第5話 灯る窓口
【十一月十九日――窓口開設初日、潮風がフロアの隅まで吹き込む】
青木美咲、二十九歳。三島村役場政策課、今日から「ネット中傷相談窓口」の担当。窓口デビュー一分前、名札を確かめながら胸の奥で呟く――「美咲、落ち着いて。あなたはあなただから大丈夫」。
午前八時五十分。受付カウンターに置いたパンフレットの束が、エアコンの風でぱたぱたと鳴る。表紙には大きく「安心相談窓口」とある。でも本音を言うと、私自身が一番不安。
最初の来訪者は九時きっかり。杖をついた八十代の女性、名前はタツエさん。私の祖母と同い年くらい。差し出されたスマートフォーはカバーに桜の刺繍、画面は無数の指紋で虹がかかっている。
「この、ネットとかいうもんに、うちの孫が出とるんですけど……」
眉間に深い縦じわ。私はマニュアル通りに話を聞こうとするが、タツエさんの指は震えすぎてアイコンを開けない。
「すみません、ここを軽く……」
私が指先でサポートしようとすると、タツエさんはびくりと手を引く。
「娘に頼みます。役所の子に触られたら、また変な写真送られるかと思って……」
その瞬間、マニュアルの文字が灰色に変った気がした。削除要請書類を差し出す手が止まる。
結局タツエさんは「孫に聞いてみる」と杖をつきつき帰っていった。窓口記録簿には「相談継続見込み」とだけ記入。数字で見る高齢化率27.3%が、実際の肌の温度で初めて重さを持った。
午後一番、川村彩さんが来庁。三十八歳、主婦。黒いパーカーのフードを深く被り、目元を隠している。
「十一日間、我慢しました。でも、もう無理です」
差し出されたスマホ画面――インスタグラムのDM欄に並ぶ文字。
「ブス」「消えろ」「うざい」
青白い光が私の顔を照らす。外のサトウキビ畑がオレンジに揺れている。デジタルと現実。同じ島でこんなに温度差があっていいのか。
マニュアル通りに説明する。
「削除要請を行う場合は、こちらの書類に被害URLと投稿者IDを……」
言い終える前に川村さんの手が震えた。涙が画面に落ち、指紋と混じる。
「IDなんて、わかりません。写真も保存できない。子供が『スルーしなさい』って……でも夜になると布団の中で震えてるんです」
私は机の下で拳を握る。役所言葉の裏側で心が叫ぶ――「この一枚の紙が、壁になってる」
「川村さん、今日は書類の記入を無理にしなくて大丈夫です。まず、お話だけ聞かせてください」
私はスマホを返し、メモ帳を閉じた。窓口のガラス越しに見える東シナ海が、十一月の冷たさで灰色に光る。
夕方、自治会長の本田さんが七十代の男性を連れてきた。名前は、フミオさん。島生まれ島育ちの漁師だという。
「孫に、『じいちゃんのことネットで笑われてる』って言われてな。島の恥って……」
フミオさんは顔を背ける。本田さんが代わりに話す。
「匿名で書き込まれた『あの爺はもう船降りろ』。波しぶきの写真付きだ」
私は規程通り「匿名性尊重のため、投稿者特定は致しかねます」と答えた。でも本音は――「この人の顔、見たことある。朝市でイカを叩き売ってた」――島の和が、画面の中でバラバラにされる痛みが伝わってくる。
「削除って、できるんか?」
フミオさんの声が震える。
「法的根拠があれば、要請は可能です。ただし、運営者の対応に依存します」
「要請して、断られたら?」
正直、わからない。マニュアルには「その場合は民事手続を検討」とある。でも、船を降りたくない七十代に、裁判なんてとんでもない。
「私たちで、まず押さえるところは押さえます。それから、一緒に次を考えましょう」
私は言葉を選んだ。法的正確さより、心の距離を縮めたい。役所の冷たい床の上で、小さな火を点したい。
夜、七時。オフィスの蛍光灯が乾いた音を立てて残業モードに入る。中原くんと向き合い、手書きの改善案を作る。
・電話相談受付ルール(スマホ操作不要)
・代理操作は録音・同意書で対応
・書類記入は後回し、まず話を聞く
・訪問相談も可(要予約)
「青木さん、今日の三件、どう思う?」
「マニュアル通りじゃ回せない。でも、マニュアルを破ったら、また別の穴が開く」
私は人口407人の名簿を開く。二十七・三%が六十五歳以上。全員に届く方法は、一つ一声しかない。
中原くんがコーヒーを淹れてくれる。湯気が立ち上る、小さな湯けむり。
「窓口の意味、見えた?」
「見えた。条例は剣じゃなくて、盾。でも、盾を持たせる前に、持つ手を支えないと」
私は壁に貼る用のメモを書く。
「ネット中傷相談窓口 電話だけでも大丈夫です」
文字は震えている。でも、これが私の答え。
名簿の最初のページに赤いペンで印をつける。
明日、電話をかける。タツエさんへ。
「おばあちゃん、昨日は突然でした。もう一度、ゆっくり話しませんか」
窓口を消灯する。硫黄岳の湯けむりが、月に浮かぶ。冷たい北風が、オレンジのサトウキビ畑を渡る。でも、私の中に小さな
明かりを消す。ガラスに貼ったメモが、外の光で白く浮かぶ。明日、誰かがその文字を見て、勇気を出すかもしれない。そう信じて、オフィスを出る。
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