紅蓮

鹽夜亮

第1話 紅蓮の灰

 殺してくれ。

 ほら、また囁いた。…


 古い納骨堂が揺れている。首の上に重ねた十字架と曼荼羅を掲げて。白い壁に血を滲ませながら、隆起した血管を脈動させている。何もかもを紅蓮の灰に焚べたなら、その先には何が残るだろう?…

 憎悪を虐殺する。盲目を追悼する。放蕩した脳を楔で打ち付ける。戻れない橋を取り壊して、眼下に落ちたその欠片を嘲笑う。体内に巣食う蛇の蠢きに合わせて、脳髄が呼吸する。感情の揺れ動きを炎の餌にして、巡った因果に印鑑を押す。


「何をしているの」

「壊しているんだよ」


 潰えた希望を啄む。底知れない欲動の渦を脊髄に流し込む。言語にならない言語を、神経を犯す毒を。放り出された絶望にランタンを。摩耗の跡に血を垂らして、ワイングラスを一杯にしよう。古びた教会が泣いている。ほら、あそこではまた叫び声だけが讃美歌になって、神父とシスターはとっくに腐り落ちている。

「脳を、脳を」

 発火する神経を霊視して、氷水に漬け込む。ゆっくりと動く鼓動から、瀉血する。呼吸の影に映る、眩暈の憂鬱に飴玉を手渡す。黒曜石に体液を織り交ぜて、虹色を作ったのなら、冷凍庫にしまって置くといい。死人の役には立つだろうから。


「今日も電車は動いている」


 脳髄を啄んだ鴉が飛び上がるのを待って、白い羽を植え付ける。眼球の腐り落ちた鼠が足掻いている。トタン屋根の軋む音、雨漏りが腐る音、憂鬱が滴る音。眠りにつかない夜たちが、緩やかに呼吸する。


「積み木を崩して、また積み上げた」


 映写機に映る肺を取り上げて、胸骨を破砕する。臓腑の連結に沿って、刃先は動いている。撫で回すように喉笛を引き裂いたなら、揺らぎ続ける声帯がこちらを覗いている。屠殺された宝石たちを散りばめて、崩壊した神殿を再建する。ちぐはぐに組まれた骨格は、不器用に踊り続けている。瞳孔の逸脱を、その収縮を、明滅する月が照らしている。


「何もかも失敗だった」


 紅蓮の灰が降り積もる。

 雪を覆い隠して、紅葉を燃やし尽くして、太陽を焼き切って、新芽を刈り取って。燃え尽くした灰が、まだ燃え続けている。

 紅蓮の灰が降り積もる。

 全てを溶かし切ってしまう熱を持って、あらゆる罪を呑み込むように。あらゆるものを呑み込んで、この皮膚に火傷を刻んでいく。


「あなたは踊っているの?」

「私は眠っているよ」


 打ち込まれた釘が、鉄錆を血管に流し込む。頭痛を抱えたまま、幻影を追いかける。手に入らない煙を掴むように、爪が手のひらに食い込んでいる。どうしようもないのなら、何もかも燃やして仕舞えばいい。讃美歌が笑っている。括られた首が、切り裂かれた手首が、爛れた食道が、焼けた肺が、逆流した血液が、嘆いている。


「悲しさなど失ってしまった」

「明日は月が出るらしいよ」


 明滅する。明滅する。土煙と共に、極彩色が明滅する。網膜を焼いて、モノクロームを葬るように。街灯を消しながら、ゆっくりと影は歩いている。アスファルトに血の染みを残しながら、馬鹿らしいと冷笑しながら唱えている。続いていく、それは継続する。暗澹とした月、燃えることのない火柱、止むことのない風。

 書くべきではない、言葉にならない言葉の渦。


「泥の中に眼球が埋まってる」

「そりゃあ夏休みはもう終わったからね」


 意味をなさない。意味がない。贖罪にならない。告解は赦されない。罪は贖われない。罰は下されない。紅蓮の灰は消えない。眠りは許されない。死は許可されない。破壊は止むことがない。明滅は時を止めない。頭痛の消える事はない。血流が止まない。流れ出る事はない。世界が微笑む事はない。あなたが微笑む事はない。


「マルボロよりハイライトの方がいいだろう」

「哲学上の自殺は生物の自殺より容易い」


 歯車が狂っていく。軋みを上げながら、回り続ける歯車が狂っていく。止まることを知らないそれが、軋んでいる。軋みながら回り続けている。巡るように、見せつけるように、叫ぶように、掻き毟るように。


「残念だが、火葬はもう済んだ」

「灰色の眩暈にはバルビタールを」


 投与される、薬剤に救われる。肺が呼吸する。心臓が鼓動する。血液が流れる。自律的に、歯車の回る限り、それらは止まることがない。許されることもない。永遠の罰にかせされて、止めどなく続いている。


「息が苦しい」

「昨日のハンバーグは美味しかった」


 言葉が乖離していく。意味が崩壊していく。言語が解体されていく。概念が腐敗していく。感情が焼き切れていく。肉体が灰に呑まれていく。


「…人身事故の影響により…」

「笑っていればいいよ」


 自動化された生。混沌とした脳。鬱血した心臓。苦悩する傀儡。石化した眼球。肺胞を失った肺。絶望に企図された希望。暗澹とした月影。街頭に群がる蛾の死体。巡っていく世界。止まらない歯車。許されない罪。下されない罰。


 降り積もる、紅蓮の灰。



「明日はなくなったって」

「ところで車のローン払った?」

「ナポリタンが食べたいなぁ」

「急いで行かなきゃ」

「眠いからもう眠るね」

「おはようございます」


 降り積もる、紅蓮の灰。


「死んだって」

「どうでもいい」

「何もない」

「灰になる」

「骨なんてただの物でしょ」

「肉塊」


 降り積もる、紅蓮の灰。


「終わればいい」

「終わることができない」

「止まればいい」

「止まることができない」

「殺せばいい」

「殺すことができない」

「何もかも」

「何もかも」




 降り積もる、紅蓮の灰。…………

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