第一章 1
1
槇医院は横浜の下町にある三階建てのクリニックである。廃屋と言われても納得してしまうような古びた建物、汚れた看板、およそ人など近寄らないであろう寂れた界隈であるにも関わらず、この医院が潰れる気配は一向にない。
この医院は東に我妻組、西に棚橋組というやくざの縄張りがあるちょうど中間地点で、そのため患者はその筋の者も多い。両者は常に利権を巡って凌ぎを削り合い、犬猿の仲であるから、切った張ったの騒ぎは日常茶飯事だった。
院長の槇は東の我妻組も西の棚橋組も分け隔てなく治療し、分け隔てなく治療費を請求した。彼の処置の多くは違法の、所謂闇医者のそれであったので、やくざたちにとってはまことに都合がよく、その存在は重宝された。
よって、槇医院は西でも東でもない、唯一の中立地帯として孤立しているのである。
闇医者といっても槇は抜群に腕がよく、外科に内科に産科に小児科、耳鼻科整形外科心療内科となんでもござれのすご腕だったので、地元の金のない住民たちも頼りにして、こぞって彼に診てもらっていた。そういう患者からは彼は必要以上には金は取らず、ある時でいいよと言ったり、時には金そのものを取らない時すらあった。
「へえ、先生、そんなんで食っていけるのかね」
「あるとこから取ってるから、大丈夫よ」
患者の半分はやくざ者たちだから、彼らから法外な治療費をせしめているわけである。
元は取れているのだ。
それにしてもこの医院、一階を診察室に、二階を手術室に、そして三階を槇の居室に使用しているが、台所というものがない。
そんなことで彼がどうやってふだんの食事をしているかというと――
「先生、お昼よ」
明るい声が玄関の扉を開けて入ってきて、患者の背中を聴診器で聴いていた槇はその姿勢のまま振り返らずに言った。
「おー、蓮花か。三階に置いといてくれ」
「はーい」
蓮花はそう返事をすると、階段を上って三階まで行った。そしてしばらくすると戻ってきて、
「先生、夕ご飯は?」
「急患がなきゃ行く」
「はーい」
というやり取りを槇として帰っていく。
これが毎日、欠かさず行われる。
槇は老婆の背中を直すと、彼女を振り向かせて言った。
「よーし、いいよ。じゃあ薬出しておくから。また来て」
老婆は何度もお辞儀して帰っていく。槇はそれに手を挙げて返事をしながら玄関の札を『お休み中』にしてなかに入ると、エレベーターで三階に行った。
蓮花は、いつもの場所に食事を置いておいてくれたはずだ。どれどれ。
皿の上の布巾をめくる。今日は炒飯か。よしよし。
椅子に座って炒飯を三口ほど食べ始めた時のことである。
階下でバタン、と扉が乱暴に開かれる音がして、
「先生、助けて。うちの子が滑り台から落ちて」
という女の声がした。槇は反射的に立ち上がって、階段を転げ落ちるように下っていった。
腕がおかしな方向に曲がった子供を抱えた若い母親が、いたくうろたえてそこに立っていた。子供の顔が血だらけで、よくわからない。
「なんとかしてください。どうなるんですか助かるんですか」
まずは母親からだ。槇は声を張り上げた。
「お母さん」
その怒鳴り声で、母親が我に返った。
「今から清潔な布を渡しますから、それでお子さんの口のなかを拭いてください」
槇は診察室のなかに入った。子供がわあわあと泣きわめいている。
「坊主、痛いなあ。これは、ちょっと俺んとこじゃあ無理だわ。とりあえず、応急処置だけ」
槇は子供を診察台に寝かせて、母親に言った。
「押さえていてください。暴れますから。坊主、ちょっと痛いぞ。我慢してくれ」
ひときわ大きな悲鳴が、医院内に轟き渡った。母親は目をぎゅっと瞑って、子供を押さえ続けた。
「よーし、骨が元の場所に戻った。よく我慢したな。偉いぞ。今救急車を呼びます。大きな病院に行ってください」
救急車のサイレンの音が聞こえてくると、槇は机の引き出しからなにかを取り出して子供に渡した。
「ほら、やるよ」
子供は横になったまま、涙に濡れた目で手のなかのそれを見た。
「飴ちゃん。頑張ったからな」
救急隊が入ってきて、子供と母親が運ばれていった。
しん、と静かになった医院のなかで、槇はまた一人になった。なんだっけ。なにやってたっけ。と考え始めたところで、誰かが入ってきた。
