第6話 顔の見える関係
【十一月二十日――冷たい朝靄が、サトウキビ畑を白く染める】
本田義郎、七十四歳。硫黄島の自治会長を十二年務める。今朝も、硫黄岳の湯けむりを見上げながら家を出た。いつもの風景だが、今日は少し濃い。ネット中傷防止条例の説明会がある日だ。
集落の公民館には、二十人ほどが集まっていた。顔はすべて知っている。島で生まれ、島で老いる。だが、今日の話題は「島の外」のことだ。
「皆さん、本条例は、島の和を守る盾です」
私は、声を張った。だが、心中では別の声がする。――本当に、盾になるのか? それとも、新たな壁になるのか?
八十代の女性、トメさんが、手を挙げた。声は小さい。
「私、SNSってやつに、『くそばばあ』って……」
言いかけて、口をつぐんだ。顔が赤くなる。島の恥、と言いたいのだろう。私は、代わりに続けた。
「トメさんは、孫の写真をアップしたら、匿名の方からそう呼ばれた。それが、本条例の対象です」
会場がざわついた。
「和を壊すのは、ネット対策じゃないのか?」
「顔の見える関係を、条例で壊すんじゃないか?」
声が、飛ぶ。私は、手を上げた。
「条例は、顔の見えない悪口を、顔の見える話にする。それだけです」
だが、自分の言葉が、空回りするのを感じた。
午後、高齢者宅を訪問。足腰の弱いタエさん、八十二歳。家の入口には、昔ながらの網戸がかかっている。中から、猫が顔を出す。
「自治会長、よう来てくれた」
私は、相談窓口のチラシを差し出した。
「スマホで、嫌なことがあったら、電話してください。私が、代わりに操作します」
タエさんは、苦笑いした。
「娘に頼む。役所の子に、また変な写真送られるかと思って……」
私は、言葉を失った。1970年の名簿を思い出す。あの時は、六百五十五人いた。今は、四百七人。島が小さくなると、心も小さくなるのか。
夕方、干拓畑の端。元自治会長の島田さんが、枯れた稲わらを手に取っている。六十七歳。私の前任者だ。
「本田、若者が流出する中で、ネット対策が優先か?」
島田さんは、稲わらを指で割った。
「昔は、隣同士で稲刈りを助け合った。今は、スマホで罵り合う」
私は、黙った。硫黄岳の湯けむりが、夕日に照らされる。昔からの風景。だが、今は新しい光もある。スマホの画面だ。
「島田さん、和を壊すのは、ネットじゃない。見ないことだ」
私は、言った。だが、自分の言葉に、自信はない。
夜、自宅の縁側。孫のハルカが、スマホを操作している。十一歳。指が、画面をなぞる。速い。私は、後ろから覗き込む。
「じいちゃん、今日の説明会、どうだった?」
「皆、心配してる。和が崩れるって」
「和って、なに?」
私は、答えに詰まった。干し柿を並べながら、考える。
「顔の見える関係だ」
「じゃあ、ネットでも顔出せばいいじゃん」
ハルカは、カメラを起動した。私の顔が、画面に映る。しわが、増えている。
電話が鳴った。息子からだ。本土に住んでいる。
「父さん、ネット中傷対策より、医療アクセスを先にしろよ。母さんの足、悪化してるだろ」
私は、縁側の足を見た。腫れている。だが、病院まで船で二時間。ネットで予約できない。
「わかってる」
「わかってない。島に縛られすぎだ」
電話が切れる。硫黄岳の湯けむりが、闇に浮かぶ。昔からの風景。だが、今は新しい風も吹く。家族の風だ。
深夜、電話が鳴った。ハルカが寝た後だ。受けてみると、近所のミヨさんからだ。七十代。
「自治会長、明日、スマホの使い方、教えてもらえないか」
私は、驚いた。
「ネット中傷、受けたのか?」
「違う。孫の顔が見たい。画面が小さすぎて、押せない」
私は、うなずいた。そして、約束した。
電話を切った後、縁側に出る。干し柿が、月に照らされる。赤と茶の色合い。島の和だ。
私は、呟いた。
「条例は、技術的解決策ではない。顔の見える関係を取り戻すための道具だ」
硫黄岳の湯けむりが、静かに立ち上る。昔からの風景。だが、今は新しい風も吹く。孫の風だ。
明日、ミヨさんに教える。スマホの操作を。そして、顔の見える関係を。島の和を、デジタルでも続ける方法を。
私は、干し柿を一つ、口に入れた。甘くて、少し渋い。島の味だ。
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