泥中花

青雨

第一章

ざくり。

 脇腹を思い切り刺されて思わずそこを押さえると、手が熱かった。それで、血が流れているのだとわかった。

 やばい。

 即座にそう思った。刺した相手はとうに逃げている。今は仕返しを試みている場合ではない。

 空からは激しい雨が降りしきり、黒い雲の隙間から時折稲光がぴかりぴかりと光って見えた。

 血を止めねえと。両手で押さえるも、血がどくどくと流れていく感触だけが無情に感じられる。それを、雨が流していく。人通りはない。助けを呼ぶわけにはいかない。

 このままでは、確実に死ぬ。

 建物の壁に寄りかかって、なんとかしなければと思案する。どうすればいい、どうすれば。病院に行けば、通報されるだろう。それに、あいつらが乗り込んでくる恐れがある。

 そんなことがあっては命がいくつあっても足りない。しかし、シマに戻るには距離がある。このままでは持たない。

 そうだ。

 瞬時の閃きで、男は危うくそこに座り込まずにすんだ。そして、ずるずると身体を引きずりながら話に聞いただけという、あるかどうかもわからないその建物を目指して歩き始めた。

 ざあざあと雨粒が地面を叩いている。吐く息が、白い。

 流れている血の量はどれくらいであったか、それを辿れば彼の行方を追うことも可能であっただろうが、幸いにして激しい雨の量がそれを消した。

 白地の看板の、名前が読めるか読めないかぎりぎりくらいには汚れたその文字をなんとか読み取ると、男は一階の扉を激しく叩いた。いらえはない。刺された脇腹が痛くて、苛立って何度も叩いた。

 それでも誰も出てこなかったので、呼び鈴を力任せに押しまくった。すると、奥の部屋の灯かりがぽっと点って、人影が近づいてくるのがわかった。

「なんだいなんだい。今日はもうおしまいだよ。また明日きとくれ……おっと」

 なかから出てきた人影は男を一目見ると、眠そうにしていた瞳を見開き、

「なんだあんた。どっちの組のもんだ」

「あんた、槇とかいう先生かい。助かったぜ」

「まあいい。入んな。縫ってやる」

 と男に肩を貸し、なかに招じ入れた。

 槇と呼ばれた男は刺された男を通すと、そこにあった診察台に寝かせた。

「濡れたな。これで拭け。消毒するぞ。沁みるけど、我慢しとくれ」

「ああっつ」

「情けねえ声出すんじゃねえ図体でかい男が。ああ、こりゃずいぶんと深く刺されたな。 こりゃあれだな、縫うだけじゃだめだな。あれだ、ちょこっと、手術だな」

「なっちょっ手術?」

「アレルギーあるか? 麻酔かけるぞー」

「ま、ま、待ってくれいきなりで心の準備ができてな」

 槇は麻酔のボンベをがらがらと引きずってくると、それとマスクを繋いで男の顔にあてがった。

「はい吸ってーすうー」

 男はもがもがと暴れていたが、段々とそのまぶたが重くなっていき、むにゃむにゃと寝言を言い始め、やがて眠ってしまった。

 あっという間の出来事だった。

「寝たかー? まあ寝てなくても切るけどなー」

 物騒な独り言を言うと、槇は患者を診察台ごと手術室に運んだ。

 この医院に、看護師や助手といったものはいない。彼一人だ。どんな手術や処置も、彼一人で行うことになっている。

 槇は丹念に手を専用の洗剤で洗うと手袋をはめ、手術室に入って丁寧に処置を始めた。

 手術そのものは、二時間ほどで終わった。

 血だらけの手袋を捨てると、ふうとため息をついて窓の外を見る。

 それにしても、よく降るな。これは朝まで続くだろう。

 そんなことを思っていたら、後ろでもぞもぞと患者が起きる気配がした。

「お、起きたか。まだ動くなよ。切ったからな。痛いぞ」

「てめえ……ヤブ医者……よくも」

 麻酔がまだ効いているのか、患者はふにゃふにゃとした口調である。槇は苦笑した。

「ひでえな。闇医者とかなんとか言われたことはあるが俺ぁヤブじゃねえぜ。麻酔が覚めたら、誰かに迎えに来てもらいな。入院するほどじゃねえ」

 患者はまだぶつぶつとなにか言っていたが、やがてまた眠ってしまった。そしてきっかり三十分後に起き上がると、携帯で子分を呼ぶとすぐに迎えに来いと怒鳴りつけた。

「こんばんは。槇先生のお宅はこちらで」

 子分は、すぐにやってきた。

「うちだよ」

「うちの兄貴がこちらでお世話になってるそうで」

「そこで寝てるよ。連れて帰ってくれ」

 子分はへこへことお辞儀をしながら入ってくると、ベッドに駆け寄って患者を抱き起こした。

「兄貴しっかりしてください」

「来たな。あのヤブ一発殴ってから帰るぞ」

「いけません親父に殺されます。帰りましょう」

「あんたたち東のひと? それとも西?」

 戸口まで差しかかった二人に、槇は尋ねた。子分は振り返って答えた。

「へい、西で」

「じゃあ棚橋さんに請求書送っとくよ。あ、あとあんたの兄貴ね、当分激しい動きは禁止ね。女もだめだよ」

「へい。ありがとうございました」

「礼なんて言うんじゃねえ」

 子分が患者に肩を貸して帰っていくのを、槇は窓の側から見送っていた。

 騒がしい患者だ。せっかく治してやったのに。

 その患者を乗せた車が、雨のなか暗闇を裂いて走って行くのを、槇は窓辺でぼーっと見ていた。

 眠っていたところを叩き起こされてオペなんかしたから、目が覚めてしまった。

 本でも読むかな。

 読みかけの、分厚い本がどこかにあったはずだ――

 それを読み終わる頃には、この雨も止んでいるだろう。

 白衣のポケットに手を突っ込んで、槇は暗い廊下を進んでいった。

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