第二章 3

本格的な夏がやってきた。

 街では今年も、夏祭りが開催される。

 我妻組も棚橋組も、屋台を出す。やくざの伝統的な収入源の一つであろう。

 だが棚橋の方は、今年は規模を小さくしていくようだ。どうやら、他に事業を拡大していくらしい。

「暑いし稼ぎは悪いし、いつまでもこんなことやってたら割に合わねえ。もっとでかい凌ぎがある」

 棚橋組は最近在日の新興勢力と手を組み始め、昔ながらのやくざ稼業からは足を洗いつつある。金儲け一筋の、より汚いやり口をすることが目立つようになってきたと専らの噂だ。

 槇は今年も救護班としてテントに待機することになっている。迷子になった子供の集まる場所の隣に陣取ったので、泣いたり退屈して寝てしまう幼児が目についた。

 鼻血を出してしまったとやってきた浴衣の女の子がいた。

「あー、こりゃ暑さにやられたな。氷で冷やしてあげよう」

 この真夏に、綿やナイロンの浴衣を着ていればこうなる。暑いもんなあ。槇はうちわで扇ぎながら呟く。

「先生、夕ご飯よ」

 風がほとんどない、そんな暑い夜に蓮花はやってきた。槇はそれで驚いて、顔を上げた。

「なんだ、どうした」

 彼女はTシャツに短パンを履いて、首からタオルを下げていた。

「なんだそのかっこ」

「お父さんが屋台出してるから、手伝ってるの。はい、夕ご飯」

 屋台ではオムそばを出しているのであろうか、蓮花はそれを手渡すと、

「じゃあね。また明日」

 と行ってしまった。呆気に取られてその背中を見送ると、もそもそと出された夕食を食べる。なんだよあの服。露出しすぎだろ。

 その後も、怪我人は続々ときた。転んだ、頭を打った、実に様々な理由で彼らはやってきた。それらの手当てをして祭が終わる頃には、時刻は八時過ぎとなっていた。

 屋台の店じまいをしている人々が目に入る。それが、なんとなく気になった。

 道を歩いていると、蓮花と父親が食材をしまって帰ろうとしているところだった。

「よう」

「あ、先生」

「今終わったのか」

「うん。先生も?」

「ああ。今年は怪我人が多かったなあ。そっちはどうだった」

「うちは大繁盛だった。オムそば、大正解。来年もまたやろうってことになった」

「うん、確かにうまかった。リピート確定だな」

「お父さんに言っとくね」

 歩きながらそんなことを話していると、前方で騒ぎがあった。

「なんだとこの野郎。もっぺん言ってみろ」

「何度だって言ってやらあ。我妻は時代遅れ、古臭いやくざの集まりだ。もうやっていけないんだよそんなことじゃ。最先端のやり方じゃないと、俺たちみたいのは取り残されるのさ」

