第二章 5

二週間後、小夜子はまたもやってきた。

「なにしに来た。君は俺にはもう用はないはずだろう」

「今日は患者として来たのよ」

 彼女は診察室に入ってくると、持っていたものを見せた。

「これを見てほしいの」

 それは、茶封筒だった。槇は中身をあらためた。

「これは……レントゲン写真か。君のか」

「意見を言ってほしいの。忌憚なく」

 槇は眉を寄せて、しばらくそれをじっと眺めていた。

 どこかで鳥が鳴いている。

 小夜子は槇が顎に手をやってじっとレントゲンを見つめているのを、見つめていた。

 やがて、彼は言った。

「俺は専門じゃないから詳しいことは言えんが……」

 彼は写真を照らしていたライトを消した。

「Ⅲ期ってとこだろう」

「さすがね。ステージⅢって言われたわ。乳癌よ」

「どうするつもりなんだ」

「ここには、セカンドオピニオンをもらいに来たの。あなたが言うなら間違いがないだろうって」

「言っただろう。俺は癌の専門医じゃない」

「あなたは研修医時代から将来を嘱望されてた。そのあなたが言うなら、そうなのよ」

「……どうするんだ」

「お願いがあるの」

「なんだ」

「どうせ胸にメスを入れるなら、あなたに入れてほしいの」

「馬鹿なことを言うな。俺は闇医者だぞ」

「女の感傷だって言われても構わないわ。それであなたを忘れられる。忘れるいいきっかけにしたいのよ」

「――」

 医者はやってきた患者の手を、決して振り払ってはならない――たとえ相手が誰であろうとも。

 槇は額に手をやって、ため息をついた。

「大きい病院に行って、マンモグラフィを撮ってもらってこい。治療方針を立てる」

「やってくれるの?」

「仕方なしにだ」

 術後の放射線治療は他の病院ですることを約束して、小夜子は帰っていった。

 それとは入れ違いに、三木がやってきた。

「お前か。なんの用だ」

「お前、夕飯食ったか」

「これから行くところだ」

「じゃあ一緒に行こう」

 食堂に共に行くと、三木は店内をしきりに見回した。

「ほほー、こんなところがあるのか」

「言えば大抵のものは作ってくれる。親爺さん、ラーメンね」

「じゃあ俺は炒飯で」

「はいよ」

 料理を待っている間、槇は三木に囁いた。

「言っておくが、ここでは警察だと言わない方がいい。やくざがうろうろしてる」

「む。そうか」

「俺に話でもあるのか」

 三木は声をひそめて、槇に言った。

「棚橋のな、親分なんだが。最近動きが怪しいんだよ。しきりに在日の新興勢力と接触して、どんどん手下を増やしていってる。このままだと、この辺りも棚橋に制圧されかねん」

「そういえばそんな話をよく聞くな」

「お前、なにか知らないか」

「いやなにも」

「しらばっくれるな」

「俺ぁ知らんよ」

 医院で聞いたことは、外には漏らさないことにしている。なにも覚えていない、なにも知らないを貫くのが流儀というものだ。

「ラーメン炒飯お待ち」

 箸を割って食べ始めると、蓮花が出前から帰ってきた。三木がそれに気づいて、顔を上げる。

「そういうことか」

「なんのことかな」

 三木が食べていた手を、ふと止めた。指にささくれを見つけて、それをむしったのだ。

 たちまち血が滲んで、吹き出した。

「うわっ、思ったより血が出た」

「きたねえな」

「お前医者だろ。血なんて見慣れてるだろうが」

「なにを言う。血は排泄物より汚いんだ。他人の血に素手で触ったり舐めたりなんてするもんじゃないぞ」

「そうなのか」

「そうだとも」

「それにしてもここ、うまいな」

「そうだろう」

 そんなことを言い合って食べ終わると、店を出た。

 十月も後半になって、ようやく涼しい風が吹くようになってきた。

「また顔を出す。なにかあったら教えてくれ」

「期待するなよ」

 来たところでどうせなにも言わないのはわかっているだろうに、物好きな男である。

 三日後、小夜子がやってきた。

 手術の日程について話した後、彼女は槇の胸元に目をやった。

「あら」

 小夜子はなにかに気がついた。

「そこのボタン、取れかけてるわよ。かして。つけてあげるわ」

「いいよ」

 しかし、槇は言った。

「これでも医者だ。ボタンくらい、自分でもつけられる」

「でも」

「そういうことは、好きな女にしかさせないことにしてるんでね」

「……そう」

 小夜子が帰っていくところへ、昼食を持ってきた蓮花がまたも出くわした。

「気をつけて帰れよ」

 小夜子に言って聞かせる槇の声に、思わず振り返る。

 あれ? 今日はやさしい。この前と違うな。なんでだろ。

「蓮花か。昼飯だな」

「あ、うん」

 共に三階へ行くと、いつものように槇が食べる様を見守る。先生、どうしてこの前と違って、今日はあの女のひとにやさしかったの? 聞きたくてたまらない。だが、恐くて聞くことができない。代わりに、こう言った。

「先生、この前の男の人、最近よく来るよ」

「三木が?」

「うん。お昼と、あと夜も」

「よっぽど親父さんの飯が気に入ったんだな」

「お父さんも常連さんが増えたって喜んでる」

「そいつはよかったな」

 蓮花が階段を下りていこうとするのを止めようとしてふと手を上げ、その手が止まる。

 なにをやってるんだ俺は。だめだ。

 コツコツコツコツ、足音が虚しく響く。

 余計なことを考えるのはやめよう。明日は小夜子の手術だ。

 乳房全摘出術。助手も看護師もいないから、予習をしておかなくてはならない。

 医学書を引っ張り出して、ずっとにらめっこをしていた。

 手術当日、小夜子はさっぱりとした顔をして現われた。

「覚悟はいいか」

「もう腹は決まってるわ。やってちょうだい」

 麻酔が効いた頃に、手術室に連れて行く。どんな手術であれ、この時ばかりはいつも緊張する。切るのも一人、閉じるのも一人だ。頼れるのは、自分だけ。

 かつて愛した女の胸を切り刻むことに関しては、特になにも思わなかった。

 しかし、こういう時には思う、医師が身内の執刀をしてはならないというのは、理にかなっていると。もしそんなことをしようものなら、とてもではないが冷静に手術などできたものではないだろう。小夜子が他人で、よかったと思う。

