第5話
翌朝。
シドが意識の浅い淵から浮上したとき、隣のシーツはすでに冷たくなっていた。部屋を満たすのは、彼の睡眠サイクルに合わせて調整された、寝室の照明が照らす、夜明け前の薄紫の光だけだった。
視界の隅に、モトコからのメッセージが淡い光のカードとして浮かんでいた。
『仕事へ行ってくるね。ゆっくり休んで。愛をこめて』
彼女のパーソナルAIが、彼女の生体情報から読み取った愛情の度合いを、小さなハートのアイコンで添えている。モトコなりの配慮であり、二人の間の静かな距離だった。
がらんとした部屋に一人、シドはゆっくりと身を起こす。窓の外では、自動航行のエアカーが、光の川となって静かに流れている。あの滑らかな流れの中にいる限り、道に迷うことも、衝突することもない。そして、どこへも辿り着けない気がした。
クローゼットから、人目を避けるための深いフードが付いた、旧式の化繊コートを羽織る。生体認証をパスしてアパートメントを出ると、彼は都心へ向かうのとは逆方向の、地下深くへと潜るメトロに乗り込んだ。
試合後の休養日は、頻繁にその場所へ足を運んでいた。理由はわからない。ただ、そこにはシドを惹きつける「何か」があった。
無音の車内で、乗客たちは皆、虚空を見つめている。自らの視界に広がるAR(拡張現実)の情報レイヤーに没入し、誰一人として言葉を交わさない。スマートフォン等の情報端末は、数十年前に廃れていた。
乗り換えを繰り返し、地上に出た時、空気はざらついた重さで肺を満たした。鉄錆とオイルの匂い。空は、都心では決して見ることのできない、鉛色の雲に覆われている。
ここは、都市の管理AIによる環境最適化の対象外とされた、古い工業地帯。基本的人権として保証されている「つながらない権利」を行使し、AIによる社会システムから距離を置く人々。「オフライナー」たちが暮らす一角だった。
シドは、フードを目深に被り、ひび割れたアスファルトの道をあてもなく歩いた。そこには、彼の日常とは全く違う時間が流れていた。壁には、誰かが描いたのか、スプレー塗料のけばけばしいグラフィティが描かれている。
建物の間からは、認可されていない屋台の、煙とスパイスの匂いが立ち上っていた。子供たちが、泥にまみれて、ルールもわからないような遊びに興じ、けたたましい声を上げて笑い、本気で喧嘩をしている。
その全てが、彼の世界では「ノイズ」として処理され、除去されるはずのものだった。非効率で、粗野で、予測不可能な人間の営み。
しかし、シドの目には、その無秩序な風景が、失われた楽園のように映っていた。
ここには、感情の起伏を平らにされてしまったヴィクターのような人間は、一人もいない。彼らは自分の声で怒鳴り、腹の底から笑い、剥き出しの感情でぶつかり合って生きている。その姿に、彼は憧れに似た切実な渇望を覚えていた。
その時だった。背後から、不意にしゃがれた声がかけられた。
「プレミアリーグのシド・マクリーだろ?」
シドは、凍りついたように足を止めた。ゆっくりと振り返ると、壁に寄りかかるようにして、痩せた男が一人、ニヤリと笑いながら彼を見ていた。
「最近、よくこの辺をうろついてるよな。リーグ随一のスター選手が、こんな場所に何の用かね。…いや、何が欲しいのか、俺にはわかるぜ」
シドの全身が、最大限の警戒に包まれる。彼のパーソナルAIが、視界の端でけたたましく警告を発した。半透明の赤いフレームが男の姿を囲む。
『警告:素性不明の人物。犯罪記録との一致率43%。接触リスク:高』
テキストが明滅する。推奨行動として『即座に離脱』という文字が、強い光を放っていた。だが、シドは動けなかった。男の、全てを見透かすような瞳から目が離せない。
男はゆっくりと壁から背を離し、シドに近づいてきた。そして、汚れたコートのポケットから、ためらいのない手つきで何かを取り出す。それは、彼の指先に隠れるほどの、小さな半透明のカプセルだった。
「悩みがあるんだろ、あんたみたいなエリートには。滑らかすぎて、息が詰まるような世界で生きてる。違うか?」
男は、そのカプセルをシドの目の前に突き出した。
「こいつを飲めば、あんたの悩みは即解決だ。脳にかけられたリミッターが外れて、忘れちまった『本物』の感覚が、腹の底から蘇ってくる」
「あんたみたいな奴は、別に珍しくないんだぜ?あの政治家も、あの経営者も、あのスポーツ選手も。みーんな、こいつの虜さ。俺にとっては大切なお客様、ってわけだ」
男はそう言うと、カプセルを強引にシドの掌に握らせた。
「今日はお代はいらねえよ、初回サービスだ。試してみて、気に入ったら連絡してくれ。もし、また『本物』が欲しくなったらな」
男は、シドのコートのポケットに、くしゃくしゃに丸められた紙片をねじ込み、ひらひらと手を振って、雑踏の奥へと消えていった。
シドは、その場に立ち尽くしたまま、掌の中にある小さなカプセルを見つめていた。ひんやりとした、無機質な感触。AIの警告は、未だ視界の隅で赤く点滅を続けている。
彼は、その小さな異物を強く握りしめ、複雑な表情を浮かべたまま、来た道を引き返し始めた。自宅へと戻る道のりが、今はひどく遠いものに感じられた。
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