【京都祇󠄀園心中】教師編

志乃原七海

第1話:祇園の路地裏、一杯の水が運命を狂わせる。




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## 「京都祇-園心中」 第一話【改訂稿】


音もなく、雨は降っていた。花見小路の華やぎを吸い尽くした夜霧が、一本裏手の石畳を湿らせている。まるで川底のような静けさの中、忘れられた真珠のようにぽつりと灯る行灯。その滲んだ文字は「スナック菊乃」。軒先から落ちる滴は、同じ場所を打ち続けることで、やがて石を穿つという。この店もまた、永い時間をそうしてやり過ごしてきた。


カラン、というドアベルの音は、その静寂に投げ込まれた小石のように、小さく、しかし確かな波紋を広げた。


カウンターの奥、女――菊乃は煙草の先から立ち上る紫煙の、頼りない軌跡を目で追っていた。客の来ない夜は、時間がただ磨り減っていくのを待つ時間だ。顔を上げたのは、ほとんど習性だった。四十をとうに過ぎた肌には、上等の白粉でも隠しきれない人生の細かな皺が刻まれている。だが、その目は衰えていなかった。客の懐具合から魂の渇きまで、一瞥で見抜いてきた、水商売の女の冷徹な眼差しがそこにあった。着崩した黒鳶色の紬は、この薄暗がりに溶け込むための保護色だ。彼女は、この暗闇の中で呼吸していた。


入ってきた男は、世界そのものから弾き出されたかのように、場違いだった。雨に打たれ、鉛のように重くなったトレンチコートが、床に黒い染みを作っていく。それは、男が内側に抱え込んだ拭いきれない何かを、否応なく外に滲み出させているかのようだった。戸口に立ち尽くしたまま、追い詰められた獣が逃げ道を探すように、男はぎこちなく首を巡らせる。視線は焦点を結ばず、壁の木目、酒瓶のラベル、空のボックス席の赤いビロードの上を、ただ空しく滑っていった。


菊乃は、紅を引いた唇の端で煙草を咥え直した。その僅かな仕草の間に、男のすべてを解剖する。あの虚ろな目。浅く、不規則な呼吸。あれは疲労ではない。恐怖だ。魂の芯が凍るような、巨大な恐怖に追われた者の貌つきだった。


「お客さん、初めてやね。濡れたままやと、風邪ひきはりますえ。どうぞ、中へ」


声は、あくまで平坦に。感情の起伏は、客を不用意に刺激する。男は、背中を鞭で打たれたかのようにびくりと身体を震わせ、菊乃の声に引かれるまま、カウンターの一番端の席へと崩れるように座った。襟を立て、影の中へ、さらに深い闇へと沈み込もうともがいている。


「……何、飲みはる?」


沈黙が、重くカウンターにのしかかる。菊乃の耳には、古い冷蔵庫のモーター音が、心臓の不規則な鼓動のように響いていた。やがて、ひび割れた器から水が漏れるような、かすれた声が聞こえた。


「……水……を」


「水?」


菊乃は、初めてかすかに眉を動かした。酔客の戯言か、あるいは、何かを試すための符丁か。男の顔を正面から見据える。そこに在ったのは、乾ききった砂漠だった。あらゆる感情も希望も吸い尽くされ、ただ一点、生存への本能的な渇望だけが陽炎のように揺らめいている。


「……承知しました」


菊乃は静かに立ち上がると、磨き抜かれたグラスに、氷を一つ、カタリと音を立てて落とした。水道水を注ぐその動きには、一切の無駄も感情もなかった。ただ、差し出されたものを返すという、儀式のような静謐さがあった。


男は、差し出されたグラスを両手で包み込むように持ち上げた。それは祈りに似ていた。そして、乾いた大地に染み込む最初の雨のように、ゆっくりと、しかし確実に、その命を潤していく。喉仏が痙攣するように上下し、飲み干されたグラスが、ことりと音を立ててカウンターに戻される。その瞬間、男の目にぞっとするほどの光が宿ったのを、菊乃は見逃さなかった。絶望の底で燃え残った、最後の熾火。それは他者をも焼き尽くしかねない、危険な光だった。


菊乃はグラスを拭く手を止めなかった。「ここは、お酒を飲むところどす」


彼女は静かに告げた。拒絶ではない。確認だ。あんたは、本当にここにいてええ人間なんか、という。


その言葉は、男を縛っていた見えない枷を断ち切ったようだった。男は、初めて人間らしい表情――深い悔恨と絶望が入り混じった顔で菊乃を見た。


「……すまない。……ウィスキーを。……濃いめの水割りで」


その瞬間、菊乃は悟った。この男は、ただの雨宿りの客ではない。彼は、嵐そのものを連れてきたのだ。そして自分は、もう、その嵐の縁に立っている。逃れる術もなく、ただ、その中心がどちらへ向かうのかを見定めるしかないのだと。


「かしこまりました」


菊乃は背後の棚から角瓶のボトルを取り出す。その滑らかな所作とは裏腹に、彼女の勘は、けたたましく警鐘を鳴らし続けていた。

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