第11話 牙を持つ影
夜の屋敷は、昼間の明るさが嘘のように沈黙していた。
石造りの廊下は冷え切っており、足音を響かせると、石壁に反響して不気味な余韻を残す。燭台に灯された小さな炎はゆらゆらと揺れ、影を大きく膨らませ、まるで生き物が潜んでいるかのように見えた。
昼間は子供たちと遊び声をあげた庭へと続く扉に手をかけたとき、ふと外気が流れ込み、肌にざわりとした寒さを残した。
その冷気の中に、鉄の匂いが混じっているように感じる。血のような、生臭い臭気――。
(……気のせいか? いや、違う。鼻が覚えている。これは剣道場で鼻血を流したときに嗅いだあの匂いに似ている)
胸がざわめく。背筋を冷たい爪でなぞられるような感覚。
庭に出ると、空気は一層冷えていた。
月明かりに照らされた芝生は青白く輝き、昼間の明るさを失った庭はどこか異世界のように見える。
遠くで犬の吠える声が聞こえた。その声は短く、鋭く、そして不自然に途切れた。
心臓が一度大きく跳ねた。
(おかしい……ただの犬の鳴き方じゃない。何かに怯えて、喉を潰されるように……)
胸の奥にじわりと冷汗がにじむ。
耳を澄ませば、木々の枝が風に揺れてざわめく音に混じって、低い唸り声のようなものが聞こえる気がした。
そのとき、廊下を駆ける足音が近づいてきた。
振り向くと、ひとりの召使いが蒼ざめた顔で立ち止まる。
「坊ちゃま! お部屋に戻ってください! 庭の端に……魔獣が!」
「……魔獣?」
喉が乾き、声が掠れる。
魔獣――人里を襲い、旅人を喰らう異形。
書物で読んだ知識しかないその存在が、今この屋敷に現れたというのか。
召使いは震えながらも言葉を続ける。
「衛兵を呼んでまいります。どうか、外には――!」
そう叫び、背を向けて駆け去った。
残された俺は、その場で固まった。
心臓が早鐘を打ち、足は逃げ出せと叫んでいる。
だが同時に、別の声も胸の奥から響いていた。
(剣士ならば、恐怖から逃げてはいけない。背を向けるな――)
それは前世、九条律として幾度も竹刀を握り、畳の上で汗を流し続けたときに師から教わった言葉。
無意識のうちに、その言葉が背を押していた。
気づけば俺の足は庭の奥へと向かっていた。
月明かりに浮かぶ芝生を一歩進むごとに、靴の裏に冷たい露が染み込み、土の感触がずしりと伝わる。
呼吸は荒く、喉が焼けるように熱い。それでも歩みを止められなかった。
やがて、石壁の影の奥で蠢くものを見た。
闇から姿を現したそれは、狼に似ていた。
だが肩までの高さが俺の胸ほどもある。
黒い毛並みは煤のようにざらつき、月光を吸い込んで鈍く光っている。
赤い瞳はぎらぎらと輝き、口を開けるたびに獣臭い吐息が夜気を汚した。
牙が月光を反射し、吐息には血と肉の生臭さが混じる。
それを吸い込むだけで胃がえぐられるような吐き気が襲う。
全身が硬直した。膝が震え、手が冷たく痺れる。
だが、腰は自然と落ち、呼吸を深く整えていた。
前世で叩き込まれた「構え」の習慣が、恐怖に押し潰されそうな身体を辛うじて支えていた。
腰の木剣に手を伸ばす。頼りない訓練用の剣。
それでも握った瞬間、竹刀を握ったときと同じ安心が掌に宿り、わずかに心拍が落ち着いた。
「来い……!」
震える声で呟き、剣を構えた。
次の瞬間、魔獣は地を蹴った。
芝生が爆ぜ、黒い影が月明かりを切り裂いて迫ってきた――。
黒い影が一直線に迫ってきた。
魔獣の後ろ足が地を蹴る瞬間、芝生が破裂したように飛び散り、湿った土の匂いが鼻を刺す。
耳を劈く唸り声と共に、牙が白く輝き、まっすぐこちらを狙っていた。
(速い……! 兄上の打ち込みよりも、もっと速い!)
全身が恐怖で凍りつきかける。
だが、無意識に身体が反応した。
後ろ足の沈み、肩の揺れ――それは「打突の起こり」と同じ。
竹刀を構え続けた日々が、脳裏に鮮やかに蘇る。
木剣を振り下ろす。
ガキィン!
