第10話 庭に響く子供たちの声
屋敷の庭は、朝露を受けてきらめいていた。
高い石壁に囲まれた中庭は、普段は貴族の子弟が遊ぶための場として用意されている。だが今日は、少し様子が違っていた。
石畳の脇、掃除や水汲みを終えた使用人の子供たちが集まっていたのだ。年の頃は俺と同じくらいか、少し下に見える。
粗末な服を着てはいるが、瞳はきらきらと輝き、笑顔は力強かった。
「ライナー坊ちゃま、こっちに!」
背の低い少年が手を振った。庭掃除を任されている下働きの息子、トーマという名だった。
俺は思わず足を止めた。
(……使用人の子供と一緒に遊ぶなんて、いいのだろうか?)
父や姉なら眉をひそめるかもしれない。だが、母はきっと笑って許してくれる。
芝生の上では、子供たちが木の枝を剣に見立てて打ち合っていた。
ぎこちないが楽しそうで、その姿に胸が少し熱くなる。
(俺も、あんなふうに兄上と打ち合っていた……)
「ライナー様もやりますか?」
トーマが無邪気に枝を差し出してきた。
一瞬迷ったが、手を伸ばしてそれを握った。
掌に伝わるざらつきは、普段の木剣よりも軽く頼りない。だが不思議と心が躍る。
「……いいだろう。少しだけだ」
そう言うと、周りの子供たちがわっと歓声を上げた。
「坊ちゃまが一緒に遊んでくれる!」
「やった!」
簡単な打ち合いが始まった。
子供たちは全力で挑んでくる。踏み込みは甘く、構えも乱れている。だが、その必死さが嬉しかった。
俺は力を抜き、相手の枝を軽く受け止める。
木と木が打ち合う乾いた音が、庭に響いた。
「すごい……坊ちゃま、本当に剣士みたい!」
別の少女が目を輝かせる。
胸がむず痒くなる。剣の稽古では兄に一太刀も浴びせられない。だがここでは、自分が一歩先を歩いているのを実感できた。
(強さは、人を喜ばせることもできるんだ……)
だが、すぐに一人の少年が転んでしまった。
石畳に膝を打ちつけ、痛そうに顔をしかめる。
周囲がざわめき、遊びが止まった。
俺は慌てて駆け寄った。
「大丈夫か?」
少年の膝からは血が滲んでいた。
胸がざわめき、思わず手をかざす。昨日までの訓練で失敗ばかりだった無属性の魔力が脳裏をよぎった。
(俺に……癒やす力はあるのか? いや、まだ試したこともない)
逡巡していると、少年は首を振った。
「大丈夫です、坊ちゃま。俺たちは慣れてますから」
その笑顔に胸が締め付けられる。
(慣れている? 痛みに? それが庶民の当たり前なのか……)
転んだ少年が立ち上がると、他の子供たちが「気をつけろよ」と声をかけて笑い合った。
ぎこちなくも互いを気遣うその姿が、どこか新鮮に映る。兄や姉との稽古では、倒れたらそのまま厳しい叱責が飛んできた。ここには、ただ「仲間」という空気があった。
「もう一回やろう!」
トーマが枝を構えて言うと、再び子供たちが輪を作った。
俺もその中に混ざり、枝を軽く振るう。
真剣さは稽古ほどではない。だが笑い声が絶えない。
互いにぶつかり合い、倒れ、また起き上がる。その繰り返しが楽しかった。
(……剣は勝ち負けだけじゃない。こうして笑い合うためのものでもあるんだな)
ひとしきり打ち合いが終わると、子供たちは芝生に座り込み、息を弾ませた。
俺も隣に腰を下ろす。いつもの訓練場とは違う、安堵に満ちた疲労が心地よかった。
「坊ちゃまは、毎日どんなご飯食べてるんですか?」
少女が興味津々に尋ねてきた。
思わず言葉に詰まる。
「えっと……肉や魚、それに焼きたてのパンとか……」
「すごい! 僕んちなんて、固い黒パンばっかりだよ」
「うちも。お肉なんて、祭りのときぐらいしか出ないよ」
その言葉に、胸がちくりとした。
俺にとって当たり前の食事が、彼らには特別なのだ。
「じゃあ、お風呂は?」
「毎日……」と答えると、子供たちは一斉に驚きの声を上げた。
「ええっ! 毎日!?」
「すごい……俺んちは桶の水で体を拭くだけだよ」
衝撃だった。
温かな湯に浸かることが贅沢だとは思っていたが、彼らの「当たり前」との差がここまで大きいとは知らなかった。
(俺は恵まれている……。でも、それが普通じゃないんだ)
胸の奥に、小さな違和感が芽生える。
