第四章 1



「先生、なにあの玄関。どうしたの」

 蓮花は朝来るなり、いきなりこう言ってきた。

「ゆうべ、誰かに放火されたんだ。夜中に」

 おかげでよく眠れなかった、と眠そうな声で愚痴る槇に、蓮花は言った。

「ねえ、それってまずいんじゃないの」

「まあ、お前の心配することじゃないよ」

「でも玄関が開いてると、ここまで風が通るからすーすーするね。寒い」

「そうなんだ。おかげで寒いやらよく寝られないやらで散々だった」

「ふうん……」

「業者に電話して、新しい扉をつけてもらわないと」

「それってどれくらいかかるの」

「さあ、一週間とか、それくらいじゃないのか」

「じゃあさ、それまでうちにおいでよ」

「うん?」

「一週間もこんな寒いとこにいたら先生が風邪引いちゃうよ。そんなの本末転倒じゃん。 うちに来れば寒くないしごはんはあるし、うちからここに通って患者さん診ればいいよ」

「おいおい」

「私、これからお父さんに言ってくるね」

「蓮……」

 槇が蓮花を止める前に蓮花が行ってしまったので、留めようとした手が虚しく虚空に浮いた。

 どうせそんなことは無理だろうと思って診察をしていたら、蓮花は昼食を持ってきた折りに、

「お父さんはいいって。いつでも来てくださいって言ってるよ」

 と言ってきたので、いよいよ行かないわけにはいかなくなってきた。なにより、ここにいると寒い。

 それで、着替えだけを持って食堂に行くと、蓮花と親爺は店内で彼を待っていて、

「あ、来た来た。お父さん、先生よ」

「ああ、先生。災難でしたね。うちは狭いけど、寒くはないから。いつまででもいてくださいよ」

 と迎えてくれた。

「申し訳ない。業者の話では、新しい扉の在庫が来るのに二週間かかるらしくて」

「そんなことはいいから。さ、上がって」

 と、奥に連れていかれれば、階段を上がって二階へ行くようである。

「ここが私の部屋」

 と、蓮花が灯かりをつけて見せた部屋は、ベッドと本棚と勉強机があって、そこに布団が敷かれていて、槇はそれで面食らって、

「……蓮花。これはいくらなんでも、まずいんじゃないか」

「え? なにが」

「なにがって、結婚前の娘さんの部屋に、俺が寝泊りするわけにはいかんだろう」

「ここ、お父さんとお母さんの部屋だったのを、お母さんが死んでから私が使わせてもらうようになったの。だから、お父さんの部屋、すごく狭くて先生が寝られるスペースはないよ。だからここで我慢して」

