第二章 2
蓮花を抱く時、槇が一つだけ蓮花の願い事を聞かないことがある。
灯かりだ。
「暗くして」
そう頼む彼女の言葉を聞かず、槇は手元の読書用のライトを点ける。そうされると、蓮花は両手で目を覆う。まぶしさと、顔を見られたくない思いとで。
顔を見られたら、泣きそうになるのがわかってしまう。先生に抱かれていると、先生のことが好きっていう気持ちと、もっと一緒にいたいっていう気持ちと、それが言えない気持ちがぐちゃぐちゃになって、泣きたくなる。それを隠せなくなる。だからお願いする、
「先生、暗くして」
「だめだ」
槇は蓮花を抱いている時、隅々までその身体を見たいと思う。どんな表情をしているのか、どんな目をしているのか、どんな風にその白い肌が染まるのかを見たいと思う。
そして、蓮花がどんな目で自分を見つめているのかを見たいとも思う。それに応えてやれない自分にやるせなくなるのにも関わらず、どうしてもそれがやめられないのだ。
言葉に出さなくとも、槇は蓮花のしてほしいことがわかる。
彼女が顎を上げれば、くちづけをしてほしい時。
腕を伸ばせば、抱きしめてほしい時。
首にしがみついた時は、もっと強く抱いて欲しい時。
一度も口にしたことがないのに、槇は蓮花のその要求に正確に応える。だがしかし、彼女は本当にしてほしいことは、絶対に口に出さない。泣きたい気持ちを堪え、涙を押し隠してその言葉を飲み込む。
そうして槇が果て、余韻が冷めると起き上がって言うのだ。
「じゃあ、また明日ね。先生」
こんなこと、長くは続かない。でも、言えない。言ったらいけない。だから私は、じっと待つ。先生の口から終わりが告げられるまで。その日まで、この関係は続く。
そうしてまた、朝が来る。
「先生、おはよ。朝ご飯よ」
槇が起き上がって着替え、朝食をもそもそと食べる様を、蓮花はじっと見ている。
「……なんだ」
「先生、若いね。三十三歳には見えない」
「三十三は若いとは言わん」
「その年齢にしてはって意味」
「褒めてんのかけなしてんのかわかんねえな」
「褒めてるよ。褒めてる」
蓮花は目をそらして、窓の外へ目を向けた。
朝日が差して、どこかで鳥が鳴いている。今日は珍しく、晴れている。
槇が立ち上がって、歯を磨いている。蓮花はぼーっと、外を見ている。彼が口をゆすぎ終える頃、蓮花は立ち上がって食器を取り、階段から下りていこうとしていた。
その手首を後ろから掴んで、槇は唇を重ねた。唇と唇が触れる程度の、軽いくちづけ。
「――」
そんなことをされるのは初めてだったので、蓮花はきょとんとして彼を見上げた。槇は何事もなかったかのように、
「気をつけて帰れよ」
と言い、エレベーターのボタンを押した。蓮花がうん、とこたえる頃にはエレベーターの扉は閉じて、彼は行ってしまっていた。変なの。蓮花は小さく呟くと、いつものように階段を下りて行った。
その夜、槇は夕食を食べに食堂に赴いた。
「いらっしゃい先生」
「炒飯ね」
店内を見回すと、あちらに三人組、隅に二人組、あとあっちに一人か。親爺が鍋をかき回す間、槇はなんとなくその三人組から目を離さないでいた。
「はい炒飯お待ち」
カウンター越しに炒飯の皿が出された時のことである。
三人組の一人が、二人組のうちの一人と目が合った。それで、両者が立ち上がった。
「なんだてめえ」
「てめえこそなんだ」
二人は掴み合わんばかりとなり、それを止めようとした連れ同士が揉み合う形となり、狭い店内はたちまちのうちにこの五人のやり合いでもみくちゃになった。
槇はカウンターに乗り上げたそのうちの誰かの背中をよけたついでに炒飯の皿を持ち上げると、その拍子に殴られて飛ばされた誰かの顔をひょいと避けて座り直した。
「表に出やがれ」
ようやくのことで五人が外に出ることで収まりがつき、店のなかは静かになった。
この街ではいつものことだ。槇は何事もなかったかのように黙々と食べ始めた。
親爺はそんな彼を見ながら、
「ねえ先生」
「うん?」
「蓮花は、どうです」
「なにが」
「あの子は、先生のことが好きなようで」
ぶっ、と思わず食べていたものを吹き出して、槇は親爺を見上げた。
「先生もそうだと、俺ぁ嬉しいんだがねえ」
どうしたんだ親父さん。信じられないものを見るような目つきで彼を見ると、槇は急いで炒飯を食べ終え、水を飲みほして立ち上がった。
「ごちそうさん」
「またどうぞ」
表に出ると、また雨が降っていた。
医院に戻って玄関の扉をちらりと見る。親爺に言われたことが思い出されて、小石を置く気にはなれなかった。
三階に上がると入浴し、髪を乾かしながらテレビをつける。といっても、なにかしらの番組を観ているわけではない。音が聞こえていることに安心しているだけだ。
診察と睡眠だけの生活の繰り返しの生活に、不満があったわけではない。
ただ、ふと寂しくなることがたまにあった。
彼女は、そんな時に現われた一輪の花だった。
疲れ果てて眠っていると、夢を見ることがある。
底なしの泥の沼のなかに、ずぶずぶと沈んでいく夢である。
その沼のなかで槇は、抗うこともできずにただ手を上に伸ばしている。なんとかしてそこから逃げ伸びたいと思っているのに、動くことができずに暗い空を見ることしかできずにいるのだ。
そうして目が覚めるのである。
「せんせ、おはよ。朝ご飯よ」