「先生ー、いてえよう。階段から落ちちまった」
「あーあー。頭打ってねえか。診てやるから、横になれ」
その患者は幸い頭は打っておらず、打ち身だけですんだ。湿布を出して帰したところで、転んで膝をすりむいたという子供がやってきた。その子の傷を消毒して絆創膏を貼ってやっていたら、
「先生、咳が止まらなくて。ドラッグストアの薬が効かないんです」
と近所の主婦が訪ねてきた。
「どれどれ」
聴診器で肺の音を聴いてみると、笛音が認められた。
「あーん?」
「風邪でしょうか」
「咳が出るのは、いつ頃ですか」
「明け方とか、夜が多いです」
「なにかペットは飼ってますか」
「猫を」
「最近、お疲れ?」
「とても」
「うーん」
槇は腕を組んだ。
「あなたね、こりゃ風邪じゃないよ。喘息です」
「えっ」
患者は目を見開いて驚いた。
「でも、喘息って子供とかがなるものじゃないんですか」
「そう思われがちですけどね、非アトピー型と呼ばれるものの多くは成人が発症します。
今、注意書きを印刷しますから、それをよく読んで、あと、お薬出しますからね」
そしてその患者が帰ったかと思っていたら、入れ違いに、
「先生、めまいがする。立ち上がるとくらくらするんだけど」
と患者がやってきた。
「どれどれ、ここに寝てごらん。食生活はどうだい。なにを食べてる?」
「米とか、パスタ。あと、野菜」
「肉とか、魚は」
「あんまり食べてない」
「ちょっと注射して血採って検査するけど、多分貧血だな。もっと肉を食え。赤血球を増やす薬を出してやるから」
そんなことをしていたら、時刻は夕方になっていた。
それで気がついた。
あ、俺、昼飯食ってたんだった。
三階に上がって、冷めた炒飯をもそもそと食べる。しかし、ちっとも食った気がしなかった。
皿を洗って片づけると、横になって少し休んだ。これが自宅勤務のいいところだ。休みたい時に休める。
目が覚めた時、時計の針は六時を指していた。
深々とため息をついて、起き上がる。今のところ、患者が来る気配はない。今のうちに行ってしまおう夕ご飯、と呟きながら、エレベーターに乗った。
食堂は、医院から少し歩いた商店街にある。蓮花の父親が営む、十坪ほどの小さな店だ。
店主は客に言われた料理をなんでも出す器用な男で、昔は有名なレストランでシェフをやっていたとかいなかったとかという噂もある。
そこの暖簾をくぐって引き戸を開けると、客はまだ誰もいなかった。
「いらっしゃい先生。今日は早いね」
「ラーメンね」
親爺は振り向きもせずに料理を始める。槇は椅子に座って、周囲を確認する。よし、西も東もいないようだな。飯は安心して食えそうだ。
この街では、どこで誰と誰が一触即発で喧嘩になるかわからない。やれ肩が触れただの、やれ目が合っただので殺し合いに発展するほど、西と東は折り合いが悪いのである。現に、槇はこの食堂にいる際、何度食事を邪魔されたかわからないほどだ。
だからここに来た時には、誰がいるかを確認する癖がついてしまった。
出されたラーメンを食べながら、温かい食事を温かいまま食べられる有り難みを噛みしめる。医者をしていると、それはなかなかにありつけないことである。
「お父さん、出前の注文よ。オムライスにコンソメスープ」
「はいよ」
蓮花が奥から声をかける。親爺は黙々とオムライスを作り、皿に盛る。
「オムライスできたぞー」
「じゃあちょっと行ってきまーす」
蓮花が出ていくと、槇はぼそっと言った。
「蓮花はいい子だなあ」
その低い呟きを、親爺は聞き逃さなかった。
「だろ。うちで手伝いさせてるのは、もったいないと思うんだがねえ。ここにいるって聞かないんだ。うちがいいって」
「へえ……」
「二十四の娘が、もっと遊びたいと思うんだが。そんなことには関心がないみたいでね」
槇は箸を置くと、立ち上がった。
「ごちそうさん」
「また明日の朝」
「はいよ」
外はもう暗い。道の向こうを見たが、蓮花の姿はもうなかった。
医院に戻ると、玄関のなかから小石を出して、そっと扉の外に置いた。
今日はもう、患者は来ないだろうという思いからだ。その見立ては当たった。