「でもな、俺たちには楽しいこともあるんだ」
トーマが胸を張る。
「市場に行くと、香辛料の匂いがすごいんだ。魚屋の兄ちゃんが大声出しててさ」
「わかる! あの匂いで、お腹すいちゃうんだよな」
子供たちは楽しそうに笑い合った。
彼らの暮らしは苦しいことも多いだろう。だが、その中にも確かに喜びがある。
その光景を見ていると、胸が温かくなると同時に、何かが静かに揺さぶられた。
(俺は……この子たちと違う立場に生まれた。けれど、同じように笑えるんだ)
夕陽が庭を朱に染め始めた頃、子供たちは立ち上がった。
「そろそろ戻らないと、親に怒られるや」
「また遊んでくださいね、坊ちゃま!」
無邪気な声に、思わず頷いた。
「……ああ、また一緒に」
別れ際、トーマが笑顔で言った。
「坊ちゃま、剣がすごく強かった。でも、優しかった。また教えてください!」
その言葉は、剣を「戦いの道具」としてしか捉えていなかった俺に、新しい意味を与えてくれた。
(強さは、守るためにも、笑うためにもある……そういう強さを、俺は目指したい)
胸の奥に、静かな決意が芽生えた。
それから数日後、再び庭に足を運ぶと、すでに子供たちが集まっていた。
秋の風が石壁を越えて吹き込み、芝生の上を駆け抜けていく。乾いた草の匂いと、朝早くに撒かれた井戸水の湿った香りが混じり合い、普段の静かな庭とは違う活気を帯びていた。
子供たちは簡素な綿布の服を着て、袖や裾には泥の染みが広がっていた。だがその顔には、土埃よりも鮮やかな笑みがあった。俺を見つけると、一斉に声を上げて駆け寄ってくる。
「坊ちゃま!」
「今日も一緒に!」
その無邪気な声に、胸の奥が温かくなる。普段、貴族の子弟に向けられる視線はどこか計算や礼儀を含んでいたが、彼らの笑顔にはただ「遊びたい」という純粋さしかなかった。
この日も、最初は木の枝を剣に見立てた打ち合いから始まった。
子供たちは足をもつれさせながらも全力で振り下ろし、枝がぶつかるたびに「やった!」と声を上げる。
俺もその輪に加わった。
握った枝は粗雑で手にざらつきが残る。だがその軽さがかえって心を弾ませた。
「足はもっと開け。腰を落とすんだ」
構えが崩れた少年に声をかける。
「こう……ですか?」
少年は真剣な目をして枝を構え直す。
「ああ、その方が力が伝わる」
口にした瞬間、自分が兄や指南役から叩き込まれてきた言葉を思い出した。今度は自分が教える側に立っていることに、奇妙な感覚を覚える。
(俺も……人に何かを伝えられるんだ)
日差しが傾き始めた頃、子供たちは芝生に腰を下ろし、懐から黒いパンを取り出した。
硬く乾いた塊を両手で割り、噛みしめながら食べる。
「坊ちゃまもどうぞ」
トーマが差し出した。
一瞬ためらったが、俺は受け取り、口に入れた。
歯に跳ね返されるほど固い。だが噛むたびに、小麦の香ばしさと素朴な甘みが広がる。
「……美味い」
思わずこぼすと、周囲の子供たちが目を丸くした。
「ほんとに? 俺たちのパンを?」
「坊ちゃまの食べてるご馳走と比べたら、全然だよ」
胸がちくりと痛む。
自分にとっては当たり前の食事が、彼らにとっては夢のような存在なのだ。
「坊ちゃまは、毎日肉とか魚を食べるんですか?」
「……ああ。焼いたり煮たり、色んな料理が出る」
「すごい! 俺なんて、祭りのときしか肉を見ないよ」
「うちもそうだ。塩漬けの魚でもごちそうなんだ」
彼らは羨望の眼差しを向けつつも、声には暗さはなかった。
むしろ、自分たちの暮らしを笑いながら話している。
「お風呂は?」
「毎日入ってる」と答えると、一斉に驚きの声が上がった。
「毎日!?」
「すごい……俺たちなんて桶で水をかぶるだけだよ」
俺の「普通」は、彼らにとっては別世界だった。
(同じ年でも……背負っている日常が全然違う)
それでも、彼らには彼らの楽しみがあった。
「市場に行くとさ、香辛料の匂いが鼻にツンとくるんだ」
「うんうん! 魚屋の兄ちゃんがいつも大声出してて、すっごい活気なんだ」
彼らの目は輝いていた。
俺の知らない世界の情景が、言葉を通じて鮮やかに浮かんでくる。
裕福さも権威もない彼らが、それでも胸を張って「楽しい」と語る姿に、強い衝撃を受けた。
