第2話 希望

 俺は普段着の中で一番マシなチェックのシャツに袖を通し、戦いの舞台である駅前の商店街へと向かった。

  

 これはクエストのための装備であり、不審者に見られないための擬態でもある。

  

 だが、緊張しながら街へ出たものの、世界は拍子抜けするほど俺を必要としていなかった。

  

「困っている人」というのは探すと驚くほど見つからない。

  

 誰もがスマホを片手に自分の問題を解決し、お年寄りも矍鑠(かくしゃく)と歩いている。俺が介入できる隙間などどこにもなかった。

  

 しかし三十分ほど商店街を行ったり来たりして、そろそろ八百屋の店主に顔を覚えられないだろうかと焦り始めた頃、ついにその時が来た。

  

 スーパーの入り口で、買い物袋を両手に抱えて難儀しているおばあさんを発見。

  

 イベント発生だ!

  

 俺は心臓の鼓動を感じながら、慎重に距離を詰める。

 脳内では完璧なシミュレーションが展開されている。

  

『お困りですか? 荷物、持ちますよ』と、爽やかな笑顔で声をかける。

  

「あ、あの…!」

  

 意を決して声を絞り出したが、それは自分でも驚くほど弱々しい声だった。

  

 おばあさんは俺に気づかず、ふぅと一息つくと傍らのキャリーカートに器用に荷物を積み始めた。

  

 そして、俺の横をゆっくりと通り過ぎていく。

  

「…………」

  

 張り付いた笑顔と、伸ばしかけた手のやり場に困り俺はただ立ち尽くすしかなかった。

  

 誰も見てないはずなのに周囲の視線全てが自分に刺さっている気がして、顔が熱くなる。

  

 この失敗で心が折れかけたが、ここで諦めたら永遠に村人Aのままだ。

  

 俺は気を取り直し舞台を公園に移した。

  

 ベンチに座り、水を飲むフリをしながら観察を続ける。


 やがて、俺の5メートルほど前を走っていた男の子が派手にすっ転んだ。

  

 泣き声が響く。チャンスだ!

  

 俺は立ち上がった。

 今度こそスマートに決める。

  

「大丈夫かい?」と優しく声をかけ、ポケットに忍ばせた人気キャラの絆創膏を差し出す。

  

 完璧なプランだ。

  

 だが、俺が数歩踏み出したところで男の子の母親が慌てて駆け寄ってきた。

  

「大丈夫?」

  

 母親は優しく子供を起こしてやり、土を払ってやる。


「いい?転びそうになったら手を先に地面につけるのよ」

  

 小さくうなずいて男の子はすぐに泣き止んだ。

  

 俺はまたしても中途半端な位置で固まるしかなかった。

  

 そしてそれに気がついた母親は訝しげな顔でこちらを一瞥する。

 その視線が俺の心を深く抉った。

 俺の世界のNPCの癖に、なんという目で主人公を見るのだ。


 ━━ 子グマを守る母グマは、異常なほどの攻撃性を見せる。

 どこで仕入れたかも忘れたそんな知識を頭の片隅で思い出しながら、俺は慌てて踵を返し足早に公園を後にした。

  

 背中には「不審者」というレッテルを貼られていた気がした。

  

 打ちひしがれてとぼとぼ帰路につく俺の目に一つの光景が飛び込んできた。


 駅裏の薄暗い路地。

 三人の高校生らしき若者たちがいた。

 派手な金髪の二人組が地味な印象の男子生徒一人を取り囲んでいる。カツアゲだ。

  

 脳が警鐘を鳴らす。

  

「さすがにこれには関わるな。逃げろ」と。

  

 だが同時に別の声が囁いた。

 これが最後のチャンスじゃないのか?

 ここで彼を助ければ莫大な善行ポイントが手に入るはずだ。

 たとえ俺が返り討ちにあっても、その魂の輝きは確実に転生のトリガーとなる。

  

「…やるしかない」

  

 覚悟を決め俺は路地へと一歩踏み出した。

  

「そ、そこまでだ!」

  

 絞り出した声は情けなく裏返っていた。

 三人の視線が一斉に俺に突き刺さる。

  

「あ? なんだテメェ」

  

 金髪の一人が値踏みするように俺を睨みつけた。怖すぎる。クラスにもこんな怖い顔した男子はいない。

 

 が、もう後には引けない。

  

「つ、次はお前が…弱い者いじめされる側に…なっ、なってみるか?」

  

 震える声で、かつて3日連続徹夜で一気読みしたWeb小説の主人公のセリフを丸パクリする。

  

 それを聞いた金髪二人は、一瞬きょとんとし、それから顔を見合わせて下卑た笑みを浮かべた。

  

「ヒーローごっこか?消えろ」

  

 彼らは俺を完全に無視し、再び地味な生徒に向き直ろうとした。

 だが俺は動かなかった。

 ここで引いたら、俺は本当にただの臆病者で終わり一生転生できなくなってしまう。

  

「やめろって言ってるんだ!」

  

 今度はさっきより少しだけ大きな声が出た。

 その言葉に、金髪の一人の表情から笑みが消えた。

  

 彼はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

  

 一歩、また一歩と近づかれるたびに威圧感で呼吸が浅くなる。

 そして俺の目の前で立ち止まると彼は何の前触れもなく俺の腹部に拳を叩き込んだ。

  

「ごふっ…!」

  

 鈍い強烈な衝撃。

 初めて体を人に殴られた。

 息ができない。

 熱い太い棒を腹に押し付けられたような原始的な痛みが一瞬にして広がる。

  

 俺は「く」の字に折れ曲がり、その場に倒れ込んだ。 

  

 一気に胃の内容物が喉元までせり上がってくる感覚。 

 しかし悶絶する一方で、「そういえば今朝なに食べたっけ?何を吐くだろうか?」と冷静に俯瞰していることにも気がついた。

  

 だがその間も肉体は酸素を求め、肺が痙攣する。

 視界は白く点滅し、耳の奥でキーンという音が鳴り響く。

  

 金髪たちは何事もなかったかのように生徒から金を取り上げると、俺を一度も見ることもなく路地裏の闇へと消えていった。

  

 一人コンクリートの上に蹲ったまま俺は激しくうめき声をあげた。

  

 ようやく肺に空気が流れ込み、いつの間にか出ていた涙と涎で顔はぐちゃぐちゃになっていた。

  

 腹の痛みは震源地から鈍痛がじわじわと全身に広がっていた。

  

 だがその痛み以上に、心が痛かった。

 俺はただのサンドバッグだった。

 彼らの鬱憤を晴らすための都合のいい的。

  

 惨めだった。唸りながらふと目に入った空にそれはそれはきれいな月が浮かんでいるのが余計に虚しかった。

  

 俺は今世ではあまりにも無力で、無価値だった。痛みと屈辱に震えながら傷ついた動物のように自室へと逃げ帰る。ベッドに倒れ込み顔を枕に押し付ける。

  

 俺は転生はできない…


 物語の主人公なんかじゃない…


 この世界で俺に与えられた役職は、ただ殴られ、罵られ、踏みつけにされるだけの名もなきモブだったのだ。

  

 枕が熱いもので滲んでいく。

  

 それは自分のどうしようもなさを突きつけられた絶望の温度がした。

  

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