「我慢してって、お前」

 その時、階下の厨房から親爺が、

「おーい出前行ってきてくれー」

 と声をかけ、蓮花が返事をして出ていった。

 槇は部屋に一人になり、仕方なく荷物をそこに置いて、店に下りていった。

「先生、夕飯なんにします?」

「うーん、ラーメンかな」

 客がちらほらとやってくる時間になってきた。槇はそれをぼーっと眺めながら食事を終えると、気まずげに奥へ引っ込んでいった。それを見た客の一人が、

「あれ、蓮花ちゃんのコレかい?」

 などと親爺に聞いたりした。

 蓮花が帰ってくると、親爺は蓮花に夕食を作って出した。蓮花はそれを、二階の部屋で食べた。

「夕飯、いつも一人なのか」

「うん」

「いつからだ」

「んーと、お母さんがいなくなってからだから、中学の時かな」

 蓮花の母は、彼女が中学の時に交通事故で亡くなっている。以来、この家には父と娘だけである。

「寂しくないのか」

「別に。慣れちゃった」

 平気そうな顔をして食べる彼女を見て、槇はなにかを思ったようだった。

 翌日、蓮花が出前から帰ってくると、

「おかえり」

 槇は彼女を部屋で待っていて、

「夕飯、まだだろ。食べよう」

 と言った。

「食べようって? 先生、ごはん六時でしょ」

 蓮花は目を丸くして尋ねた。

「ん、待ってた」

 ほら、と言われ、我に返って一階へ行って父から料理を受け取る。

 槇と共に食べていて、ふと思った。

 先生とごはん食べるの、初めてだ。

 男のひとと食事に行くことは何回かあったけど、先生とは初めて。

 箸を持つ所作、茶碗を持つ手、飲み込む喉元に目が行く。なぜか、見惚れた。

「なんだ」

 槇がそれに気づいて、こちらを見た。

「べ、別に」

 慌てて食べ始めると、槇はまた食事を再開する。それを、またちらりと盗み見る。

 朝食は、親爺と蓮花と槇で揃って食べた。

「ん、お味噌汁が熱い。飲めないや」

「そういうのはふーふーしなさい」

「ふーふー」

 そんな会話をしている二人を見て、親爺は思う、

 この二人、ほんとに付き合ってねえんだよな。

 そうして槇は医院に出勤していく。

 玄関扉がないから診察室の扉がむき出しで、なんとなく寒かった。それで仕方なく診察室のなかで暖房の温度を高めにして加湿器を焚き、ストーブもつけた。

 冬は乾燥しやすい。乾いた空気の医院に来て、病気の患者の具合が悪くなっては本末転倒である。

 ある日の夜、金田が夕食を食堂に食べに来た。蓮花が出てくるのと同時に、表から人が入ってきて、

「すみません、急患なんですけど。先生いますか」

 と言ってきた。

「はーい。せんせーい、患者さんでーす」

 金田がきょとんとしてそれを見ていると、二階から男の声がして、下りてきたのはなんと槇である。

「先生、すみません。うちの子がひどく吐いてしまって」

「いいですよ。行きましよう」

 槇が話しながら出ていくのを金田は放心して見ていたが、やがて彼の顔が見る見る赤くなったかと思うと、手下の一人の首を肘で絞め、小声で、

「おいてめえ。なんであいつがここにいる。なんで蓮花さんと同棲してんだ」

「わ、若頭。落ち着いてください。同棲じゃなくて同居ですよ」

「おんなじ屋根の下で暮らしてんなら一緒じゃねえかこのスカポンタン」

「言われた通りに医院の玄関に火をつけたまでで」

「じゃあなんでこんなことになってる。どう落とし前つけんだ」

「な、なんとかしますから勘弁してください」

「金田さん、どうかしました?」

 蓮花がやってきて、金田に話しかけた。金田はぱっと手を放して、作り笑いを浮かべた。

「い、いや、なんでもねえよ。こいつがにんじんが食べられないっていうから、お仕置きしてたんだ。なっ?」

「へ、へい」

「ほんとしょうがねえなあ」

「?」

 しばらくして、槇が戻ってきた。金田は歯を食いしばって、彼が奥へ入っていくのを見ていた。

 二日後、転んで額を切ったという棚橋のやくざの傷を槇が縫っていると、そこへ火炎瓶が投げつけられた。

「なんだなんだ?」

「カチコミか?」

 そこにいたやくざは二人組であったので、そのうちの一人が慌てて火を消して事なきを得た。

「先生、怪我はねえかい」

「ああ、無事だよ」

「それにしても誰だこんなことをしやがったのは」

 やくざの二人はしきりに息を巻いて、上に報告すると言って帰っていった。

 このことは、大きな問題になった。

 本来中立である槇医院が、昼日中に襲われた。しかも、棚橋のやくざを手当てしている最中に。

 疑いの目は、当然我妻組に向けられた。

 しかし、やっていないものはやっていない。

 我妻のやくざたちは、自分たちの身の潔白を胸を張って言い渡した。

 だが棚橋も黙ってはいない。中立の場所であるから安心して治療に行っていたというのに、それを狙ったかのように襲撃されたのではたまったものではないと、声高に主張した。

 両者の言い分は拮抗して、互いに一歩も譲らない構えを見せていた。

 ついには双方の組長までもが出てきて、話し合いをするまでに到った。

「我妻さんよ、お宅の台所が最近厳しいのは周知の事実だが、今回は焦ったな。やっちゃなんねえ一線を越えちまったらだめだ。あんたらはもう、おしめえだ」

「棚橋の。最近頓に羽振りがいいと聞くが、筋違いもいいとこだ。極道ってのは、道から外れてる分世間様に迷惑をかけねえよう精一杯やってくもんだ。それがやくざってもんだ。

 それをなんだ。お前さんは新しいとこと手を組んで、人身売買だのオレオレ詐欺だの汚ねえことばっかりやってるそうじゃねえか。あの医院は世間様でいう、仏様みたいな場所よ。手を出しちゃなんねえとこだ。お前さんこそ、やっちゃいけねえことをやっちまったって自覚はおありなのかい」