爪と木剣が激突し、火花のような閃光が散った。
骨が折れるかと思うほどの衝撃が腕を貫き、歯を食いしばる。
衝撃を逃がすため、柔術で叩き込まれた受け身の要領で膝をしならせた。
膝裏に芝生の湿り気が張り付き、靴底が土を抉る。
その感覚すら、時間を引き延ばしたように鮮明に伝わってきた。
(崩れるな……! 体幹で受けろ!)
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
だが、崩れたら最後、喉を食い破られるのは明白だった。
「はぁあああっ!」
声を絞り出し、魔獣を押し返した。
一瞬、巨体の爪が離れる。
その隙を逃さず踏み込み、突きを放った。
突きは稽古場で何度も繰り返した型そのものだった。
踏み込みの音が夜に響き、木剣の先が獣の肩口を捉える。
ズッ――と鈍い感触が手に伝わった。
刃のない木剣が分厚い毛皮を掻き分け、わずかに肉を裂いた。
「グルァァァッ!」
魔獣が咆哮を上げ、黒い飛沫が散った。
鼻腔に鉄臭さが広がり、喉が焼けるように熱くなる。
(効いた……! 当たった!)
確かな手応えがあった。
しかし傷は浅い。むしろ獣の怒りを煽っただけだった。
魔獣の瞳が一層赤く燃え上がる。
次の瞬間、巨体が突き出されるようにぶつかってきた。
体当たり――。
木剣で受け止めた瞬間、耳を裂く音が響いた。
バキィン、と乾いた破砕音。
木剣の中央に亀裂が走り、次の衝撃で真っ二つに折れた。
破片が宙に舞い、月光を反射してきらりと光る。
手に残ったのは半分に折れた棒切れだけ。
「……っ!」
胸の奥が凍りつく。
(頼りが……消えた!)
赤い瞳が迫る。
牙が開かれ、腐臭混じりの息が吹きかかる。
血と肉の生臭さが喉を締め付け、吐き気が込み上げる。
膝が竦む。視界が狭まり、耳鳴りが世界を覆った。
(終わりか……?)
だが次の瞬間、脳裏に師の声が蘇った。
「恐怖は敵を見極める力にもなる。呑まれるな、利用しろ」
竹刀を交えた数えきれない日々が、無意識に身体を動かした。
折れた木片を構え直し、肩で大きく息を吸い込む。
(まだ終わっていない……!)
黒い影が一直線に迫ってきた。
魔獣の後ろ足が地を蹴る瞬間、芝生が破裂したように飛び散り、湿った土の匂いが鼻を刺す。
耳を劈く唸り声と共に、牙が白く輝き、まっすぐこちらを狙っていた。
(速い……! 兄上の打ち込みよりも、もっと速い!)
全身が恐怖で凍りつきかける。
だが、無意識に身体が反応した。
後ろ足の沈み、肩の揺れ――それは「打突の起こり」と同じ。
竹刀を構え続けた日々が、脳裏に鮮やかに蘇る。
木剣を振り下ろす。
ガキィン!
爪と木剣が激突し、火花のような閃光が散った。
骨が折れるかと思うほどの衝撃が腕を貫き、歯を食いしばる。
衝撃を逃がすため、柔術で叩き込まれた受け身の要領で膝をしならせた。
膝裏に芝生の湿り気が張り付き、靴底が土を抉る。
その感覚すら、時間を引き延ばしたように鮮明に伝わってきた。
(崩れるな……! 体幹で受けろ!)
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
だが、崩れたら最後、喉を食い破られるのは明白だった。
「はぁあああっ!」
声を絞り出し、魔獣を押し返した。
一瞬、巨体の爪が離れる。
その隙を逃さず踏み込み、突きを放った。
突きは稽古場で何度も繰り返した型そのものだった。
踏み込みの音が夜に響き、木剣の先が獣の肩口を捉える。
ズッ――と鈍い感触が手に伝わった。
刃のない木剣が分厚い毛皮を掻き分け、わずかに肉を裂いた。
「グルァァァッ!」
魔獣が咆哮を上げ、黒い飛沫が散った。
鼻腔に鉄臭さが広がり、喉が焼けるように熱くなる。
(効いた……! 当たった!)