槇は三階に行き、風呂に入ると一日の疲れを癒した。
今日はそんなに忙しくなかったな。振り返ってみてもそう思う。風呂から上がって髪を乾かし、お茶を淹れた。酒は、どんな時でも飲まない。いつ患者が来るかわからないからだ。
ちらりと時計を見た。八時だ。そろそろかな。
一階で物音がした。それで、彼女が来たと知れた。
彼女はいつも階段を使う。その足音を聞きながら、槇は身体が疼くのを感じる。そんなことではいけないとは思いつつも、自分を抑えられないでいる。
「来たよ」
その声に、振り返る。
「おう」
応える声も、疼きを抑えられない。
蓮花は湯上りの槇の背中に抱きつくと、その髪に顔を
「親父さん、こんな遅くに出てくるの心配してなかったか」
「もう大人だもん。これくらい平気」
「そうか」
蓮花の身体を正面に回して、頬に触れた。自分を見上げるその目が、熱い。
「今日、忙しかった?」
「いいや、そうでもないよ。だから呼んだ」
言いながら、太腿に手を這わせる。蓮花の息が、上がる。それにつられるように、槇のなかの欲望も段々と熱くなってくる。
「ん……先生」
「最近は西も東も動きが激しくて、俺もおちおち寝られんよ」
手は段々と上に上がっていく。息遣いが激しくなる。
「せんせ……」
「警察も最近こっちに睨みを利かしてきてやりにくくなってきたしなあ」
指を丹念に動かしていくと、くちゅくちゅと音が響く。耐えきれなくなって、蓮花が槇の首にしがみつく。
「せ……ん」
「すまん。あっちに行こう」
槇は蓮花を抱き上げて、ベッドに運ぶ。息も絶え絶えの蓮花の唇を塞ぐと、彼女の息はますます苦しそうだった。それを責めるように、一層深くくちづけした。
槇はいつも、獣のように動く。それでいて、自分本位ではない。蓮花の身体の要求を聞きながら、己も満たしていく。そうして達する。
「ねえ先生」
けだるさを身体に残したまま槇が横になっていると、起き上がった蓮花が足元に散らばった服をつま先でつつきながら呟くように尋ねた。
「ほんとにお父さんの治療費、払わなくていいの」
暗闇で苦笑する。
真面目な子だ。この質問は、もう何度目だ。
「その分、ただで飯食わせてもらってるだろ」
「そんなので払えるとは思えない」
「いいんだよ」
槇は半身を起こして、蓮花のなめらかな背中を見た。つい先ほどまで、舌を這わせていた白い背中を。
「ならいいけど」
蓮花はベッドに腰かけて、服を着だした。なんだ、もう帰っちゃうのか。そう言いそうになって、やめる。やめろ。これ以上お前のわがままにこの子を付き合わせるな。
「じゃあね、また明日の朝」
「気をつけて帰れよ」
蓮花が階段を下りていく足音を聞きながら、槇は一抹の寂しさを噛みしめている。蓮花は帰る時、扉の外に置かれた小石をなかに入れておくのを忘れない。これが二人の、秘密の合図。
そして翌朝になると、彼女はゆうべのことなどまるでなかったかのように明るい笑顔で朝食を持って来る。
「先生、おはよ。これ、朝ご飯」
「おう、三階に置いておいてくれ」
そして今日もまた、誰か具合が悪いと言ってやってくる。
大抵の場合、槇は彼らを追い返さない。丁寧に処置して、自分で出来る限りのことをしてやる。
ただ、彼の手に余るものであったり、この医院の設備ではどうにもできないような症例である場合は、彼は迷うことなく、
「これは俺では無理だ。大きな病院に行きなさい」
と言う。自分一人の限界というものを熟知しているのである。
患者が一日に二十人来る日もあれば、午前と午後で数えて二人という日もあった。
どんな日であれ、槇は顔色一つ変えずに患者を診る。医者は患者を選んではいけない、患者は藁をもすがる思いでやってくるからだ、とは、誰の言葉であったか。
医院の掛札には診療は午前九時から午後五時までと書いてはあるが、無論それは便宜上のことであって住居が医院である以上二十四時間診察をしていることは否めない。
だが槇は、一応夕飯の時間を夜の六時と決めているのでその時間に誰も来なかったらその日の診療を終えると決めている。
そうして彼の一日が終わるのである。
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