第3話 ミッション・インポッシブル

 訪問入浴の一行は、中野家での訪問を終え、帰り支度を始めていた。


 桜はバケツやタオルを片付け、和真は湯船を台車に乗せる準備をしている。


 由美子は防水シートを丁寧に畳みながら、ふと床に目をやった。そこには、うずらの卵ほどの大きさの丸い物体が、ぽつんと転がっていた。


「ん?」


 さらに視線を先に向けると、玄関に向かって、もう二つ同じような物体がS字を描くように等間隔に落ちている。慎重にその物体に近づき、顔を寄せる由美子。


「……チョコボール?」


 しかし、色合いも質感もチョコボールとはどこか違う。


 こんなところに偶然三つも落ちているだろうか。


 その瞬間——


 家に入ったときに感じたあの独特な匂いが、脳裏をよぎった。


「ま、まさか……?」


 だが、すぐにその考えを打ち消す。


「そんなことあるわけないじゃない」と自分に言い聞かせる。


 それなのに、心のどこかで、妙な不安が消えない。


 桜と和真が黙々と片付けを進める中、由美子は何事もなかったかのように防水シートを畳み、流れるように帰り支度をしていく——はずだった。


 心の片隅では、さっき見つけた丸い物体のことが気になってしょうがない。深入りするべきではない。ここは「知らんぷり」でやり過ごすのが最善策。


 そんなことを考えながら、慎重に足を運び、そっと玄関へ向かおうとした、その瞬間。


「えっ?」


 足元に違和感。妙な感触。


「……踏んだ?」


 由美子の脳内で警報が鳴る。一瞬、時間が止まったかのように感じる。


 いや、むしろ止まってほしい。このまま過去へ戻れるなら戻りたい。


 そんな願いもむなしく、恐る恐る足元を見ると——


 そこには、さっきの丸い物体が、靴下にべったりと張り付き、強烈な存在感を放っていた。


 そして、一気に鼻を突く刺激的な香り。


「ウ〇コだ……!」


 静かに動揺する由美子。己の人生を省みる。


 これまでの選択は間違っていなかっただろうか。


 こんな結末を迎える運命だったのか。


 いや、そんなことを考えている場合ではない。まずは、この事態をどう収拾しゅうしゅうするかが最優先だ。


「どうしよう……」


 動揺を隠しつつ、さりげなく靴下を確認する方法を考える。


 できるだけ自然に、かつ怪しまれない動作で。


 まるで忍者のように、冷静さを装いながら、さりげなく横の通路に身を隠した。


 幸いなことに、桜も和真もそれぞれの作業に夢中で、由美子の異変には気づいていない。


 このまま何事もなかったかのように振る舞うべきか、それとも正直に報告して笑い話として昇華するべきか——悩ましい。


 しかし、まずは靴下の安全確保が最優先だ。


「とにかく……どうにかせねば……!」


 ——その刹那、全身を電気が走り抜けた。


「って、そうか……!」


「制服に着替えるときに靴下カバーを履く理由なんて、これっぽっちも考えたことがなかった。でも——今、知った。これが、まさにそのためのものだったんだ……!」


 由美子は悟った。人生において、人はふとした瞬間に悟りを開くことがあるという。哲学者たちが何百年も議論してきた「存在の意味」だとか「人生とは何か」とか、そんな大仰おおぎょうなテーマを考えずとも、人間は日常のささいな出来事で突然、真理を掴むことがある。由美子は、ウ〇コを踏んで、その境地に至ったのだ。


 ——終わった。もう、これは終わった。


 これまで数々の失敗や恥ずかしい出来事を経験してきた。だが、これは新たな次元の恥ずかしさである。靴下にべったりと貼り付いたこの『ブツ』を前に、由美子は完全に無力だった。


 いや、それよりもまず、「バレるかどうか」が最優先事項だ。


 ここで桜と和真にバレたら最後——


「一生ネタにされる……!」


 いや、訪問入浴業界において伝説のエピソードとして語り継がれるかもしれない。


「由美子さん、ウ〇コ事件」として永遠に……


「ここからが本当の戦いだ」


 そんなことを考えている間に、桜の明るい声が突き刺さる。


「由美子さん、準備できた?」


 「ひぃっ」と声が出そうになるのを必死で飲み込み、彼女は平静を装う。究極の冷静さを装い、「ええ、もう少しで終わります」と言葉を絞り出す。おそらく今の顔は完全にひきつっているだろうが、それがバレなければ問題ない。


 さらなるプレッシャーが襲いかかる。


「じゃあ、車を回してくる」


 和真が横を通り過ぎて外へ出ていった。


 よし、今が最大のチャンスだ!


 私はスパイ映画の主人公さながらに素早く靴下カバーの掃除作業に取り掛かる。脳内では映画『ミッション・インポッシブル』のテーマ曲が流れている。


 手元には常備しているポケットティッシュのみ。圧倒的に不利な状況で、慎重かつ素早く靴下カバーを拭き続ける。


 一瞬たりとも、気を抜けない。指先の感触、ティッシュのわずかなズレ、すべてが命取りだ——


 作業時間は、桜が荷物を片付け終わるまでの数分——その間に終わらせなければならない。


 心臓が早鐘はやがねのように打ち、呼吸さえも制御しながら、由美子の右腕は潜入任務を遂行するスパイのように動く。


「私は戦っている……絶対にバレるわけにはいかない……これは私と靴下との静かなる戦争だ……!」


 祈るような気持ちで拭き続ける。


 幸い、桜はまだ荷物の片付けに集中している。和真は車を回しに行った。


 時間は……残りわずか!


 ——成功!


 靴下カバーは見事にきれいになった。


 何事もなかったかのように振る舞い、事件など最初からなかった、そういう顔で玄関へ向かった。


 しかし、心の奥底では、ただひとつの誓いを立てていた。


「この出来事は、私だけの秘密だ……絶対に誰にも言わない……!」


 訪問入浴の仕事は、時に予想外の試練をもたらす。


 そう、これは仕事の一環だったのだ——たぶん。



(つづく)


≪あとがき≫

由美子は予期せぬ“事件”に動揺しながらも機転で切り抜けた。次回最終話では、さらに驚きの新事実が明らかになる!

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