「この……」

 どうやら、我妻と棚橋の者の喧嘩らしい。それを、周りが止めている。

 槇はそれを見て、蓮花を別の道に誘った。

「あっちから行こう」

 空がやけに明るいので見上げると、三日月がぽっかりと浮いている。

「わあ、見て先生。きれいなお月様」

 槇はつられるようにして、空を見た。

「こうして見ると、月も暑そうだなあ」

「三日月って、氷のかけらみたいで口に入れると冷たそうだけどね」

「俺には猫の爪に見えるけどなあ」

 そんなことを言い合いながら、食堂に着いた。

「じゃあね先生。また明日」

 蓮花は、いつも笑顔だ。疲れているだろうに、悩みがあるかもしれないのに、そんなことは見せないかのように笑っている。

 槇はそれでなぜかほっとして、流されてしまうのだ。

 蝉がみんみんと鳴くある日の夕暮れ、食堂にある男がやってきた。

「こんにちはおじさん。お久しぶりです」

 年の頃は二十代半ば、よく日に灼けたがっしりとした体型のその若者が入ってきてそう言ったので、親爺は顔を上げて彼の顔を見た。

「おや、あんた浩一かい。なつかしいなあ元気かい」

 浩一と呼ばれた男はカウンターに座ると、

「ラーメンください」

 と言い、

「お元気ですか」

 とも言った。

「ああ、元気元気。どうしてた? 地元一の出世頭が。蓮花は今、出前に行ってるんだ。 もうすぐ帰ってくるから、食べて待っててくれ」

 親爺が料理している間も、浩一はなつかしそうに店内を見回していた。

 しばらくして、蓮花が戻ってきた。

「ただいまー」

「蓮花、浩一君が来てるよ」

「え?」

 蓮花がカウンターに目をやると、浩一は立ち上がって彼女と対面した。

「蓮花、ひさしぶり」

「浩一……」

 蓮花が、信じられないものを見たような表情になる。

「帰ってきたの? いつ」

「三日前。こっちには、二週間ほどいるんだ」

「そうなんだー」

 蓮花はそこに座って、浩一と話し始めた。

「今なにやってんの」

「今は貿易の仕事だよ。パソコンの部品を扱う、商社の仕事って言えばわかりやすいかな」

「貿易の仕事って、やっぱり英語使うんでしょ」

「まあね」

「すごいなあ」

 そこへ親爺が、

「蓮花、先生んとこへ行ってきてくれ」

 と皿を出した。

「はーい。浩一、ちょっと待ってて」

「あ、俺も行かなくちゃいけないんだ。今日は帰ってきたって言いにきただけ。明日、食事に行かないか。みなとみらいの方に」

「いいよ。七時くらいなら」

「じゃあここに迎えに来るから」

 そう言い交わして、その日はそれで別れた。

 ひさしぶりに浩一と会えて、蓮花は機嫌よく槇の元へ行った。

 それは、態度や声色にも出ていたようだ。

 槇にはすぐにわかったようだった。

「なんだ、今日はご機嫌だな」

「うん、あのね。幼馴染がひさしぶりに海外から帰ってきたの」

「幼馴染?」

「うん。うちの高校から大学に行った数少ない子で、就職して、海外に赴任してったの。 明日一緒に食事しようって約束したんだ」

「……それって男?」

「うん、そうだけど」

 蓮花がなんてことないような顔をして答えたので、槇はもうそれ以上なにも言うことができず、かといって気に入らない顔をするわけにもいかず、なんとなく喉に魚の骨が刺さったような気持ちになっていた。

 翌日蓮花が夕食を持ってきて、この後ごはんに行くんだ、と言って出ていってしまっても、なにも言うことができなかった。

 その晩蓮花はふだんはしない化粧をして、いつもよりちょっと高い服を着て浩一と横浜に行った。

 港が見えるレストランから海を眺めつつ、二人は思い出話に花を咲かせた。

 幼稚園の時の、遠足の話。

 小学校の、林間学校の話。

 中学のいじわるな学級担任の話。

 高校の、修学旅行の失敗の話などを。

 それから浩一の海外の生活の話題になって、蓮花は見たことも聞いたこともないような外国の話を目を輝かせて聞いていた。

「蓮花は相変わらずだね」

 運ばれてきたデザートを食べながら、浩一は言った。

「んーそうかなあ」

 蓮花は肘をつきながら、感慨深げに言う。

「自分では色々変わったと思うんだけど」

「ちっとも変わってないよ。明るいとこ、よく笑うとこ、おいしそうにご飯食べるとこ、それから」

 彼は身を乗り出した。

「きれいなところも」

「――」

 テーブルの上に置いた手にそっと浩一の手が乗せられて、どうすればいいかわからない。

「こ、こうい」

「蓮花」

 浩一は彼女の目を見据えた。

「今度、正式にロス支店に赴任になるんだ」

 彼は言った。

「一緒に来てくれないか」

「そ、そんないきなり」

「僕は二週間こっちにいる。その間、ゆっくり考えておいてほしい」

 ずっと好きだった。

 彼は熱っぽい瞳でそう言った。

 その目に自分が映っているのかと思うと、顔が熱くなる。

 蓮花は家に戻ると、ベッドに飛び込んだ。

 どうしよう。こんなの、なんて返事すればいいの?