「なにを時代遅れのどぐされ極道が」

「なんだとこの鬼畜野郎めが」

 ぎらぎらと光る目と目で睨み合うこと数分間、話し合いは決裂に終わった。

 我妻は我妻でやった覚えはないし、棚橋は棚橋でやっていないのだから、これは互いに言いがかりというものだ。

 やったのはあくまで金田で、金田の所属する組は棚橋を取り込んでいるとはいえ、棚橋ではない。

 だが我妻のやくざも棚橋のやくざもそんなことは知らないから、互いに相手がやったものだと思い込んでいる。多くは、ふだんから槇に世話になっている者たちばかりである。

 我妻も棚橋も、槇先生を襲うなんてとんでもねえやつらだ、と腹を据えかねているのである。

 よって、街は異様な、険悪な空気に包まれた。

 前にも増して治安は悪く、一触即発の雰囲気にあふれ、住民は必要な時以外は誰も出歩かなくなった。

「蓮花」

 槇は蓮花に言った。

「夜出前に行くのはやめなさい。殺気立ったやくざがあちこちにいる。危険だ」

「みんな顔見知りだから大丈夫よ。この前もあ、蓮花さんなんて言われて、そこまで送ったくれたりしたよ」

「だとしてもだめだ。巻き込まれたりしたらどうする」

「心配しすぎー」

 蓮花は笑ったが、親爺も一緒になって止めるので、食堂では夜の出前は当分断ることになった。

 街が緊張状態に陥っていると、風紀もどこか乱れるものである。

「ねえいいじゃない」

 粘ってこい女の声に誘われて、若い男はごくりと唾を飲んだ。

「い、いけません姐さん。兄貴に殺されます」

「うちの人は当分帰ってこないから大丈夫。その間に、ね」

 無理矢理腕を引っ張られて、ベッドに倒れ込む。その上に女がのしかかってきて跨ったかと思うと、がばっと服をはだけてきた。

「あ、姐さん」

「若い男の身体はいいわねえ」

 と、女が唇を舐めた時、後ろで扉が乱暴に開かれて誰かが入ってきた。

「おいサブ。てめえ俺のいない合間に俺の女とよくも」

 男は女を押し退けて、飛び起きた。

「あ、兄貴、誤解です」

「誤解もろっかいもあるか。ブっ殺してやる」

 いかつい、首も腕も太い男がサブを追いかけ回し、いとも容易く捕まえてしまうと、彼は半殺しの目に遭った。

「生き埋めにしてやりてえところだが、大目に見て頭だけ出して埋める。やれ」

「助けてくだせえ兄貴。勘弁してくれえ」

 知らん顔で隣で化粧する女を座らせ、子分たちにサブを埋めさせると、男は家のなかに入っていった。

 またある日には、医院を襲ったのは我妻に違いないと決め込んだ棚橋の者が、我妻組の事務所に乗り込むということがあった。

 それぞれ武装して意気込んで襲撃してみればそこはもぬけの殻、おや? と誰もが顔を見合わせ、きょろきょろとしているところに帰ってきた我妻の者たちと鉢合わせしてそこで大混乱となり、大勢の怪我人が医院にやってきた。

「まったくなにをやってるんだお前らは」

 槇は呆れてそう言ったという。

 そうこうするうちに二週間が経って、新しい玄関扉がつけられた。

 槇は医院に戻って、診療を続けた。

 ある日のこと、昼食を持ってきた蓮花に、彼は言った。

「しばらく、玄関に石は置かないから」

 それを言われて、最初なにを言われているのかわからなかった。

「え……?」

「だから、当分は、会えない」

 お前とは、これきりだ。

 そう言われたような気がして、衝撃で脳天を撃ち抜かれたような気分になった。

 ああ、捨てられた。私、捨てられたんだ。

 知らず知らずのうちに、手が震えた。

「そ、そう」

 声も、震えている。

「わかった」

「夜出歩くと、危ないから」

 槇の声が、頭に入ってこない。涙で視界がにじむ。面を伏せて、顔を見られないようにした。だから、彼がこちらに近づいてくるのにも気がつかなかった。

「その代わり」

「――え?」

 槇は蓮花を抱き上げた。

「こうしよう」

「――」

 彼は蓮花をベッドに運ぶと、そこに放った。気忙しく唇を重ねると、下着に手を入れる。 蓮花はなにが起こっているのかわからず、混乱する頭のなかで考えながらもそれを受け入れた。

