じてとろとろと微睡んでいると、イピレティスの「橋に来ましたよ」という声を聞いて体を起こした。
イピレティスは母の代から仕えてくれていて、今年で七十歳を迎える従者だ。フィロの胸までしかない身長と、忠義に溢れた黒い目をしている。髪は随分白くなった。
窓を開けると一気に視界が開けて思わずわっと声が出る。高さも長さも大陸一の石橋である水路橋は、帝国の景勝地であり、水の運搬という実用性も兼ねている。高い所を吹き抜けていく風に頬を打たれていると、もやもやした気分も一緒に吹き飛んでいくようで心地が良い。とは言え、明日のことを思うとすぐに気分は落ち込んでいく。
帝都へ来たのは、属国の元首たちを集めて行われる定例会に参加するためだ。本来、神花の里からは里長のダンテが参加しなくてはならないが、巡教の旅の帰路、ある町の宿に宿泊していたフィロの元へ「娘が熱を出したので代わりに皇帝陛下に謁見してほしい」という旨が認められた手紙が届き進路を変更することになった。三年前にも「妻が倒れたので」といってフィロが定例会に参加したのではなかったか、というイピレティスの指摘は黙殺した。
ダンテの心情はフィロにも理解出来た。彼は自身の娘を皇子の伴侶として連れていかれることに怯えているのだ。母を皇帝に取られたフィロは、家族と別れる辛さをよく知っている。
「巡教の旅にかこつけてフィロ様に里長の役目を押し付けてくるとは、ダンテ殿の臆病風には参りますな」
「そうだね。彼にはしっかりしてもらわないと困るけれど……」
「フィロ様は優しすぎるのです。巡教の旅はあの者が逃げの口実に使うためのものではありませんぞ」
巡教の旅とは先の村で行ったように、舞を通じて神樹の力を各地に届けて回る旅のことを言う。
神樹は正しい名を「ユディの神樹」といい、この大地に息づく全ての命の根源である。神樹があるからこそ花が芽吹いて作物が実り、慈雨が降って光が注ぐ。人さえも神樹の恩寵のもとに生きて死ぬのだ。
しかしながら、現在では神樹への信仰心はほとんど失われたと言っても過言ではない。原因は主に二つあり、一つは十五年前に
もう一つはフィロの力が不十分なせいだ。フィロが覡を継いだ時はまだ四歳と幼く、それを理由に六年の間巡教が行われなかった。その間里には苦情が絶えなかったそうだが、その後巡教を再開させてもフィロでは天災から守り切れず、覡は希望の象徴ではなくなってしまっていた。
水路橋を渡り切るといよいよ帝都が目前に迫る。時折水溜まりを通って水が跳ねる音がしていたが、やがて舗装された道に出ると馬車の揺れも格段に少なくなった。検問を終えると馬車は帝都を守る堅固な城塞を抜けて大通りに入っていく。
皇族の紋章である鉄の大剣を描いた旗が並ぶ通りを行く人々は、大陸の危機などまるで知らぬ顔で、誰も彼もが上等な服に身を包んでいる。属国から吸い上げた税によって豊かな暮らしを送り、平民でさえも自分たちのことを上級国民だと自称していた。
国民にそう思い込ませる原因を作り続けているのは、帝国の皇帝をおいて他にない。その名をヴァルター・フォン・シュヴァルツェスという。フィロの母を奪った男の名である。
皇帝の居城である黒鉄の城は大陸のほぼ中央に位置しており、更に政治の中心地であることから大陸の臍と呼ばれていた。城は堅牢な石造りで、その無骨な姿は全体的に灰色がかった外観も相俟って威容を誇っている。
「三年ぶりでございますな。城の物々しさは相変わらずの様子」
黒鉄の城を遠目に眺めてイピレティスが冷たい声を出した。
「そういう物言いは私の前でだけだよ、イピレティス」
「これは失礼を」
彼の返事が形ばかりのものであると分かったが、それを責める気にはなれなかった。
フィロがこの国に対して抱く感情は複雑だ。
母が嫁いだ城。母の最期となった土地。そして、フィロから母を奪った皇帝の治める国――。
恨みや憎しみといった感情を持ちたくないのに、そう思えば思うほど胸の中は落っことしたケーキのようにぐしゃっと散らかるのだ。
皇帝さえ居なければ、母はもしかして生きて今も舞を舞っていたのかも知れない。そうしたら世界は困窮せずに済んだのかも知れない。
そんな風に、どろどろした感情が次から次へと溢れて止まらなくなってしまう。
「……私が不出来なばっかりに、花は咲かないし、ミユディアはどんどんおかしくなっていく」
つい弱音が口を衝いて出た。
老いても地獄耳は健在のイピレティスがフィロの呟きを聞き取って、小さく息を漏らす。呆れたような嘆息に聞こえ、咄嗟に謝ってしまう。フィロが覡の役目を全うしていれば必ず神樹の花は咲く、だから自信を持て、とイピレティスには何度叱られたか分からないのでうんざりしてしまうのも無理はなかった。
「フィロ様、時に爺はこう思いまする。花をつけぬのが、或いは神樹の定めなのやも知れぬと」
もしかしてフィロの弱気がイピレティスにも移ってしまったのだろうかと疑うような発言だ。いつでもフィロを励ましてくれる前向きなイピレティスにしては珍しく、フィロは首を傾げる。
「それはどういう意味だ?」
イピレティスが答えるよりも先に馬が嘶いた。
馬車が急停止し、フィロたちを乗せた車体が大きく揺れる。イピレティスの小柄な老体が車体に振り回されそうになって、すかさず腕を出して庇った。馬が落ち着くのを待ってから窓の外を確かめる。
そこには大通りを横切るようにして一台の箱馬車が停まっていた。実に四頭もの馬に引かせたかなり大仰な馬車だ。
