ローニアナの来訪
「――あーもう、お尻痛いんだけど」
誰に聞かせるでもない、独り言ちた少女の声は、狭い車内に吸い込まれていく。
朝、修道院を発ってからというもの、数度の休憩はあれ、半日以上はこうしてガタガタと揺れる馬車に揺られていた。昼間は暑ささえ覚えた厚手の外套が、今ではブランケットなしには凍えてしまいそうなほど頼りなく感じる。
「もうすぐ、かな」
羊毛のグローブをはめた指先が、カーテンを少し開く。たちまち入り込む夜風が、彼女の髪を揺らし、青みを帯びた瞳には黒々とした夜の森が映っていた。
――長旅も、もう終わり。木々の並びがまばらになって、森の終端を知らせる。下り坂に差し掛かり、馬車が僅かに加速するのを感じた。
ローニアナ。彼女の乗る、シュヴァルデン家の紋章があしらわれたその馬車が、モルヴァレスの村へと駆けていく。
――――
ベッドに腰かけ、黒パンを齧る。辺境伯の娘さんが来るとか何とかで、今日は盛大な晩餐会を開くそうだ。故に午後の飯は抜かれ、俺はこうして空きっ腹に若干渋いパンを詰め込んでいる。
従者の居室には俺以外誰もいない。晩餐会の用意やら客間の準備やら、今日は皆昼間から忙しそうにしていた。ゴラートの剣の稽古も取りやめになり、俺は特段の仕事を振られることもなく……
と、呆けていたところで、外が騒がしくなってきた。広場のあたりに馬が走ってきたかと思うと、すぐにカラカラと車輪の音が聞こえてくる。馬車だろうか。とすると、ようやくお越しになったのだろう。
――――
馬車の戸が開けられ、中から少女が降りてくる。その足取りは、この訪問を待ち遠しく思っていたことを表すように軽やかだ。
「ローニャ!久しいな」
「おじさま!」
越冬祭に参加すべく、ローニャは毎冬をこのモルヴァレスで過ごしていた。領主であるゴラートは、彼女の父―アルブレヒトの旧友であり、その娘ローニャも、この世に生を受けた頃から知っている。
彼女の従僕が荷物を運ぶ間、当のローニャはと言うと、ゴラートと従者達、それからマルタとのお喋りに夢中であった。この時ばかりは寒さも忘れ、一年ぶりの再会を喜んでいる。
「そろそろ入らないか、続きは晩餐の席としよう」
「そうね、今年は随分冷えるし」
「その上、珍しい客も居るんだ——」
ローニャはゴラートに促され、客間へと向かった。
――――
「――ヒロさん」
不貞寝よろしくベッドで横になっていると、視界にミロシュが飛び込んできた。
「うわっ!……どうしました?」
「ゴラート様が『晩餐にはヒロも参加させよう』と言い出しまして、急で申し訳ないんですが、出席をお願いできませんか?」
空腹に悩まされている身としてはありがたいお誘いだが、貴族の娘さんが居る席となると食事が喉を通るかどうか。
「……有難く、お誘いを受けましょう」
「では、広間で待ちます。開始はローニャ様のお召替えが終わり次第との事です」
そういうと、ミロシュは小走りで部屋を出て行った。
――――
軽く着替えて広間に行くと、ゴラートを除く皆―従者の四人をはじめ、女中のマルタとブリジットまでもが席についていた。
「ヒロ、急に呼びつけて悪いな」
ゴラートはやけににこやかだ。
いつも通りミロシュの横に座ろうとすると、ゴラートが「こっちだ」と、いつもはドヴラフの座っている、上座の方へ促してくる。
「珍しい客人は紹介してこそだ。ローニャに気に入られれば、お前の身元の手がかりが掴めるやもしれんしな」
その言葉に驚く。
「もしかして、その為に俺を?」
「ついでだついで。ローニャとしても、顔ぶれの変わらん晩餐もつまらんだろう」
そう話しているうちに、広間の扉がゆっくりと開く。従僕に次いで、一人の少女が現れた。
どちらも少女ながら、マルタの人懐っこそうな雰囲気とは違う、どこか気品の漂うその姿。顔立ちには幼さが残りながらも、力強い目つきと締まった口元が、少女が生まれついて持つ立場、品位というのをよく表している。
彼女はにこやかにマルタを見やって、俺の正面の空いた席へ向かう。従僕が引いた椅子にゆっくりと腰掛け、目が合った。
驚いたように眉を上げながらも、口角を上げ、小さく会釈する。はあ、確かにこれが――生まれてこの方見たことのない、貴族の娘ってやつなんだろう。
「ローニャ。改めて、よく来てくれた」
「やめてよ、毎年のことでしょ」
「そうは言っても、お前もそろそろ自由奔放には動けなくなるんだ。今年が最後かもしれないと思って――」
「バカな事言ってないで、皆乾杯を待ってるのに」