 事が終わると、息を切らしながら槇は言った。

「ちょっと時間に追われるけど、危ないのよりはいいだろ」

 槇に背を向けようと蓮花が寝返りを打った。涙が一筋、流れた。

 よかった。

 捨てられたんじゃ、なかった。

 蓮花はそっと顔を拭うと、起き上がって服を着た。

「行かなきゃ。また夜ね、先生」

 逃げるように階段を下りていく。よかった、よかったと心のなかでたたそれだけを繰り返しながら、駆けていった。

 蓮花の髪の残り香を嗅ぎながら、槇は思っていた、

 言えるかもしれない、もう少ししたら、言えるかもしれない。蓮花にこの胸の内を、彼女への想いを、告げることができるかもしれない。もしかしたら、彼女も。もしかしたら、もしかしたら。

 夕飯を食べに、食堂へ行く。蓮花が夜来るのは危ないからだ。

 最近、金田という男とよく鉢合わせる。槇は彼のことをよく知らないが、あちらは槇の顔を見るとあからさまに嫌な顔をしてそっぽを向いてしまうので、はて、治療の時に痛い思いでもさせたかなと首を傾げる。

 次の日の正午近く、一人の女が診察室にやってきた。見たこともない顔だったが、それは珍しいことではない。

「槇先生?」

「はいこんにちは」

 槇が顔を上げると、女はなぜか診察室の扉を開けたままにして入ってきて、彼の目の前に立って言った。

「診ていただきたいんですの」

「はあ、ではこちらにどうぞ」

 と椅子にかけるよう勧めようとすると、女はなぜか診察台の方へと行き、そこでコートを脱いで、

「今ここで」

 と言った。コートの下は、下着姿だった。

「……」

 槇はそれを呆気に取られて見ていたが、やがて立ち上がるとコートを拾って女に言った。

「具合が悪いのでなければお帰りください。出口はあちらです」

「そうおっしゃらずに」

 女は診察台の上に座り、槇の手を女とは思えないほどの力で引っ張った。

「なにを……」

 なにをするんです、という声はかき消され、槇の顔は女の豊満な胸にうずまった。

「あん、強引ね」

 ガシャン、という音が、玄関から聞こえてきた。

 目を向けると、真っ青な顔をした蓮花がそこに立っていた。

 槇は女を押し退けて、蓮花に言った。

「蓮花、違うんだ」

 皿が割れて、昼食が散乱している。蓮花はそれをそのままにして、走り去っていってしまった。

「蓮花、待ってくれ」

 槇は蓮花を追って、表まで出ていった。だが遅かった。彼女は行ってしまった。

「蓮花……」

 その夜食堂に行くと、蓮花はいなかった。

「すいませんねえ、気分が悪いって言って、誰とも会いたがらないんですよ」

 親爺はそう言ってしきりに頭を下げた。槇もなにも口にせずに、店を後にした。

 翌朝、事情を説明しようと思っていた。話せばわかってくれる、そう考えていた。

 だが、いくら待っても彼女は来なかった。

 仕方なく、また食堂に行った。

「申し訳ねえ、まだ具合が悪いって言うんで」

 いくらなんでも、昼には来てくれるだろう――その予想も外れた。蓮花は姿を見せなかった。

 毎日毎日、槇は彼女を訪ねた。しかし、その度に期待は裏切られた。

 今日は会ってくれる、今日こそ、という気持ちは、次第に絶望に変わっていった。

 その間、蓮花は部屋に籠もって泣き暮らした。

 槇が裸の女と抱き合っている。

 自分の目で見たもの、それが信じられなかった。だが、あれはまぎれもない事実だ。

 先生は、他の女のひとが好きになっちゃったんだ。私でなくていいんだ。

 捨てられなかった、捨てられなくてよかったという安堵のあとの失望は、簡単に悲嘆に変わり、やがて自暴自棄へと成り代わった。

 槇が帰っていった後のを確かめると食堂に下りた蓮花は、自分を訪ねてきた金田にむかって言った。

「金田さん」

 蓮花が顔を出すのは久しぶりだったので、金田も笑顔になって顔を上げた。

「おお、蓮花さん。大分ぶりだなあ。なんか顔色いいんじゃない。最近……」

「どこかに、連れて行ってください」

「へ……」

「これから、どこかに連れて行ってください」

「え、いいの?」

「はい。行きましょう」

 金田は満面の笑顔になって、手下たちにおい、と言った。車が回され、勘定が支払われた。蓮花は能面のような無表情で金田に肩を抱かれて、店を出ていった。

