第一章 3
2
槇は元々、将来有望な医師の卵としてある大学病院の研修医をしていた。まだどの専門に行くかも決めていない、青さの残る時期であったように思われる。
ある夜のこと、救急に連絡があった。五歳の男の子がひどく苦しんで、のたうち回っているとのこと。すぐに救急車が行くから、応対してほしい。当直医は槇一人だった。
彼はすぐに看護師たちと連携を取って、救急車の到着を待っていた。
「待ちたまえ」
そこへ、誰かが後ろからやってきた。
「手術室を使うのかね」
病院長が、立っていた。
「はい、五歳の男の子が搬送予定です。恐らく開腹することになると思います」
「後にしたまえ。もうすぐ八幡大臣がこちらに見える」
「は?」
「大臣がお忍びでうちの病院で心臓の手術をされるというのだ。他に手術室の空きがない。 融通したまえ」
「こちらは急を要するんですよ」
「大臣が先だ」
「五歳の男の子の、命に関わるんです」
病院長は眉を上げた。
「君は研修医だろう。研修医の分際で、私に意見するというのかね。それに、その辺の子供と大臣の手術と、どちらが大事だと思う。天秤にかければそんなことは簡単にわかる」
「そんな……」
あちらの扉が開いて、看護師がカートを押してきた。
「大臣がお見えだ。手術室には私がお通しする」
「あっ……」
去っていく病院長の背中を、槇は茫然と見つめていた。
「槇先生、患者が搬送されました。対応お願いします」
「……無駄だ」
「えっ?」
「処置は、できない」
それでも、精一杯のことをした。痛みで暴れまわる子供に注射をして麻酔をし、苦痛を和らげた。だが、それくらいしか方法はなかった。開腹して手術するしか手立てはなかったのだ。
時間は無情に過ぎていき、子供は亡くなった。
命を選んで、いいものなのか。
命に値段が、あるのか。
なにもかもが嫌になって、病院を辞めた。
自暴自棄になって街をうろうろしているうちに、自分がどこにいるかわからなくなった。
そして、廃屋のような建物の前に出た。
そこから漂うかすかな消毒液臭に、病院か、と立ち尽くしていると、後ろから来た男とぶつかった。
「ごめんよ」
と言われて顔を上げれば、その男の腹から夥しく出血していて、思わずぎょっとしていると、その男は迷わずその病院のなかに入っていくのだ。
「先生、またやられちまった。縫ってくれ」
「なんだーまたかー。しょうがないな。そこに横になれー」
という声がして、恐る恐るなかを覗いてみると、なかは診療所のようである。
しばらくして先ほどの男が出てきて、
「ありがとな先生」
「これに懲りて、しばらくはおとなしくしてろよ」
という声がして、槇はその声の主を見た。
齢七十程度であろうか、白髪に口髭の老人が、白衣を着てそこに立っていた。
老人は槇に気づくと、
「おーん? なんじゃ、お前さんもどっか怪我したのか。しょうがないな。まあいい入んなさい」
「あ、いや俺は」
「ここに寝て。ほーれ。どこが痛い。頭か。腹か? 足か。うん? どこかな。頭を打ったかな? 骨はどうだ」
老人が槇の頭をわしゃわしゃとやって探ったので、彼は慌てて起き上がった。
「いや、あの、
「ほほう」
老人は口元の髭を指でいじると、槇の顔を覗き込んだ。
「お前さん、医者かね」
「え」
「医者だな? そうじゃろう」
「な、なんでわかるんですか」
「
さて、と老人は言うと、
「医者ならちょうどいい。最近忙しくてな。ちっと手伝ってくれ」
「え、あ、ちょっと」
老人らしからぬ足取りで奥まで歩いていくと真新しい白衣を槇に渡し、老人は言った。
「うちの患者は八割がやくざもんじゃ。刺し傷、銃創、殴った痣なんかだ。通報はせん。 ここは中立地帯じゃからな」
「中立地帯……?」
「やくざの手出しできない、聖域といったとこかな」
ばたん、と玄関の扉が開いて、誰かが入ってきた。
「ほれ来なすった」
「先生、撃たれた。まだ弾がなかに入ってるんだ。なんとかしてくれ」
「すぐに運べ。摘出する」
老人は声を張り上げると、槇に言った。
「お前さん、オペは?」
「助手なら何度か」
「ええじゃろう。来なさい」
二人はエレベーターで二階に行くと、手を消毒して手術室に入った。
槇は銃弾なんぞを見るのは初めてだから、傍で見ていてさすがに目を瞠った。
「よーし、肝臓を貫通せずにすんだぞ。これで腹を閉じて終わりだ。縫合してみるか」
「は、はい」
手術室を出ると、患者を連れてきたやくざが待っていた。老人は摘出した弾を彼に渡すと、
「一週間は動けんが、安静にしてたら帰っていいよ」
「ありがとうごぜえます。請求書はいつも通りに」
「うん」
「ではあっしは今日のところはこれで。また明日来ますんで」
その会話を聞いて、槇は驚いて老人に尋ねた。
「一週間? あんな重傷の患者を、開腹しておいてたった一週間入院させておくだけで帰すんですか」
「うちには入院させるだけの施設がないんじゃよ。それに、本人たちもここにいるより帰りたがるんでそうさせてるだけじゃ」
「ですが」
「まあ動けない患者にはいてもらうけどね」
「……通報しないって、どうしてですか」
「ここは違法な手術を取り扱うことが多い医院だからじゃよ。やってる儂も後ろ暗いところがある。だから通報したくてもできないというのが正解かな」
「そんな」
槇が異議を唱えようとした時、一階の扉が開く音がして誰かがやってきた。
「せんせー、ころんじゃったー」
「ほいほーい。今行くぞーい」
老人がエレベーターで階下に行き、小さな子供に応対している声が聞こえる。
槇は下に下りてその様子を見ていた。
その後も、患者はひっきりなしにやってきた。
腹が痛い、子供が生まれそうだ、足を折った、やってくる人間の性別や年齢も様々だった。
その誰もに、老人は親切で丁寧に接した。彼の処置は、丹念かつ正確で、無駄がなかった。
「お前さん、暇ならここを手伝ってくれんか。最近は年のせいか足腰が弱くなってなあ」
そう言われて、ここで働くことになった。
この医院では、命の選別という醜悪な行いは、されることがなかった。
あるのはただ、ひたすら患者を治したいという気持ち、それだけだった。
働き始めて数年経った日、老人がこう言った。
「お前さんにここをやるよ」
驚いて顔を上げる槇に、彼は言った。
「儂もそろそろ引退じゃ。目が、よう利かん。医者が人を殺しかねん事態になる前に、辞めるとしよう」
そうして槇はこの医院で一人で働いていくことになったのである。
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