「そこに見えているのはどこの田舎の馬車だ?」
中から聞こえてきたのは少年とも青年ともつかない若い声だった。
定例会を明日に控えた帝都は常にない賑わいを見せており、通行を妨げているせいでどんどん人が集まってきている。こんな目立つようなことをしては兵士に捕らえられかねないのだが、一体どこの誰なのだろう。
フィロのように元首の代理としてやってきた人間の可能性に思い至り、早く道を開けた方が良いと助言するべく馬車を降りた。
改めて見てみると金細工の飾りや実用性に欠けた車輪の形状など、とても遠出をしてきた馬車には見えなかった。
奇妙に思いつつも、金粉を刷いたカボチャのような形をした馬車の前に立ち居住まいを正す。すぐに相手方の御者が金の扉を開け、現れた年若い男の姿を見て合点した。
「クリストフ殿下。ご無沙汰しております」
折り目正しく挨拶するフィロに対し、クリストフと呼ばれた青年(或いはまだ少年と呼ぶべき年齢かも知れない)は声を掛けたのがフィロだったと分かるなりどこか見下したような笑みを浮かべた。
「まさかフィロ兄様が乗っていらしたとは。このような古めかしい馬車に乗る人なんて初めて見ましたよ」
フィロと同じ真っ青な目が意地悪く歪んでいる。
これが――と、落胆が押し寄せてくる。これが帝国に嫁いだ母の産んだ、フィロの異父弟。会うのは三年ぶりだが、以前にも増して嫌味な態度を隠さなくなっている。
最初に声で気付かなかったのは、大人になって声変わりを迎えたからだった。背も伸びて間もなく追い越されそうになっている。フィロは同世代より背が低いので一年後にはクリストフの方が高くなっているだろう。
クリストフと最初に出会ったのはフィロが十歳の頃。初めての巡教の旅を迎えた日、黒鉄の帝国を訪れた際に見たクリストフはまだ五歳で年相応の可愛らしさがあった。茶色の巻き毛に大きな青い眸と、鼻から頬にかけてそばかすが散っていて、笑うとそばかすごと頬が持ち上がるのが印象的だった。
けれど、母を亡くしてまだ一年足らずだったあの頃のフィロは、母と暮らしていたクリストフのことが羨ましいという気持ちが強く、とても仲良くなろうという気にはなれなかった。父が違っているせいか目の色以外似ていないこともあり自分の弟だという実感が湧かなかったのもあるだろう。
あの日から九年。帝国を訪れる度にクリストフの態度は横柄になっていき、兄を兄とも思わない振る舞いをされて、以前にも増して彼と親しくなることは難しくなってしまった。たとえ半分しか血が繋がっていなくともフィロにとって唯一の肉親であるのに対し、クリストフは皇帝から寵愛された第二皇子だ。望むもの全てが手に入るような立場のクリストフには、落ちこぼれの覡の兄など不要なのだろう。
「その目。本当に僕とそっくりな色をしていますね」
クリストフは嘆くように言った。同じ色の眸にフィロを映し、それを瞼で押し潰すようにして目を眇める。
「忌々しい。僕はこの目が嫌いなんです。皇帝の権力に目が眩み、夫と子供を捨てた女の産んだ子だと、僕はこの目のせいで一生言われ続けるんですから」
クリストフの嫌悪には一切容赦がなかった。どうしてこんな公衆の面前で晒し上げるようなことを言われなくてはならないのか。
背後で息を吸った気配がして咄嗟に手で制す。イピレティスの怒りは痛いほど理解出来るが、ここで反論すればクリストフはそのことを皇帝に伝えるだろう。フィロならまだしも従者であるイピレティスは不敬を理由に拘束されてしまうかも知れない。自分や母のためにイピレティスがそんな目に遭うのは嫌だった。
母が帝国に嫁いだのは権力に目が眩んだからではない。そう反論したい気持ちをぐっと堪えてクリストフを真っすぐ見つめ返す。好きなだけ言えばいい。真実はクリストフの言うようなものではないし、口汚く罵るほど彼の品位が落ちるだけだ。実弟がこんな風に育ってしまったことは悲しいけれど、フィロに何が出来る訳でもない。
フィロが毅然としたままでいると、やがてクリストフは興味を失ったようになって馬車に戻っていく。
「覡なんて、馬鹿馬鹿しい。ではまた城で」
最後に憎々しげに捨て台詞を吐いてから黄金の馬車が去って行く。遠く小さくなるのを見てカボチャのようだと思った車体が王冠を模していたことに初めて気が付いた。二人のやり取りを遠巻きにしていた民衆から徐々に喧騒が戻ってくる。
ざわりと胸の中で受け入れ難い感情が蠢いて、それに反発するようにフィロは口を開く。
「私は誰かを恨みたくない」
せめて清い心を保ち続けなければ、覡の力が不十分なフィロには神樹の花を咲かせることも天災からミユディアを守ることも出来ない気がしていた。しかしそれももう、最近は限界を感じている。
皇帝やクリストフを疎ましく思ってしまう気持ちは変えようがないし、どれだけ舞を舞ってもその成果は上がらない。
「母のようになりたかったな」
希代の花覡と謳われて、明るく優しい人柄を愛された母のように。夢はあまりにも遠い。
「なれますとも」
イピレティスは力強く頷いてくれる。その目はフィロが立派な覡になれることを心から信じてくれている目だった。
だけどそれがかえって辛かった。イピレティスの期待は、今のフィロにはあまりにも重い。
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