真冬の森に入るなら、せめてダウンは欲しかった〔10/5改稿〕

 息が凍る。呼吸のたび、凍てつく空気が喉に送り込まれる。内側に何かへばりついたような息苦しさ、鼻の奥が痛み出す。


 夜食を買いに出た——筈だった。財布もスマホも無しに、薄手の上着だけ羽織って、というのは随分間抜けな話だが、急に腹が減ったのだから仕方がない。


 そもそも、俺は家からコンビニまでの二百メートルあまりを行くだけと思っていたんだ。それがどうして……真冬の、深い森の中に居る?


——無意識に森に入っていた?いや、そもそも今は春のはず。そう、年度替わりの憂鬱な季節のはずだ。まして、こんな森は家の近くに無かったはず。これが夢でなければ、疑うべきは自分の正気だろう。


 肌寒い春の夜、薄いナイロン地とはいえ、上着を羽織ってきたのは正解だった。下に着るスウェット一枚であれば、吹き付ける風に更に体温を奪われていた筈だ。

 が、多少風が凌げた程度で、この森を抜けられるなんて到底思えない。

 数時間もしないうちに——


「あぁ、クソっ」

 絶望的な想定に悪態をつく。歯はガチガチと音を立て、言葉を震わせていた。


 段々と重くなる瞼をこじ開け、銀白の世界に希望を見出そうと足掻く。

 遠く、うっすらと明かりが見えた。


——ああ、あの灯りの元まで……


――――


 寒風吹き荒ぶ中、小さな狩猟小屋は温かく、穏やかな空気で満ちていた。

 二日に渡る定例の狩りだったが、今回は文句なしの成功と言えよう。

 小屋の中、暖炉を囲む四人の男。その一人——ゴラートは、満足げであった。


「ドヴラフ、この鹿は焼くのが良いだろうか」

「ええ、いい塩が入りましたからね」

 凍らぬよう、小屋に持ち込まれた肉塊が3つ。——屋敷に戻れば、卓は騒がしくなるだろう。


 そんな浮かれた気分を暖炉の火ごと吹き飛ばしそうな、凍てつく風が吹き込む。

「——ゴラート様、異様な者が」

 焦ったように報告する青年——ミロシュは、ゴラートの従者の一人である。

「なんだ、蛮族か?」

「いえ、妙な格好で、武器もなく……」

「後ろに控えているのか?」

「少し先に倒れています」


 その言葉に、急いで外套を引っ掴む。そんな妙な人間に、この森で死なれちゃ困る——


「案内しろ」

 小屋に控えていた従者の一人、若いハスヴァルを連れて、外へ出た。


――――


「ゴラート様、それが……」

 謎の若者を抱え小屋に戻ると、中に残っていたオットーとドヴラフの方も受け入れの用意を進めていたようだった。

 先程までエールを温めていた小鍋は脇にやられ、残りのシチューの入った大鍋が火にかけられている。


 ミロシュが若者を床に横たわらせ、軽く頬を叩いてみる。呼吸はあり、安定しているように見えたが、目覚める様子はない。


「外はひどい寒さだ。見張りはもうよい、全員中に入れ―—ハスヴァル、ミロシュ。交代でこいつの番をしろ」

「承知しました。目覚め次第、報告いたします」

「頼む。……出立までに話が聞ければいいが」


 急ぎでくべられた薪がパチパチと音を立て、小屋に響く。ゴラートは座したまま、この異様な若者について、考えを巡らせていた。


――――

 

 空が白んだ頃、暖炉は火勢を弱めていた。

 かけられた鍋には昨晩の残りに麦を煮溶かした粥が入り、火のそばでは黒パンが焙られている。

 

 ゴラートは早々に起き、若者の様子を伺ったが、あれから目を覚ましていないようだった。


「随分とお疲れのようです」

 ミロシュが鍋を掻き混ぜながら、眠気半分、呆れたような顔をしている。

「こんな薄布一枚で彷徨ってたんだ、仕方ないだろうさ」

 そう言って、改めて、この若者をまじまじと観察してみる。


 装飾らしい、折られた襟のついた黒い薄布。生地は驚くほどに滑らかで、艶がある。

 が、王族の儀礼服でも見ないようなその上質な生地とは裏腹に、装飾は襟を除いて少なく、修道服のような禁欲的な印象すら受ける。


「——どうだミロシュ。何者だと思う」

「さっぱりです。少なくとも、この辺の人間じゃあないんでしょうが……」

 人種にしても、東の蛮族のそれとも似つかない。北方の大陸から来たのだろうか。はたまた——


 考えても、結論には至れそうもなかった。朝食を済ませたミロシュを仮眠につかせ、一人、若者の番につく。


――――


「――そろそろ、話を聞かせてもらおうか」


 頬を力いっぱい叩かれる痛みとともに、目が覚める。視界には掘りの深い髭面の男が間近に映っていて、もう何が何だか。

「おはよう、いい朝だな」

「あの、頬が……」

「なに、気にするな。よく眠っていたからな、そろそろ起きて、話でもと思ったまでだ」


 頬をさすりながら、ゆっくり身体を起こす。ここは——あの灯りの正体か、小屋だったとは。


 煤っぽさと脂、濡れ革の臭いが一気に鼻を衝いてくる。悪臭とまでは言わないものの、居心地の良い空間じゃない。しかし、この小屋のおかげで命拾いしたことに変わりなかった。