確かな手応えがあった。
しかし傷は浅い。むしろ獣の怒りを煽っただけだった。
魔獣の瞳が一層赤く燃え上がる。
次の瞬間、巨体が突き出されるようにぶつかってきた。
体当たり――。
木剣で受け止めた瞬間、耳を裂く音が響いた。
バキィン、と乾いた破砕音。
木剣の中央に亀裂が走り、次の衝撃で真っ二つに折れた。
破片が宙に舞い、月光を反射してきらりと光る。
手に残ったのは半分に折れた棒切れだけ。
「……っ!」
胸の奥が凍りつく。
(頼りが……消えた!)
赤い瞳が迫る。
牙が開かれ、腐臭混じりの息が吹きかかる。
血と肉の生臭さが喉を締め付け、吐き気が込み上げる。
膝が竦む。視界が狭まり、耳鳴りが世界を覆った。
(終わりか……?)
だが次の瞬間、脳裏に師の声が蘇った。
「恐怖は敵を見極める力にもなる。呑まれるな、利用しろ」
竹刀を交えた数えきれない日々が、無意識に身体を動かした。
折れた木片を構え直し、肩で大きく息を吸い込む。
(まだ終わっていない……!)
半分に折れた木剣を握り直す。
手の中のそれは軽すぎて、頼りなさしか伝えてこない。
それでも指先は自然に柄を固く包み込み、呼吸を整えた。
(剣士ならば、武器が折れようと戦う……それが当たり前だ)
赤い瞳が再び燃え上がり、魔獣が突進してきた。
芝生が抉れ、爪が土を削る音が耳を裂く。
その圧倒的な質量が迫ってくるたびに、胸骨が軋むほど心臓が跳ねた。
牙が迫る瞬間、身体が勝手に反応した。
柔術で崩しを受けるときのように腰を捻り、わずかに横へと身を外す。
頬を裂く風圧が走り、直後に牙が空を噛む音が響いた。
(……避けられた! いや、避けさせられたか?)
そのまま反撃に転じる。
残った木片を振り下ろし、獣の脇腹を狙った。
しかし刃のない木は、分厚い毛皮に弾かれ、ただ音を立てただけ。
「っ……!」
手に伝わるのは無力さ。
肩が痺れ、息が詰まりそうになる。
魔獣は逆に勢いを増し、爪を振り下ろしてきた。
芝生が爆ぜ、土が舞う。
木片で受け止めるが、瞬間的に痺れるほどの衝撃で腕が痙攣した。
亀裂がさらに広がる。
次の一撃で完全に砕け散るのは明らかだった。
追い詰められた焦燥に駆られ、魔力に意識を向ける。
胸の奥にある灯火を掴もうとし、息を整えた。
(来い……光よ……!)
掌が熱を帯び、淡い輝きが滲み出る。
訓練でわずかに感じたあの感覚が、今も生まれかけていた。
だが、魔獣の咆哮が意識を切り裂いた。
衝撃で集中が途切れ、光は霧散する。
掌に残ったのは焼けるような痛みだけだった。
「くっ……!」
息が漏れる。喉の奥が焼けつき、視界が滲む。
(駄目だ……俺にはまだ魔術は使えないのか……!)
魔獣は間合いを取り、赤い瞳をぎらつかせて再び低く唸る。
その姿は、こちらを完全に獲物と定めた捕食者だった。
膝が震え、呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が耳を塞ぎ、視界が狭まっていく。
(ここで……終わるのか?)
恐怖が胸を覆い尽くそうとした瞬間――昼間の光景が脳裏に蘇る。
子供たちが芝生を駆け回り、無邪気に笑う姿。
「坊ちゃま、また遊んでください!」と無邪気に叫んだ声。
あの光景が、胸の奥に灯火を再び点した。
(守らなきゃ……この屋敷も、あの笑顔も! 俺が倒れたら誰が守るんだ!)
全身が震えながらも、残った木片を構え直す。
恐怖で押し潰されそうになりながら、その奥に熱が芽生える。
震える足を一歩前へと出した。
「来い……!」
声は掠れていたが、剣士としての胆力がその一言に宿っていた。
魔獣が咆哮を上げ、再び地を蹴った。
芝生が裂け、黒い影が月光を切り裂いて迫ってくる。
その瞬間、俺は踏み込み、残片を渾身の力で突き出した――。
渾身の突きが獣の肩口にめり込んだ。
鈍い衝撃が掌を走り、骨が軋む。
赤黒い血が飛び散り、月明かりを濁すように芝生へ落ちる。
「グルゥァァァッ!」
魔獣が咆哮を上げた。
耳をつんざくような声に全身が痺れ、鼓膜が破れるかと思った。
だが、その雄叫びは痛みからではなく怒りに満ちていた。
(浅い……! まだ倒せていない!)
