第7話
それから、1週間が過ぎた。シドは即座に"カプセル"を買い求め、服用し始めた。恐れ続けていた、滑らかな幸福の先にある感情の死。"カプセル"がもたらす原始的な衝動は、その恐怖に抗う至高の精神安定剤であり、極上の興奮剤だった。
その日、シドはリーグ戦のスターティング・メンバーに名を連ねていた。試合前のロッカールームは静寂に包まれている。各選手の鼓膜の奥で、タクティカルAIが今日の作戦を伝えていた。しかし、シドの耳にはその作戦は伝わらない。シドの意識は、あの日に幻覚した幼い日の歓喜ーーゴールを決めるという行為への、純粋で原始的な歓喜に向けられていた。
シドは想像する。この数万人の観客の前で、自身の思うがままに動き、敵選手を欺き、ゴールネットを揺らす。そこで生まれる歓喜は、どれほどのものか。確かめたい、味わいたい。
そう願うだけのシドは、もはやノースロンドン・ガンナーズの異分子であり、調和を乱すノイズでしかなかった。
スタジアムを包む空気は、いつもと同じく制御され、清浄だった。ピッチの上では、AIが描く幾何学的な戦術パターンに沿って、二十二人の選手が滑らかにポジションを入れ替える。シドもその一部として、AIが提示する光の軌跡を忠実になぞっているように見えた。
だが、彼の内部では嵐が吹き荒れていた。
カプセルがこじ開けた感覚の奔流は、今も彼の血の中を駆け巡っている。芝の匂いが、照明の熱が、敵選手の筋肉の微細な緊張が。暴力的なまでの情報量で彼に流れ込んでくる。
視界に表示されるAIの推奨ルートは、まるで子供の落書きのように単純で、退屈なものにしか見えなかった。
後半10分、試合は0-0のまま膠着していた。
味方のミッドフィルダーがボールを持つ。彼の視界には、シドの足元へ繋がる成功率92%のパスコースが、青い光のラインで鮮やかに描かれている。チームメイト全員が、そのパスが出されることを予測し、次の動きへと移行し始めていた。
その瞬間、シドは見た。AIの予測を信頼しきった、敵ディフェンスラインの一瞬の弛緩を。思考より先に、彼の身体が動いた。
シドは、AIが示すパスコースから大きく逸れ、本来は別の味方が走り込むはずだったスペースへと、獣のように駆け出した。味方ミッドフィルダーの視界の隅で、推奨ルートから逸脱したシドの動きが、赤い警告で明滅する。だが、シドは本能のままに叫ぶ。
「――おい、よこせ!!」
その強烈な意志が、パスを出す直前の味方のニューロンをわずかに揺らした。コンマ1秒だけ躊躇し、AIの指示に逆らって、シドが走り込んだ空間へとボールを蹴り出した。
それは、AIから見れば明らかなエラーだった。だが、ボールは吸い寄せられるように、シドの足元へと完璧に収まった。
ボールをトラップすると同時に、身体を反転させる。ゴールまで、およそ29メートル。視界には『シュート成功率:4%』という低確率を示す数字が点滅している。
ーー無視しろ。
脳内で響くAIの警告を、意志の力で捻じ伏せる。そして、あの夜に思い出した、腹の底から突き上げる純粋な「衝動」のままに、右足を振り抜いた。
ボールは初速180Km/時を超えて砲弾の様に弾け飛び、ゴールキーパーが一瞬だけ反応の遅れたファーサイド上部へ、深々と突き刺さった。
次の瞬間、シドは歓喜を爆発させる。
「うぅぅおおおおおぉぉぉおおおぉぉぉおおおおお!!!」
歓喜が、獣の様な咆哮となってスタジアムへ響き渡る。
その時、スタジアムを支配していた静寂に、亀裂が入った。録音された拍手ではない。驚きと困惑が入り混じった、数万人の人間が発する本物の「どよめき」が、膨れ上がっていく。
しかし、シドの視界には冷徹なテキストがオーバーレイされた。
『警告:戦術的協調行動からの著しい逸脱。戦術統合率、危険レベルまで低下』
タクティカルAIからの、無機質な通告だった。試合は、そのゴールが決勝点となり1−0で勝利した。だが、ロッカールームに英雄を称える熱気はなかった。
チームメイトたちは、まるで未知のバグを起こした機械でも見るかのように、シドから距離を置いている。祝福の言葉は少なく、交わされる握手は、ただ触れるだけの、形式だけに痩せ細っていた。
彼は、勝利という結果をもたらした。しかし同時に、彼らが信じる「最適化」という名の秩序を、粉々に破壊してしまったのだ。
シドは、チームメイトたちの冷たい視線に囲まれながら、彼らと同じ世界にはいないことを、はっきりと悟っていた。
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