第10話
ミーティングルームへ歩く最中、シドは隣を歩くヴィクターと初めて会った頃を思い出していた。
20年近く前だが、忘れもしない。互いに9歳の頃、ノースロンドン・ガンナーズのジュニア・アカデミーで知り合ったのだった。
「俺の名はヴィクター。……で、お前らは誰なんだ?」
ヴィクターとの初対面は、あまりにも傲岸不遜な自己紹介だった。強面のコーチ陣も、自身よりもはるかに大柄な年長のアカデミー生も意に介さず、彼はそう言い放った。
生意気で、扱いにくい新入りが来た、とコーチ陣は辟易していた。ヴィクターを冷遇する年長のアカデミー生やコーチもいたが、彼は決して自分を曲げない。一日一日、薄皮を張り重ねるように、溢れ出る情熱と努力で、周囲を黙らせていった。
初対面から、7年後。情熱の塊のようだったヴィクターを象徴する出来事があった。シドの脳裏に焼きつく、鮮明な記憶。
「ふざけんじゃねえ!うちのシドに、よくもやってくれたな!!今のはレッドカードだろ!!!このクソ審判!!!!」
ヴィクターは拳を振り上げ、今にも主審の男を殴り飛ばそうとしていた。
「よせ、ヴィー!!お前のキャリアが台無しになるぞ!!!」
あれは、イングランド全土のU-16の頂点を決める決勝戦。シドの足首を砕くためだけの悪質なタックルに、審判はイエローカードを提示しただけだった。
その不正義に激昂したヴィクターは、報復に相手選手を突き飛ばし、主審の胸ぐらを掴み上げたのだ。審判への暴力行為は、年単位の出場停止処分が課される重罪だ。今後のキャリアを棒に振りそうな勢いのヴィクターを、足を引きずるシドが、必死に羽交い締めにして止めた。
ヴィクターは直近10試合の出場禁止という処分を受け、辛うじて自身のキャリアを繋ぎ止めたのだった。
ドアを開けると、ミーティングルームは、静かな換気音だけが支配していた。ヴィクターの表情筋の動き、目線の置き方、相手に圧迫感を与えない、絶妙な距離感。その全てが、まるで「悩めるチームメイトの理想的な相談役としてのキャプテン」という役割を完璧に演じきるためのプログラムに従っているかのようだった。
「教えてほしいんだ、シド。一体、何があったんだ」
ヴィクターの声は、熟練の心理カウンセラーのように、不安を抱えた人間の心に最も響くとされる周波数で調整されていた。
「試合中の看過できない逸脱行為。補給食の拒否や、試合後の性行為といったリカバリー・プロトコルの違反。……それに、決定的なのは、プロ選手としてあるまじき向精神薬の使用。このままでは、俺も君を庇いきれない。チームを追放されることになるぞ」
矢継ぎ早に挙げられる罪状は、全て正確な事実だった。
「シド、力になりたいんだ。監督にも、フロントにも俺から話そう。だから、君に何があったのか、聞かせてくれないか。……アカデミーからずっと一緒だった仲じゃないか」
その言葉を聞いた瞬間、シドは目の前の親友を、ひどく、ひどく悲しい目で見ていた。ヴィクターの瞳は、照明の光をただ反射するだけのガラス玉だったからだ。何の熱も、揺らぎも宿していない。 シドは、壊れてしまったアンティーク人形に語りかけるように、憐れみを込めて言った。
「…なあ、ヴィー。その振る舞いは、お前のAIが提案している模範解答なんだろ。お前自身は、どう思ってるんだ?」
「何を言って……」
「アカデミーからの仲、だと?」
シドの声に、乾いた怒りが滲み始める。腹の底から、黒いマグマのような感情がせり上がってくる感覚。かつて情熱の塊だったこの親友を、こんな空っぽの人形に変えてしまった、この滑らかな世界そのものに対する怒りだった。
「お前は本当に、あのヴィクターか?ユースの頃、お前が審判をブン殴りそうになって、俺が必死で止めたのを覚えてるか?…なあ、答えろよ!」
シドの荒々しい声が、静かなミーティングルームに響き渡る。ヴィクターは、数秒間黙ってシドの顔を見ていた。彼の瞳の中で、何かが高速で計算されているのが分かる。やがて、彼はふっと表情を消した。演じることを、やめたのだ。
「……君の意見は理解した。残念だが、これ以上の対話は時間の浪費だ」
その声には、先程までの温かみのある響きは欠片も残っていなかった。無機質な、システム音声のような冷たさだけがあった。ヴィクターは踵を返し、音もなくミーティングルームを出ていった。
ヴィクターが部屋を出ていくのとほぼ同時に、シドの視界にクラブからの公式通達が音もなく表示された。内容は、全試合及び全トレーニングからの除外。
事実上の、追放宣告だった。
ただし、契約書に旧時代の遺物のように残っていた『シーズン最終節における、最低30分間の出場機会』という一文だけが、彼の権利として認められていた。その冷たいデジタルの文面の確認者欄には、『キャプテン ヴィクター・モレノ』の名が記されていた。
一人残された空間で、シドは固く拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、自分がまだ人間であるという実感を与えてくれる。
そうか。俺は、独りなのか。 だが、それでいい。
この、AIが提示してくるクソみたいで滑らかなレール。 そんなものに、決して自分を売り渡したりしない。
いや、それだけじゃない。
息の詰まるような、世界を満たす「最適化」「合理化」「効率性」。そいつらに、俺が俺であることの証を、獣のような爪痕を、深く深く刻み込んでやる。
シドの瞳は、決意の熱を帯びて、静かに燃え上がっていた。
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