 麻酔が覚めると、小夜子は朦朧とした意識のなか言った。

「……終わったの」

「終わったよ。ちゃんと再建しといたから、胸は無事だ」

 小夜子はそっと目を閉じた。

「そう……ありがと」

「今は、ゆっくり休め」

 槇医院に、入院施設というものはない。よって、一階の診察室の奥に仕切りを作って、そこで寝てもらうことになる。しかしこれでは患者にとっても気が休まることはないため、早々に転院していくことになるだろう。

 食事は、蓮花が運んでくれることになった。きちんとした栄養学に基づいて作られた、薄味の病人用の食べ物である。

「小夜子さん、お加減いかがですか」

「ありがとう蓮花ちゃん。今日は昨日よりは具合がいいのよ」

「起き上がれますか」

「うん。ありがとう」

 蓮花は小夜子に食事を持ってくる時、小夜子の調子がよさそうであればいつもなにか話していく。

 いつだったか、昼食を食べ終わった槇は診察室に入ろうとして、こんな会話を聞いてしまったことがある。

「私は小夜子さんほど美人さんじゃないですけど、毎日楽しいですよ。お天気いいと嬉しくなるし、お客さんたちがお父さんの作ったごはんおいしいって言ってくれると最高です」

 それを聞いて、思わず口元が緩んだ。さすがは俺の好きになった子だな。

 と、そこに入れないでいると、後ろで玄関の扉が開く気配がした。

「よう」

 三木だった。

「お前か」

「忙しいか」

「いや別に」

 槇はこたえながら、診察室に入ろうする。

 ちょうど、蓮花が小夜子と話し終えて仕切りから出てくるところだった。

「じゃあ小夜子さん、また明日」

「ありがとね蓮花ちゃん」

 その声を聞いて、三木が目を見開いた。

「この声……小夜子か?」

 彼はずかずかと診察室に入っていくと、おい、と槇が止めるのも聞かずに奥へ行き、仕切りのカーテンを開けた。

「お兄ちゃ……」

「やっぱり小夜子だ。お前、今までなにしてた」

 三木は物凄い形相で槇を振り返った。

「それより槇、なんで今までこのことを黙ってた」

「医者には守秘義務、ってものがあんだ。身内だからって軽々と誰がここにいると言うわけにはいかんよ」

「貴様……っ」

「やめてお兄ちゃん。ここで騒がないで」

 小夜子の静かな声が、三木の怒りを冷ました。

「お父さんたちに連絡を取らなくなったのは、乳癌ステージⅢになって全摘出しなくちゃいけなくなって、どうすればわからなくなったからよ。それに」

「それに?」

 小夜子は決まりの悪い、照れたような顔になった。

「お兄ちゃんとは、元々そんなに仲がいいってわけじゃないし」

「馬鹿言うない。二人っきりの兄妹じゃないかよ。心配したんだぞ。しかもこんなとこにいるなんて」

「こんなとことはご挨拶だな」

「そうよ。先生はすごくよくしてくださったわ。でもここは入院できる場所じゃないから、もうしばらくしたら転院するの」

「……そうなのか」

「きちんとした設備のある、化学療法をやってくれる病院にな」

 三木の肩に手を置いて、槇が言った。

「それまではうちが責任をもって面倒を見るよ」

「転院するのは、いつだ。俺も付き添うよ」

「そうしてやってくれ。だが今日のところはお前のすることはなにもない。患者が疲れてしまうから、帰ってくれ」

 三木が帰っていくと、蓮花は槇に言った。

「小夜子さん、あのお客さんの妹さんだったんだね」

「言わなかったかな」

「とぼけちゃって」

 十一月の中旬に、小夜子は転院することになった。

「小夜子さん、お元気でいてくださいね」

「じゃあね蓮花ちゃん。色々ありがとう。あのごはんが食べられなくなると思うと、ちょっと寂しいわ」

「またいつでもうちに食べにいらしてください」

「そうね。機会があったら、ぜひ」

 小夜子は入り口に立って見送りに出た槇に、こう言った。

「蓮花ちゃん、いい子ね」

「そうだろ」

「好きなの?」

「――」

「大事にしてあげるのよ」

 三木が表からやってきた。小夜子はそれに応えて、顔を上げた。

 蓮花と共に車まで歩いていって、ドアを開けてやる。

「気をつけて行けよ」

 その口調に、蓮花は思わず彼を見上げる。やっぱり、先生は誰にでもやさしい。

 走り去っていく車を見ながら、蓮花は槇に尋ねた。

「小夜子さんとなに話してたの?」

「んー? 別に」

「あーあやしいな」

「そんなこたないよ。お大事にって言ったまでだよ」

「そんな感じじゃなくて、もっと親密だった。んーなんか秘密のにおいがする」

「秘密なんてないよ」

「あやしいあやしいあやしすぎる」

 槇は医院の方へ歩き出しながら、小夜子に言われたことを頭のなかで反芻していた。

 大事に、か。

 相手の気持ちもわからないままそうしてやるのは、果たして正解なのかな。

 空を見上げると、冬の太陽が曇り空に遮られて弱く光っていた。

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