第一章 4

蓮花の肌は柔らかい。指で押せば、飲み込まれるように沈む。

 その肌に溺れそうになりながら、舌を這わす。蓮花は、背筋が弱い。そこを舐められると、びくりびくりと激しく震える。

「あ、先……」

 こぼれる吐息もろとも、唇を塞ぐ。息が上がっていた蓮花は呼吸ができなくなって、何度も息継ぎをする。

 事が終わると、蓮花は決して長居をしない。余韻が冷めた頃に起き上がって服を着て、

「また明日ね、先生」

 と言う。

「シャワーくらい浴びていけよ」

 槇は言う。これではまるで女を買ったみたいで気が引ける。蓮花にも悪い。

「うん、遅くなるから」

 彼女はそんなことは気にしていないかのように、さっさと行ってしまう。槇が止める暇とて、ない。

 彼女が階段を下りていく足音を聞きながら、こんなんじゃだめだよなあ、と自戒を込めて思う。しかし、どうしていいのかもわからない。なんと言っていいのかすら、わからない。

 起き上がって服を着ようとしていたら、玄関で呼び鈴が鳴った。なんだ、患者か。それで服を着ながらエレベーターで下りていくと、扉の外に人影が差していた。

「はいはい、今日はもう終わりですよ。急患でなければ、明日に……」

 と言い差したところで、その男は言った。

「槇先生。一緒に来ていただきたい」

「――」

 低い、打ち据えるような声に、行かなければ容赦なくとんでもない目に遭わされかねないと思った。

「……お待ちください。今、鍵を取ってきますから」

 槇は玄関裏に行って鍵を取ってくると、表に出て鍵を閉めた。そして男の後について行った。

「こちらに」

 しばらく行った裏路地に、黒塗りの大きな車がエンジンをかけた状態で待っていた。

 それに乗ると、いきなり目隠しをされた。

「失礼します。先生を信用していないわけではありませんが、念のため」

 車が走り出した。車は、何度も何度もあちこちを曲がっているようだった。わざとそうしているのか。槇はそう思った。道を覚えられないようにでもしているのかな。

 そうして槇の感覚で三十分程も行った後ようやく車が止まったかと思ったら、後部座席のドアが開く音がして、

「そのまま、お降りください」

 と声がした。手探りをしてそろりそろりと降りると、そのまま腕を引かれた。引き戸を引くような音がして、砂利の上を歩く感触がしたかと思うと、がらがらという音が聞こえた。

 そこで初めて、目隠しを外された。

「失礼しました。どうぞ、お上がりください」

 周りの照明の明るさに思わず顔を顰めた。目が慣れてくると、日本風の邸宅の玄関にいることがわかった。白木の廊下が、あちらに続いている。

「どうぞ」

 明るいところで見ると、自分を連れてきた男がいたく長身であることがわかる。仕立てのいいジャケットを羽織り、足元もしゃれている。男は先に立ってなかに入ると、廊下を歩いて槇を案内し始めた。