起きると、大抵蓮花が自分を覗いている。
「……何時だ」
「八時。ほら起きて。冷めちゃうよ」
いやな夢を見た。最近頓に、あの夢を見る。
朝食を食べながら、こちらを見る蓮花の顔をじっと見る。
「なんだ」
「そんなに朝弱くて、よくお医者さんなんてできるね」
「頭の切り替えは早い方だ」
槇が食べ終わると、蓮花は食器を受け取って言った。
「お昼までにはその寝ぼけた頭、すっきりさせといてね」
なんだ、俺はそんなにひどい顔をしてるのか。そう思って鏡を見ると、確かに淀んだような浮腫んだような、二日酔いにでもなったような顔をしていた。
この顔で診察などされては患者はたまったものではない。
冷たいシャワーを浴びて、頭をすっきりさせた。
医院をやっていると、時々患者に色々なものをもらうことがある。
「先生、これはつまらないものですけど」
「これ、庭で取れた野菜で作ったんです。よかったら」
それらの贈り物を、槇はいつも有り難く頂戴する。患者の気持ちだからだ。
昼食の時、たまたまそれを三階に持って上がった。
いつものように椅子の背もたれを抱くようにして自分が食べる様をじっと見ている蓮花に、槇は言った。
「患者にお団子もらったんだ。食べるか」
「食べる」
「ほれ」
「あーん」
槇が差し出したみたらし団子を、蓮花は口を開けて食べる。
「甘いね」
「たれがついてるぞ」
「ん」
口元を拭って、蓮花は立ち上がる。
「私お茶淹れるね」
そして、こんなことを話し出す。
「そういえばね、この前中学の頃の友達と会って、お茶したんだけど」
「ああ」
「その時に話題になった先生がいてね」
「どんな先生?」
「中学一年の時、古文の女の先生がすごく厳しいひとで、教科書とかを忘れたりロッカーに置いたまま取りに行くのを忘れたりして授業が始まっちゃうと、それは授業を受ける心構えがない証拠だから、って言って、生徒を後ろに立たせてたのね」
「へえ」
「教え方もすごく厳しくて、だからその先生の授業の時だけ空気がぴりぴりしてた。私、古文の授業は割と好きな科目だったんだけど、その先生だけはどうしても好きになれなくて、だから成績もあんまりよくなかった。先生の好き嫌いじゃなくて、その科目の好き嫌いで成績を決めたかったのに、ほんとは好きな古文で成績が悪くて、なんだかすごく損したような気分になっちゃって」
「それって日本人の宗教観みたいなのが根底にあるんだよな。ミスは『真剣さ』『真面目さ』『本気さ』『緊張感』の欠如によって起こる、となんとなく思っていて、だからミスをしたら精神的に辛くなる罰を与えて『反省』させて次のミスを防ぐんだ」
「その先生は立ってる子に反省の色が見えるまで立たせてたの。でもそんなの、主観だよね。顔に出ない子だっているじゃない。そういうのって、正しいのかな」
「正しいか正しくないかで言えば、正しくはないだろうな」
「かと思えば、英会話の授業の外国人の先生は、ロッカーに教科書置きっぱなしでどうしようってなったら、それを英語にして黒板に書いて、教科書を置きっぱなしにした生徒に読ませるの。私の教科書がロッカーにあるので取りに行っていいですか、って。そしたらいいですよ、行ってらっしゃい、って言って、取りに行かせてくれるのよ。それで全員の教科書が手元に揃ったところで授業が始まるの」
「いかにも海外のやり方だなあ」
槇は箸をそこに置いて、背もたれに寄りかかった。
「俺としては、子供に余計なプレッシャーを与えるやり方は賛成できないけどね」
「私もそう思う」
蓮花は両肘をついて、そこに顎を乗せた。
「なんだったんだろう、あれ」
「まあまあ、過ぎたことを考えてもしょうがないだろ」
そこへ、一階で扉が開く音がして、誰かの声がした。
「お、患者だ」
「夜は?」
「今日は患者が多いみたいから、行けないよ。持ってきてくれ」
「はーい」
蓮花が階段を下りて玄関に差しかかった時、やくざ者らしい人影がぶつぶつと言いながら診察室に入っていくのが見えた。
「先生よう、背中からぶっ刺された。彫り物に傷がついたぜ」
「どれどれ」
患者を横にならせて背中をあらためると、確かに背中を刺されている。腕から背中、前にかけて、一面に入れ墨が施されている。
「あーこりゃ縫わなくちゃいかんな。観音様も、ちぐはぐになっちまうな。残念」
「くっそう我妻の奴ら」
「ちょっと消毒するから待っててね」
「あいつら、俺らがあの在日の連中とつるんで勢力を拡大するのが気に入らないんですよ兄貴」
「頭がよくないと今の時代食っていけないんだ。昔気質のやくざなんてもう時代遅れなんだって思い知らせてやらねえと」
槇がそのやくざの背中を縫っている間、その棚橋組のやくざと子分はしきりに我妻のやくざとどうやり合うかを話し合っていた。
「はいいいよー」
槇は手袋を外した。
「請求書はいつも通りに送っておくからねー」
患者は服を着ると、おい、行くぞと言って出ていった。子分が槇に会釈してそれを追う。
やれやれ。それを見送って、槇はため息をついた。なにか、きな臭いことになりそうだな。
窓の外を見ると、もう雨は上がったようである。
そろそろ梅雨明けかな。
晴れ渡った青い空は、どこまでも澄んでいた。
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