ぎりぎりナイト

真久部 脩

第1話:Save the Life of My Child


陽光が差し込む喫茶店「モーニング・グルービー」には穏やかな日常が流れていた。

マスターの淹れる深煎りのモカコーヒーと、ひよりの作るランチメニューの良い香りが、店内の空気を満たしている。


窓際の多肉植物たちは、太陽の光を浴びて健やかに育っていた。

ひよりの母、さおりは公安をやめてしばらくは喫茶店でランチをいっしょに作っていたが、ひよりの腕が上がったこともあってか、最近はあまり店に顔を出さず、なにか新しい仕事を探しているようだった。


マスターはいつも通りアフロヘアを揺らし、無口にモカを淹れている。

その背中は、以前よりも少し大きく見えた。


【ひより】「マスター、またお客さん、減ってきてない?」


ひよりがため息混じりに呟いた。

メイド服のフリルが、テーブルを拭くたびに揺れる。


【マスター】「まあ、こんなもんだろ。平穏が一番さ」


マスターは静かに答える。


【ひより】「平穏の代償に、私の給料は相変わらず無給なんですけどぉ」


【マスター】「昔ぶっ壊したビルの補償も払わなきゃならんし、まぁ自業自得だ。賄いで勘弁してくれ」


【ひより】「あのビル壊したの、マスターじゃん。それに賄いって私がマスターの分も作ってるじゃん」


ひよりはそう言いながらも笑顔だった。

マスターも、かすかに口角を上げたようだった。


そんな平和な空気を破って、店のドアがカランと鳴り、一人の女性が入ってきた。


【セシリア】「マスター、お久しぶりです」


入ってきたのは、白いスーツに身を包んだセシリアだった。

彼女は以前、ひよりとマスター、そして愛が関わっていた事件で、コソ・コグニートの解毒薬を開発した人物だ。

彼女が喫茶店を訪れるのは、ずいぶん久しぶりだった。


【マスター】「おお、セシリア。相変わらずだな」


マスターが笑顔で迎える。


【セシリア】「マスター、お久しぶりです。ひよりさん、元気そうね」


セシリアはひよりに微笑みかけた。


【ひより】「セシリアも元気そうで何よりです。愛と錦晃星くん、最近どうですか?」


ひよりが尋ねる。


【セシリア】「愛はナノマシン阻害薬の効果もあって、リハビリができるまで回復してきたわ。でも、精神的なショックが大きくて…。あなたたちを裏切ってしまったこと、お父様に利用されていたこと、まだそのことを乗り越えられていないみたい」