 言われたことが頭のなかでぐるぐる回って、その日はよく眠れなかった。

 それでも朝は無情にもやってきて、蓮花は槇のところへ行った。

 あーあー、どんな顔して先生の顔見たらいいんだろ。

「先生、おはよ。朝ご飯よ」

 寝ぼけた顔で起きた槇は、ぼーっと朝食を食べながら彼が食事を終えるのを待つ蓮花を見つめている。

「昨日、眠れなかったのか」

「え?」

「目が赤いぞ」

「そ、そうかな」

 慌てて鏡を見る。確かに目が充血している。

 槇は洗面台に立ちながら、静かに尋ねた。

「なんかあったのか」

 ぎくりとして振り向くと、彼は歯を磨きながらなおも言った。

「ゆうべ」

「な、なんでもないよ」

「そうか」

「じゃあね。またお昼に」

 皿を手に、蓮花は逃げるように階段を下りていった。

 ひゅー、あぶないあぶない。先生ったら、いきなりどうしたんだろ。

 その夜、浩一が食堂に食事にやってきた。手には、蓮花への贈り物を持って。

「蓮花、これ」

「なあにこれ」

「使ってくれたら嬉しい」

 そう言って彼は親爺の作った炒飯を食べ、帰っていった。

 蓮花は自分の部屋に上がって、箱の中身を見てみた。

 踵の高い、品のいい赤い靴だった。

 蓮花はそれを手に取って、まじまじと見た。きれい。きらきらしてる。鏡の前でそれを履いてみた。わっ、背が高くなった。足が細く見える。

 知らない自分が見えたようで、胸が高鳴った。

 次の日の夜も浩一はやってきて、蓮花と話をして帰っていった。

 その次の日も彼は来ると食堂で食事をして、蓮花と会って帰っていった。

「なんだか最近、顔色が悪いぞ」

 十日目、槇はそんなことを言った。

「ちゃんと食べてるか」

 それを聞いて、蓮花の胸のなかでなにかが決まった。

 翌日の夜、浩一は蓮花を呼び出して尋ねた。

「蓮花、返事を聞かせてほしい。僕と一緒にロスに行かないか」

「……」

 蓮花はまだなにを言ったらいいのか、どう言ったらいいのか、頭のなかでよくまとまらなくて、それを色々と考えている。そして意を決したように顔を上げると、彼女は言った。

「私、好きなひとがいるの」

「その男は蓮花のことをどう思ってるの。両想いじゃないんだろう。だったらそんなの、不毛だよ。僕と行こうよ」

「それは違う」

 蓮花は言葉を強くして言った。

「それは違うよ。両想いじゃないからそのひとのこと好きじゃいけないだなんて、そんなの違う。誰かに好かれたから好きなひとのこと諦めてそのひとと結婚するって、違うと思うよ。そんなのほんとの好きじゃない。たとえ相手に好かれてなくても、相手に気づかれてなくても、好きは好き。自分の好きって気持ちは、大切にしたい。そういう気持ちを大切にしてくれるひとと、一緒にいたい」

「蓮花……」

「浩一のくれた靴はきれいだけど、私の生活のなかには必要なものじゃない。私が好きなのは、私のちょっとした変化に気づいてくれるひと。私のことを心配してくれるひと。そういうのってなんでもないことだけど、地味でどうでもいいことかもしれないけど、でも一番大切なことだと思う」

 彼女は言った。

「だから浩一とは、一緒に行けない」

 どこかで蝉が鳴いている。

 浩一は寂しそうに笑った。

「そうか。僕は君が好きだと言いながら、君のことをなにもわかっていなかったんだな。

 ごめんよ」

 そう言って、彼は去っていった。その背中を、蓮花はずっと見つめていた。

 夏が終わろうとしている。

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