 ある予感が、槇の胸にあった。

 それは奥に進むにつれ、どんどん大きくなっていった。

「こちらでお待ちです」

 そして行きついた襖を男が開いてなかの景色を見た時、果たして槇の予想は当たっていた。

 俺はやくざの親分の家に呼ばれたってわけか。

 部屋は和室で、二十畳ほどある。正面に馬鹿でかいベッドがあって、そこに壮年の男が半身を起こしていた。

「先生、どうぞ入ってくれ」

 槇はちらりと脇にいる男を見てから、その和室に入った。そしてベッドの側に行って、男の近くまで歩み寄った。

「こんな形でお呼び立てしてしまって申し訳ねえ。俺は我妻組組長の我妻重蔵だ」

「槇宗一郎です。はじめまして」

「堅っ苦しい挨拶は抜きにして、俺を診てくれ先生。病院の医者には重症だと言われた」

 重蔵はそう言うと、着ていた着物の合わせをはだけて腹を見せた。

 その腹が、異様に膨れ上がっている。それに、肌が黄色い。槇はわずかに目を細めた。

「失礼」

 槇は重蔵の掌を確かめた。手掌紅斑ができている。

「熱はありますか」

「常にある」

「吐血や、下血は」

「しょっちゅうだ」

 わからないように息をそっとついて、槇は言った。

「肝硬変ですね。生体肝移植しか手がないでしょう」

「病院でもそう言われた。だが俺は今、病院に行くわけにはいかねえのよ」

「なぜです」

「そんなことをして棚橋に知れたらいつ襲われるかわかったもんじゃねえ。そうなりゃ組もおしまい、シマもめちゃくちゃだ。なにより、堅気の人間に迷惑がかかっちまう。それだけはなんねえ。俺には子分どもの面倒を見る責任てもんがあるんだ」

「ですがこのままにしておいたら死んでしまいますよ」

「だからあんたに頼んでるんだ」

「どういうことです」

「移植する肝臓はある。ここでやってくれ」

 槇は驚いて、目を見開いた。

「そんなことは無理です」

「無理でもやれ」

「設備がない。それに、人手も足りない。私一人でできることじゃない」

「医者が足りねえなら、呼んでくる。とにかく今ここでやるんだ。道具も設備も揃えてある。先生はただ、うんと言ってくれりゃいいんだ。言わねえのなら、死んでもらうまでだ」

「そんな」

 なるほどな。医院までやってくればあそこは中立地帯だから手出しはできないが、外に出れば俺になにをしようと問答無用というわけだ。

 いつの間にか後ろにやってきた男に拳銃を向けられて、両手を上げた。

「そんなことをすれば、棚橋組のひとたちが黙っちゃいませんよ」

「どのみちあいつらとは片をつけなくちゃなんねえんだ。いつつけるかってだけの話だ」

 参ったな。さっき蓮花を抱いたのが最後になるかもしれないとわかっていたら、もっと抱いとくんだった。

「さあ返事を聞かせてくれ先生」

 重蔵が凄んだ。背中に銃口が突きつけられる。

「……わかりました」

 ため息をついて、槇は観念した。

「すぐに取りかかりますので、準備してください。あなたたちは部屋を出て。消毒をします」

 槇は水道を借りて、手を洗った。手術用のテントが張り巡らされて、消毒がされた。

 助手と看護師らしき者たちが入ってくる。

「こいつらは俺の息がかかった専門職だ。口は固えから安心してくれ」

 重蔵が麻酔をかける前ににやりと笑って言った。それから、移植用の肝臓が専用のケースに入れられて運ばれてきた。どこであんなものを手に入れたんだ。槇はそれを横目でちらりと見ながらそんなことを考えていた。

 患者が麻酔で眠らされると、槇は手順を頭のなかで思い出しながら手術を始めた。

 すべてが終わる頃には、夜が明けていた。

「……よし、と」

 槇は縫合を終えると、テントから出た。

「先生、親父は」

 部屋の外では、先ほどの男が寝ずに待っていた。

「移植した肝臓がちゃんと機能すれば、大丈夫なはずですよ」

「ありがとうございました」

 お送りします、と言われ、ふらふらになりながら廊下を歩いた。

 また目隠しをされたが、車のなかでは眠ってしまっていた。

 医院に着くと、朝日が昇っていた。

「ありがとうございました先生。お礼はまた、後日」

「はいはい」

 ああ、疲れた。ゆらゆらと揺れる視界を励ましてエレベーターに乗り、ベッドに倒れ込む。

 泥のように眠った。

「……せい。先生」

 それから、何時間経っただろうか。

「先生ったら」

 蓮花が覗き込んでいる。

「……蓮花か。今何時だ」

「八時。朝ご飯よ」

「次の患者が来るまで、寝かせてくれ」

「えっちょっ」

 布団をかぶって寝入ってしまった槇を見て、蓮花はため息をついた。

 しょうがないなあ。でもきっと、昨日お仕事が大変だったのね。

 蓮花は朝食をテーブルの上に置くと、そっと階段を下りていった。

 三階には槇の安らかな寝息だけが聞こえている。

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