そうでしょう?と言わんばかりに、ローニャは皆に目配せする。
「……そうだな。では、冬の訪れに」
「冬の訪れに」
乾杯が済んで、ローニャはゴラートとの世間話に入ってしまった。シュヴァルナ――辺境伯の居城の辺りでのことや、王都の噂。港湾都市―これは辺境伯領の北端にあるらしい―への木材の輸送など、少女がするにはあまりに実務的というか、もう少しキラキラした話でもしないものかと思うのだが、相手がゴラートであれば致し方のない事か。
そんな話に一区切りついたのか、ゴラートがこちらに目を向ける。
「ああ、遅くなったが紹介しよう。ヒロだ」
「初めまして、ローニアナよ」
脈絡もなく紹介された割に、あっさりと受け入れられた気がする。
「ローニアナ様、初めまして。私は――」
軽く自己紹介でも、と思ったところでゴラートが割って入る。
「コイツが森で遭難してたのを偶然拾ってな。以来、ここで住まわせているんだ」
「まあ、それは災難なことですね。見かけないお顔ですが、ご出身は?」
「魔術か呪いか、覚えていないそうだ」
ゴラートの言葉に、ローニャは少し考える。そうして――
「魔術であれば、シュヴァルナの司祭に相談すると良いかもしれませんね。
「となると、コイツにはもう少しばかり旅をさせねばな」
「オットーさんはこの事を?」
「ああ。だが、リディアの方でも見た事がないそうでな」
「じゃあ、ダルニツクでも手掛かりは望めなさそうね……」
再開された彼らの会話に耳を傾けつつ、俺は食事を進める。シュヴァルナの司祭が高齢で死にかけてるみたいな話をした辺りで、今度はローニャの目がこちらに向いた。
「そういえば、ヒロさんはお幾つなのかしら。随分お若いようですけど」
「今年で二十一になります」
転移で誕生日もクソも無くなった感はあるが、もう2ヶ月もすれば二十一のはずだ。
「まあ!では、ミロシュよりお若いのね」
「あいつが今年で二十八だからな。にしても、もう少し若いと思っていたが」
責任も苦労も知らない顔ってか。なんて悪態をつくわけにも行かず、愛想笑いでお茶を濁した。
————
晩餐会が終わり、部屋に戻ろうとしていた時のこと。食事終わりの談笑の中、マルタとローニャが仲良く話しているのを見た。
その視線を気取られたか、マルタと目が合う。少し控えめに手招きをされ、渋々ながらに彼女らの元へ。
「ローニャ、ヒロさん……はもう知ってるよね」
ローニャは少しきまり悪そうに、小さく頷く。お構いなしに話すマルタと、歯切れの悪い返答を繰り返すローニャ。俺が居るとお邪魔なんだろう、と離席のタイミングを見計らっていると、ローニャがマルタに耳打ちする。
「——なにかありましたか?」
突然クスクスと笑い出すマルタ。思わずそう尋ねると、彼女は堪えきれなくなったように話し出した。
「この子、どんな口調で話すかをずっと悩んでたんですって!」
「ちょっ、マルタ!」
「だって面白いんだもの!お嬢様らしくするか、私と話すみたいにくだけてみるか、ずっと迷ってたわけでしょ?」
何かと思えば、そう言う事情らしい。部外者の手前、気品を保たねばと言う考えが離れなかったのだろうか。
「その、お気を悪くされないで頂きたいんですが」
さて、どう言ったものか。
「——私は異邦人で、ここに至るまでの記憶もありません。貴女が貴族様のご息女というのは存じ上げていますが、そのような眼鏡で貴女を見るつもりもありません……そう望まれない限りは」
うん、滅茶苦茶に回りくどいが、それなりに気を遣って喋ったつもりだ。
少しの沈黙、言葉選びがマズかったか?
「……あの、もし」
「——いえ。その、そっちの方がありがたいの。ありがたいのだけれど」
「良いでしょローニャ。私にだって、ずっと詳しく話してなかった訳だし」
「まあ……それもそうね」
おそらく、地雷は踏み抜いていない。考え込んで少し伏せていた彼女の目が、しっかりとこちらを向く。
「……じゃあ、普段通りに」
「よかった!じゃあローニャ、どこまで話したかしら?……そうだ、ブリジットが天幕を縫っている時にね——」
一年振りの再会に、いつまでも話し足りない様子のマルタ。彼女の話に相槌をうつローニャの目が、先ほどの——どこか距離を感じる目線ではなく、同じ時間を過ごす仲間へ向けるそれに思えたのは、きっと気のせいではないだろう。
こうして、三人の会話はミロシュが広間の灯りを落としに来る頃まで続いた。
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