第2話 湯の温もりと笑い声に包まれた時間
ドアのインターフォンを和真が鳴らす。
——ピーンーポーン♪
「はい」
老人のしゃがれた声が聞こえてきた。
「こんにちは中野さん。今日もお世話になります!」
和真は明るく挨拶する。
玄関の表札には「中野裕次郎」と書かれている。
「ドアは空いてますから、どうぞ中に入ってください」
裕次郎の声に重なるように、インターフォン越しから、ポン太の嬉しそうな鳴き声も聞こえてきた。
ドアを開くやいなや、飛び出してきたのは柴犬のポン太だった。『待ってました!』とばかりに、尻尾をプロペラのようにブンブン回転させ、勢いよく飛び跳ねる。
「ポン太、元気だなぁ!」
和真は台車を押す手に力を入れ、ポン太の跳ねる衝撃を微かに感じながら笑った。
「ちょっとポン太! 荷物を引っ張らないで!」
桜はタオルを抱えながら、ポン太の猛烈な歓迎を交わしている。しかしポン太はまったく悪気がない。『遊ぼうよ!』と言わんばかりに、玄関を駆け回る。
そんなドタバタの中、由美子だけは不思議そうに鼻先をピクッと動かした。
「……何か、いつもと違う匂いがしますね」
由美子の眉間にシワが寄る。彼女の鼻孔を突いたのは、何とも言えない独特な匂いだった。漢方薬にも、料理の香りにも似ている……。けれど、その正体が掴めない。
「匂い? 全然気づかなかったなぁ」
和真は首をかしげる。
「私は特に何も感じないけど……」
桜も違和感なく答えた。
「そうかしら……」
心の奥で引っかかりを覚えながらも、まずは仕事に集中することにした。
家の中は、古びた家具と無数の本で埋め尽くされていた。まるで時代に取り残された小さな図書館のようだ。
「今日はありがとうね」
先日、喜寿を迎えた車いすの裕次郎は穏やかに笑う。
「お変わりありませんか?」
由美子は声をかけながら、軽く麻痺が残る左腕を避け、健常な右腕で体温や血圧、脈拍、パルスオキシメーターを手際よく使い、バイタルサインを測定していく。
——測定値だけでなく、五感を研ぎ澄ませながら全身の状態を観察する由美子の表情は、流石の和真も桜も口を挟めず、固唾を呑むほどだ。
「変わりはないけど、由美子さんたちが来てくれるのが一番うれしいね」
「私たちも中野さんが元気でいてくれるのが、うれしいですよ」
由美子は言葉を添えつつ、「和真さん、桜さん、身体状態異常なし、バイタルもOKよ!」と声をかける。
それを受けて、桜は素早くバケツやタオルを配置し、防水シートを敷き始める。
湯船を組み立て、湯を溜めて入浴剤を入れると、和真は得意げに息をつき、声を弾ませた。
「いつでもいけますよ!」
和真と桜は声をかけながら、裕次郎の小柄な身体を優しく抱え、ゆっくり湯船へ誘導した。
三人が身体を洗い始めると、ポン太が『いいなぁ~!』と言わんばかりに鼻息を小刻みにヒクヒクさせながら湯船のそばへやってくる。
「こらポン太! 邪魔しないで!」
笑いながらポン太を軽く押し戻す桜。
「ポン太、お前も入りたいのかい?」
裕次郎はポン太の頭を優しく撫でる。
ポン太は湯船の縁へ前足をそっと乗せるが、桜にすぐに止められた。
「ダメだよ、ポン太。ここは中野さんのお風呂だからね」
ポン太は『ちぇっ』とでも言いたげに鼻をフシューっと鳴らし、しぶしぶ後退する。
——訪問入浴は、ただ体を洗うだけではない。髪の毛の先から足のつま先まで、唯一全身を観察できる貴重な場でもある。指先に伝わる皮膚の質感、皮膚の色や傷、不自然な
和真も桜も、中野さんの全身に目を配り、手を動かし、声をかけている。
——入職したばかりの頃は違った。二人の動きはぎこちなく、声は単調で、彼の表情に目を向ける余裕もなかった。水音と気まずい沈黙が、その未熟さを物語っていた。
それが今はどうだろう。湯気に包まれた空間で、二人の身のこなしは自然で確かだ。声のトーンも柔らかく、わずかな表情の変化や小さな反応にも
——よくここまで成長してくれた……。二人の背を見ながら、由美子は胸の奥に誇らしさを覚えた。
「由美子さん、どうかしたんですか?」と桜が声をかける。
「いえ、二人ともよく成長してくれたと思っていたんですよ」
「由美子さんにそう言ってもらえると、なんだか照れくさいな」
「そういう和真はともかく、私は由美子さんと一緒に働けたからこそ、今の自分があるんだと思ってます」
「はっはっは、和真君も桜さんも、最初に会った頃とは別人みたいに、立派なケア人になったよ。だから私も安心して身を任せられるんだ。ポン太も大歓迎だしね」
「恐縮です」と由美子が頭を下げる。
「おっし! 頑張るぞー」
「もう〜和真ったら、調子のりすぎでしょ!」と桜が声高に笑う。
そして、お風呂の時間は穏やかに、ゆっくりと流れていく。湯気に混じる石けんの香り、ぽかぽかと温かい湯の感触、聞こえてくる四人の笑い声。裕次郎の顔には、深く安らいだ表情が広がった。
湯の中でくつろぐ裕次郎を、ポン太はつぶらな瞳で、じっとその様子を見つめていた。
——お風呂っていいなぁ……
それを見た桜がふと笑った。
「ポン太、本当に入りたそうだね」
ポン太の元気な歓迎と、賑やかな会話に包まれたひとときは、湯の温もりとともに、静かに終わりを迎えていった。
(つづく)
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