「お、おい」

 親爺はそれを、茫然として見ていることしかできなかった。

 そんなことは露とも知らずに、槇は毎日蓮花を訪ねた。しかし、彼女は金田と出かけた後である。親爺は、槇が気の毒でそれを言うことができない。

 蓮花が連日自分と出かけてくれるので、金田はご機嫌だった。最初はちょっとつまづいたけど、これはうまく行きそうだぜ。

「蓮花さん、今日はあそこに行こう」

「あの店がいいらしいよ蓮花さん」

「蓮花さん、あっちが面白そうだよ」

「蓮花さん」

「蓮花さん」

「蓮花さん」

 金田は機嫌よく蓮花と会話し、また金の出し惜しみというものをいっさいしなかったので、蓮花は彼といる間不自由というものを感じたことがなかった。居心地がよかった。

 だが、ふとしたことで、感じてしまう。

 心の満足が、ない。

 気の利いた、ちょっとした会話をしてくれない。私の身体の変化に気づいてくれない。

 ――先生じゃ、ない。

 その事実が蓮花を打ちのめす。

 そして同時に、あの日の診察室の光景がまざまざとまぶたの裏に蘇るのだ。

 首を振る。

 先生は、私じゃなくてもいいんだ。そう言い聞かせた。

「どうしたの」

 話しかけられて、はっとした。そうだった。金田と、食事をしている最中だった。

「いえ、なんでもないです」

「それよりさあ、蓮花さん」

 金田が、上目遣いでこちらを見てきた。彼はそこに置いた手の上に、自分の手を乗せてきた。

「俺、本気になっちゃったよ」

「……」

「蓮花さんの気持ち、聞かせてよ」

 目をそっと閉じる。

 まだ浮かぶ、あの光景。

 心のどこかで、先生には私だけって思ってた。でも違った。それは傲慢な考えだった。

 吹っ切ってしまおう。

 目を開けて、金田に言った。

「……どこか静かな場所に、行きませんか」

「えっ」

「ちょっと酔っちゃって。横になりたいです」

「いいの?」

 金田の目が、本気になっている。蓮花は黙ってうなづいた。

 金田が部屋を取っている間、蓮花はぼーっと表を見ていた。

 白い梅の蕾が、もう咲こうとしている。

 花はいいな。咲いても咲かなくても、誰にも責められない。

 天井の照明を見上げる。

 私の恋は、咲かずじまい。蕾のまま、地面に落ちる。

「蓮花さん、行こう」

 金田がこちらにやってきた。蓮花は彼と並んで、エレベーターの方へ歩いていった。

 部屋に着くと、蓮花はシャワーを浴びたいと言った。

「どうぞ、お先に」

 熱いシャワーを浴びている間、外で金田の話し声がした。どうやら、携帯で誰かと話しているようだ。身体を拭いていると、会話が途切れ途切れに聞こえてきた。

「……ああ、あの女はうまくやってくれた。あの医者野郎に色仕掛けを……」

 ――どういうこと?

 全身から血の気が引いていくのが、はっきりと感じられた。

 思わずタオル一枚で出ていって、金田に問い詰めた。

「金田さん、どういうことですか。色仕掛けってなんですか」

 彼は笑いながら話していたのを振り返って、へらへらと言った。

「ああ、聞こえちゃったか。まあ、そういうこと」

「そういうことって、先生に女のひとを差し向けたってことですか。私を騙したの?」

 わなわなと身体が震える。金田は電話を切って、こちらへ歩み寄った。

「そんなかっこにまでなって、今さらなによ。もうどうでもいいじゃないのよ」

 金田は蓮花の腰を抱いて、ベッドに押し倒した。そして顔を近づけてきた。

「いやっ」

「おとなしくしろって」

 全身の力を込めて、精一杯抵抗した。両腕を押さえつけられて、胸に顔を押しつけられる。嫌悪感が込み上げてきて手を伸ばした時、サイドテーブルに置時計があるのが見えた。

 それを、必死で指で手繰った。あとちょっと。もう少し。男の顔は胸をまさぐっている。

 蓮花の掌が、時計の角を掴んだ。蓮花は力一杯それを振り下ろした。

 そして起き上がると浴室へ行って服を掴み、部屋を飛び出した。

 金田が後ろからなにか叫ぶのが聞こえてきたが、構わずに走り続けた。

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