 状況を掴もうと頭を捻っていれば、眠気も吹き飛んだ。おおかた、俺はこの髭面の大男に助けられたんだろう。


 しかし、彼ら——男の向こうで眠る四人を含め——は、一体何なのか。少なくとも、こうして五体満足生きている以上、悪い人たちでは無さそうだが。


「——あの」

「何だ」

「ここは、一体」

 間抜けな問いに、男は目を丸くする。

「——狩猟小屋だ。モルヴァレスの森、お前の彷徨ってた森のな」

「モル……」

 なんとも、舌を噛みそうな名前だこと。

 当然ながら、俺の知る限り、家の近くにはそんな地名は無い。


 男の身なりや顔立ちから察するに——帰宅は随分先になりそうだった。


 そんな具合の思案の最中、目の前に器が突き出される。

「取り敢えず、何か食べることだな」

 中には、お粥じみた白い液体に、小ぶりの肉片が数個。到底美味しそうには見えなかったが、匂いを嗅いだ瞬間、忘れかけていた空腹感が蘇る。


「——ありがとう、ございます」

 匙で一口。なかなかに薄味なうえ、獣脂っぽさが舌に纏わりつく……が、食えない程ではない。無意識にがっついていると、今度は樹皮のような色をしたパンが差し出された。

「乾燥しきってる。浸して食え」


 言われるがままに汁に突っ込んで、そのまま食べる。若干の渋みがあるものの、腹には溜まりそうな食べ応え。


 ひとしきり食べて、温かい飲み物も貰った。急にがっついたからか、身体が火照ってくる。


「——ご馳走様でした。美味しかったです」

「空きっ腹なら何でも美味いだろうさ」

 彼は冗談めかしてそう言うと、椅子ごと身体をこちらに向けて、本題に入る。


「さて、そんなところで……お前の話を聞かせてもらおう」

 先ほどまでの優しげな雰囲気から一変、こちらを真直ぐに見据え、そう尋ねる。


「話……その、自分でも何が何やら」

「森に入った事を咎めるつもりはない。そんな格好の上、ろくな用意もないんだ」

 諭すように話す彼に、少しの罪悪感を覚えた。何を聞こうとしているにしろ、俺ができる話は……


 あぁ、そうか。

「あの、ここは何県でしょうか?もし埼玉なら——」

「ケン、サイタマ……すまないが、私にはさっぱりだ」

 埼玉がどこにあるとか、そう言う次元の話じゃなさそうだ。言葉は通じるのに地理は分からない——言葉にならない違和感に、嫌な予感がしてくる。


「……まあ、とにかく。お前は意図してこの森に来たわけでもなければ、何かに追われていると言う感じでもない」

「——全く不可解な話だが、何の因果もなくこの森に入り込み、彷徨っていた。そうだな?」

 彼のその言葉に、強く頷く。そんな俺をみて、これ以上の詮索を諦めたらしかった。


 食べ終わった食器を片付け、火勢を弱める。鍋に蓋をかけると、寝ている仲間を起こしに向かった。


 禿頭の男に俺の監視を命じて、残りの二人が小屋の撤収を始める。


 暫くして、物音で最後の一人が起き上がった。彼はこちらを一瞥して、どこか安堵にも似た表情を浮かべると、毛皮の上着を手渡してくる。

「——着ておいてください、外は冷えますよ」


 その若い男に従い、上着を羽織る。


 暫くの後、禿頭の男に連れられて外へ出てみると、目に入ったのは馬と橇。

 馬具や装備の金具の形は不揃いで、手作りらしく見える。これがセットでも衣装でもなければ、恐らく——


 再び訪れる予感に茫然と立ち尽くしていると、あの髭面の大男が話しかけてきた。

「——ここで放逐するのも面倒だ、暫くはウチに置いてやる」

 それだけ言って、彼は馬に跨った。


 俺は禿頭の男に誘われ、共に馬へと跨る。

「行くぞ」

 髭の男のその一言で、俺達は森を進み始めた。


————


 動き始めて、どのくらい経っただろう。

 彼らの雑談に耳を傾け、馬の背に揺られていると、気付けば昼はとっくに過ぎて、薄暗い頃合いになっていた。


 すぐに、木々の並びの先に雪原が見えた。もうすぐ森を抜ける。

「——さあ、見えたぞ」

 俺の予感に答えるように、髭の男が声を上げる。木々が開けていき、平野に出た。

 少し離れたあたりに村が見える——森の中にぽっかりと開けた雪原、それを覆いつくさんとばかりに、穏やかな光が広がっている。


「——今年は冬が早いな、これでも余裕をもって動いたんだが」

 先頭の男がぼやいた所に、隣を行く、禿げた男が応える。

「ローニャ様もご到着を早められると耳にしていますが……見る限り、村の用意は例年通りといった具合ですね」

「まあ、その気になれば早いもんだ。そういう連中だからな」

「領民は領主に似る、とはよく言ったものです」

「なら、尻を叩いてやらんとな」

 彼らの間で笑いが起こり、前に跨る男の肩が震えるのが見えた。


 少しして、先頭の男がまた口を開く。

「次の狩りは祭りの直前か、早いものだな」

「お望みとあらば、明日にでもまた」

「ハスヴァル、森を狩りつくす気か?」

 楽しげに言葉を交わす彼らの姿に、どこか安心感を覚える。


 に来て早々死にかけたのは幸先が悪いが——少なくとも、彼らに拾われたのは幸運だろう。

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