毛皮を貫いたが、肉に届いたのはわずか。
鋼のような肉体に、木の残片は歯が立たなかった。
魔獣は狂ったように暴れ、爪を振り回した。
地面が裂け、芝生が抉れる。
その一撃を必死に残片で受け止めた瞬間、轟音と共に木片が砕け散った。
「っ……!」
手に残った感触が消え、指が空を掴む。
武器を完全に失った。
血の気が引く。
牙を剥き出しにした獣がすぐ目の前に迫る。
腐臭混じりの熱い吐息が顔を焼き、胃の奥を揺さぶった。
(終わった……!)
その瞬間、心の奥から再び声が蘇った。
「あなたは何度でも立ち上がれる子」――母の柔らかな声。
「恐れを見極めろ」――ガイウスの低い声。
「制御できぬ力は害をなす」――父の厳しい声。
三者の声が重なり、震える心に熱を灯す。
無意識に掌を突き出していた。
武器は失った。だが――まだ残っているものがある。
(魔力……今度こそ掴み切る!)
胸の奥で炎のような熱が脈打つ。
血管が焼けるように熱く、頭がくらくらと揺れる。
しかしその流れは確かに腕を通り、掌へ集まっていく。
「……来い!」
光が生まれた。
最初は淡い灯火。次第に珠となり、夜闇を押し返すように輝きを増す。
掌に宿った光球は小さい。だが確かに“力”の象徴だった。
魔獣が唸り、瞳が光に怯えたように細められる。
その隙を逃さず、俺は一歩踏み込んだ。
「はあああああっ!」
絶叫と共に、光球を魔獣の顔へ叩きつけた。
眩い閃光が弾け、夜空に反射する。
獣は悲鳴を上げ、頭を振り乱した。
その一瞬――俺は折れた残片を拾い上げ、渾身の突きを放った。
光に怯んだ隙を突き、木片の先端が獣の肩口に深く突き刺さる。
黒い血が噴き出し、獣は苦悶の咆哮を響かせて後退した。
芝生が揺れ、赤い飛沫が夜風に散った。
(やった……! 効いた!)
震える腕で構え直しながら、胸の奥に初めて「勝てるかもしれない」という熱が芽生えていた。
黒い血を滴らせながら、魔獣は荒い息を吐き出した。
赤い瞳はなおもぎらつき、殺意の炎を絶やしていない。
芝生に落ちた血痕が、じわじわと土を黒く染めていく。
(まだ……来る!)
全身が悲鳴を上げ、膝は折れそうだ。
掌は光を使い果たした反動で痺れ、残片を握る手は震えていた。
だが、退く気はなかった。
――その時。
カン、と鋼を抜く音が夜気を裂いた。
「坊ちゃまから離れろ!」
衛兵たちが駆け込んできた。鎧のきしむ音、複数の剣が一斉に抜かれる音が重なり、庭の空気が一変する。
魔獣は鋭い牙を剥き、唸り声を上げた。だが多勢に囲まれた状況を悟ったのか、身を翻す。
石壁を蹴って飛び越え、闇に紛れて消え去った。
その背を、鋼の剣を構えた衛兵たちが追いかけようとする。
「深追いするな! 奴は傷を負っている、森に逃げ込むはずだ!」
隊長の声が飛び、兵たちは足を止めた。
俺はその場に膝をついた。
胸が焼けるように熱く、息を吸うたびに喉が痛む。
両腕は痺れ、折れた木片が手から転がり落ちた。
「ライナー!」
母が駆け寄り、俺を抱き締めた。
柔らかな腕の温かさが、張り詰めていた心を溶かす。
涙がこみ上げ、嗚咽が喉を突いた。
遅れて現れた父の灰色の瞳が、俺を見据える。
「……よく立ち向かった」
その一言だけ。だが、冷厳な声の奥に、確かな承認の響きがあった。
衛兵たちが庭を点検し、血の跡を追っている。
夜風が流れ込み、腐臭と鉄臭さを薄めていく。
空を見上げると、雲間から蒼白な月が顔を出し、静かに屋敷を見下ろしていた。
(俺は……死にかけた。恐怖に呑まれ、武器も失った。それでも……折れなかった。前世での剣が俺を支えた。未熟な光でも、確かに魔術を掴めた)
呼吸を整えながら、胸の奥に強い熱が灯る。
(次は……必ず勝つ。恐怖に呑まれず、剣と魔術の両方で……!)
拳を強く握った。
冷たい夜風が頬を撫で、その誓いを運んでいった。
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