第35話 魔法の難しさ
――うっ……あれ?
私……寝ちゃってた?
まぶたの裏に残る重さを振り払い、イレイザはゆっくりと目を開けた。
見慣れた師匠の研究室の天井ではない。
鼻をくすぐるのは薬草と消毒液の混ざった匂い。
耳に届くのは、遠くで誰かが器具を片付ける微かな音。
……ここ、どこ?
上体を起こし、周囲を見渡す。
白いカーテンで仕切られたベッド、壁際に並ぶ薬棚、窓から差し込む柔らかな光――
魔法師団の宿舎にある治療室だ。
なぜ、私はここに?
「イレイザ様、お目覚めになられましたか」
カーテンの向こうから現れたのは、医局勤務のユニリスだった。
彼女の声は安堵と緊張が入り混じっている。
「……私は、なぜここに?」
「アルバート様が、イレイザ様をお運びになられました」
「……あぁ、師匠の研究室で倒れたのか」
断片的な記憶が繋がり、状況がぼんやりと見えてくる。
そのとき、ふと違和感。
――寒い。
視線を落とすと、自分が全裸であることに気づき、血の気が引いた。
「え!? ちょっと、なんで……!」
慌ててシーツを胸元まで引き寄せ、全身を覆う。
「すみません、イレイザ様が……非常に匂っておられましたので。アルバート様から、シャワーを浴びさせるようご指示がありまして」
「……え? 誰がシャワー入れてくれたの? まさかアルバートじゃないよね?」
「そこはご安心ください。私と、他の女性師団員で行いました」
胸の奥で、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
――よかった……。
アルバートの前で倒れたこと自体が失態なのに、裸を見られていたら最悪だった。
「こちらにイレイザ様のお召し物をご用意しております。ご自宅には入れませんので、着ていたものを洗ってあります」
「ありがとう、ユニリス」
「ちなみに……どれくらい寝ていたのかしら?」
「丸二日ほどです。お食事も取られていないようでしたので、すぐにご用意いたしますね」
「……あ、そういえば。シャワーのとき、一度目を覚ましたような……」
「はい。その際に回復ポーションは飲んでいただきました」
なるほど。だから、倒れるほどの疲労と空腹のわりに、体が軽いのか。
――でも、眠気までは取れないのよね。
「イレイザ!」
勢いよくカーテンを開け、アルバートが駆け込んできた。
「あ、アルバート……ありがとう」
ベッドに腰掛け、差し出された軽食を口に運びながら礼を言う。
「気にするな。それより体は大丈夫か?」
「ユニリスが回復ポーションを飲ませてくれたから平気よ」
「そうか……よかった」
安堵の息を吐くアルバート。その表情の奥に、別の焦りが見えた。
「起きてすぐで悪いが、頼みがある」
――改まって何かを頼むなんて、珍しい。
「帰還魔法を、完璧に解析してくれ」
……え?
どうしてアルバートが?
私のために解析しているけれど、まさかアルバートまで師匠のところに行きたいってこと?
「実は……」
「はぁぁぁぁああ!? ギルシア王に報告したの!?」
「以前、すごく叱られただろ。だから……成り行きというか、報告しないとダメかなって思ってさ」
――あぁ、面倒くさいことになった。
どう考えても「連れてけ」って話になる。
失敗すれば死刑どころか、一族が路頭に迷う。
個人的な渡航ならまだしも、王様を連れて行くなんて無茶にもほどがある。
私たちだって、師匠がいる異世界のことをほとんど知らないのに。
「一応聞くけど……断れないよね?」
「あぁ、ダメだな。めちゃくちゃ笑顔で、ギルシア王とヘインズ聖王が飛び跳ねてた」
――頭が痛くなる光景だ。
見なくてよかった……でも、想像できてしまった自分が嫌だ。
「期日とか切られてないよね?」
「あぁ、それは大丈夫だ。だが……急げと」
「……それ、期日切られてるのと同じじゃない。今は浮かれてるけど、時間が経ったら『いつになるんだ?』って責められるやつよね」
怒りがじわじわと込み上げる。
師匠が作った帰還魔法がどれだけ複雑か、そして時間軸の計算がどれほど困難か。
私は一週間寝ずに研究して、やっと「時間軸計算の中に場所の計算が織り込まれている」ことを突き止めたばかり。
――そんなもの、じじいどもがピクニック気分で飛び跳ねて行ける話じゃないのよ。
「そうだ、すまない。急ぎだったから話してしまったが……ユニリス、これは極秘任務だ。誰にも口外してはいけない。だが、聞いてしまった以上、イレイザに協力してくれ」
「ええええええ!? 私、ただの医局勤務ですよ!? イレイザ様の研究なんて……」
「ユニリス、一族路頭に迷いたい?」
低く冷たい声。
ユニリスは一瞬で口をつぐんだ。
「ユニリス、計算は得意だったわよね?」
「……はい、一応」
医局勤務は薬品の調合や大量生産のため、常に正確な計算が求められる。
数字に弱い者は務まらない。
「じゃあ、私と一緒に計算を手伝ってね」
イレイザの口元に浮かんだのは、悪魔のような笑み。
ユニリスは肩を落とし、天井を仰いだ。
――逃げられない。
治療室の空気が、ひやりと冷たくなった。
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