セシリアは少し悲しげな表情で言った。


【ひより】「そうなんですね……」


ひよりは、愛の気持ちを察して、胸が締め付けられるようだった。

本当は今すぐにでもお見舞いに行きたいが、それはかえって愛を傷つけることになってしまうかもしれず、こうして時折セシリアに近況を伺うことにしていた。


【セシリア】「まだコソ・コグニートの被害に苦しむ人は多いし、私も何か新たな治療法を開発中なの。それがうまくいったらまた報告に来るわね」


そう言い残してセシリアが去っていったのを待っていたかのように、店のドアが再び開いた。

入ってきたのは、以前から因縁深くしつこいが、どこか憎めない刑事、森山だ。


【森山刑事】「やあ、どうも、反社会性力の皆さんお揃いで。なんか俺の悪口でも言ってたか?」


森山は以前と変わらない飄々とした態度でカウンターに座った。


【ひより】「刑事さん、どうしたんですか?また暇つぶしですか?」


ひよりがからかうように言うと、森山は苦笑いを浮かべた。


【森山刑事】「いや、今日はマスターに警告しに来たんだ。コソ・コグニートの一件で、公安が再び動き始めたらしい。マスターにも危険が及ぶかもしれない」


森山の言葉に、店の空気が一変した。

マスターは静かにコーヒーカップを置き、森山の目を見つめた。


【マスター】「公安が考えそうなこった。それはそれとして一応感謝しとくよ、森山刑事」


マスターの口から出たのは、それだけだった。


森山が店を出て行った後、母さおりも久しぶりに喫茶店に顔を出した。


【ひより】「お母さん、公安の話はもう耳に入ってる?」


【さおり】「いえ、最近はもうあの人たちとはあまり関わらないようにしてるから…。で、その話は誰から?」


【ひより】「さっき森山って刑事がやってきて、マスターに忠告していったのよ」


【さおり】「そうなのね…。でも一介の刑事の言うことはあんまり当てにならないかもね。それにマスターなら自分でなんとかするでしょ、ねぇ、マスター?」


【マスター】「ああ、それもそうだ。ところで、たまには家族三人で旅行でも行くか?」


マスターは少し渋い顔をしながら、ひよりとさおりに旅行に行こうと持ちかけた。


【ひより】「え、どうしたんですか急に?熱でも出た?」


ひよりが驚いて尋ねる。


【マスター】「商店街の福引で宿泊券が当たってな…。明日、駅で待ってるから、二人で来てくれ」


マスターはそれだけ言うと、奥の部屋へと消えていった。


翌日、ひよりとさおりは駅でマスターを待った。


【ひより】「マスター、遅いね。やっぱり熱でも出たのかなぁ。らしくないことするから…」


【さおり】「そうね…。せめて宿泊券渡しておいてくれれば二人でも行けたのにね」


【ひより】「お母さん、そんなこと言わないであげて。あれでもマスター、精一杯勇気振り絞ったんだと思うよ」


しかし、それから何時間待ってもマスターは現れなかった。

連絡もつかない。

二人は不安を感じ、喫茶店に戻ることにした。


店のドアを開けると、そこは家捜しで荒らされ放題だった。

コーヒー豆が床に散乱し、椅子は倒れ、ガラスが割れている。


【ひより】「マスター……」


ひよりの瞳から、涙が溢れた。


【さおり】「ひより、落ち着いて。私、マスターの弁明のために、もう一度公安に戻る。絶対にマスターを見つけ出して、助けてみせるから」


さおりはそう言って、ひよりを抱きしめた。


【ひより】「お母さん…お願い!」


さおりは元公安の人間だ。

しかし、マスターと家族になってからは、その過去を隠して生きてきた。

そんなさおりが、再び危険な世界に戻っていった。


一人きりになって絶望していたひよりの前に、店のドアを開けて一人の男が入ってきた。


【明星】「ひよりさんですね。俺、明星あけぼしと言います。急で驚くと思いますが、マスターにあなたを守るように頼まれました。俺があなたのナイトです」


明星はそう言って微笑んだ。

ひよりは野生の勘でその男を疑ったが、他に頼れる人間もいなかった。

明星はひよりに、自分が行きつけのクラブがあると夜の街へ誘った。


【ひより】「『Venus Gravity』ねぇ。こんなところに何の用があるっていうの?」


【明星】「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。僕の彼女を紹介したくて。如月きさらぎかぐや、と言います」


男がそう言って指差した先には、ひよりとまるで瓜二つの女性が接客をしていた。


【ひより】「え?どういうことですか?私そっくりだなんて…」


まるで双子のように似ていたが、しかし、彼女はひよりよりもどこか大人びていて、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。


【明星】「実は彼女、コソ・コグニートの被害者で、過去の記憶をだいぶ失っているみたいなんだ。少し前まで海外に居たらしい。でも、俺が調べたところによると、君と彼女は双子の姉妹なんだ」


ひよりは愕然とした。

さおりからそんな話は聞いたことがないし、記憶の中にも姉の思い出など一切ない。


【ひより】「嘘よ、そんなはずない!」


ひよりは明星の言葉を信じることができなかった。


【明星】「それは、佐伯悠一がさおりさんを探し出して、言うことを聞かせるために人質として無理やり彼女を連れ去ったからだよ。君のお母さんはそのことをずっと隠してきたんだ」


かぐやも明星の側にやってきて、その言葉に頷き、ひよりの肩を引き寄せた。


【かぐや】「ひより!私はひよりに会えて嬉しいの。過去にはもう戻れないけど、これから二人で一緒に過ごしていきましょう」


かぐやの言葉は、傷ついたひよりの心に深く響いた。

マスターもさおりもいない今、唯一の身内であるはずのかぐやの言葉を、ひよりはひとまず信じてみることにした。


翌日、かぐやは喫茶店を訪れ、ひよりに子供の頃の思い出を語り始めた。


【かぐや】「朝顔食堂のハンバーグ、覚えてる?すっごく美味しかったよね。二人でさおりに舞踊や格闘技を教え込まれて大変だったこと、覚えてる?」


かぐやの言葉は、ひよりの記憶の断片と重なり合う。

本当に双子の姉なのだろうか。

ひよりは動揺を隠せないでいた。


その頃、マスターは公安の取調室にいた。

事情を聞いていたのは、以前さおりの同僚でもあったヘギョンだった。


【ヘギョン】「マスター、大丈夫ですか?」


【マスター】「ああ、平気さ。それより、そっちはどうだ?計画通りに進んでいるか?」


【ヘギョン】「はい、順調です。マスターの拘束はちょうどいい隠れ蓑になりますし」


マスターとヘギョンは、公安の拘束を装い、新たに巻き起ころうとしている、ある計画を阻止する決意を固めていたのだった。


ひよりは、マスターとさおりが帰ってくることを信じながらも、かぐやとの奇妙な共同生活を始めることになった。

しかし、彼女はまだ知らなかった。

この日常が、再び深い闇に包まれようとしていることを。


(第1話 終)

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