(俺は……この子たちとは違う。だけど、一緒に笑うことはできる)
その思いが、心に深く刻まれていった。
やがて夕陽が石壁を朱に染めると、子供たちは立ち上がった。
「もう帰らないと。遅くなると親に叱られるから」
トーマが振り向き、笑顔で言った。
「坊ちゃま、剣を教えてくれてありがとうございました。またやってください!」
胸に熱が広がる。
「……ああ、また」
別れの声が庭に響き、子供たちは駆け足で屋敷の裏手へ消えていった。
残された庭には、橙色の光と、消えかけた笑い声の余韻だけが漂っていた。
それからというもの、俺が庭に出ると、いつの間にか子供たちが集まるようになった。
枝を剣にして打ち合い、芝生に転がって笑い転げる。時には市場や村の話を聞かせてもらい、俺は彼らの知らない知識を教え返す。
短い時間だったが、そのひとときは心から楽しかった。
だが、屋敷の中は必ずしも好意的ではなかった。
ある日、廊下を歩いていると、侍女たちの囁きが耳に入った。
「坊ちゃま……また下働きの子供と混ざっていたそうよ」
「まあ、いくらお優しいとはいえ……貴族のお立場をわきまえなければ」
小声ながら、鋭く耳に届く。
足が止まり、胸がざわめいた。
(俺が庶民と一緒に遊ぶのは……悪いことなのか?)
考えれば当然だ。
俺は名門エーデルワイス家の子。彼らは使用人の子。身分は明確に分かれている。
それを無視して交われば、周囲から「軽んじている」と思われるかもしれない。
その日の遊びの最中、心はどこか曇っていた。
枝を振っても、笑い声の輪に入っても、胸の奥には重い影が残る。
そんな俺を見透かしたのか、トーマが首をかしげた。
「坊ちゃま、今日は元気ないですね?」
「……いや、大丈夫だ」
笑ってみせたが、声は硬かった。
「もしかして、誰かに怒られたんですか?」
別の少女が心配そうにのぞき込む。
一瞬答えに詰まる。
子供たちは悪くない。けれど「一緒にいることが問題だ」と言われているのは事実だ。
芝生に腰を下ろし、空を仰ぐ。
澄んだ青空に浮かぶ雲は、どこまでも自由に流れていた。
羨ましいと思った。俺もあの雲のように、自由に誰とでも笑っていたい。
(けれど……俺には「身分」という壁がある)
その現実が胸に突き刺さる。
沈んだ気持ちを見透かしたかのように、トーマが笑った。
「坊ちゃまは坊ちゃまのままでいいんですよ。僕らは怒られ慣れてますし」
その言葉に、胸が強く揺さぶられる。
痛みに慣れてしまう彼らと、守られて育つ自分。
違いは残酷なくらいに大きい。
だが同時に、確かにここには「嘘のない笑顔」があった。
枝を打ち合わせる音、芝生に転がって息を切らす感覚。
兄との稽古でも、社交の場の礼法でも得られなかった「心からの笑い」が、ここにはあった。
(身分が違っても……この時間は本物だ。俺にとって、大切なものなんだ)
夕陽が庭を朱に染めていく中、俺は心の奥で強く誓った。
(貴族としての責任も、この友情も、どちらも捨てない道を探す。きっとそれが、俺の自由へつながるはずだ)
再び枝を手に取り、子供たちと打ち合った。
枝がぶつかり合う音は軽やかで、芝生に倒れ込むと笑い声が弾ける。
胸の奥を覆っていた重さが少しずつ解け、気づけば俺も声を上げて笑っていた。
「坊ちゃま、やっぱり強い!」
「でも、ちゃんと待ってくれるから戦いやすい!」
無邪気な言葉に、胸が温かくなる。
勝つことだけが目的ではない戦い――それを初めて知った気がした。
遊びがひと段落すると、子供たちは芝生に転がり、空を見上げて息を弾ませた。
俺もその輪に加わり、蒼天を仰ぐ。
石壁に囲まれた庭から見える空は狭い。けれど、そこに流れる雲は果てしなく自由だった。
「坊ちゃま、やっぱりお金持ちのおうちっていいですね」
誰かが呟く。
「でもな、うちの村も負けてませんよ。祭りの夜はすごいんです!」
「わかる! 太鼓の音と踊りで、みんな笑顔になるんだ!」
語る子供たちの顔は誇らしげだった。
その笑顔を見ていると、羨望や劣等ではなく、「自分の居場所を誇れる強さ」を感じた。
(俺は彼らと違う道を歩む。でも、同じように笑い合えるんだ)
夕暮れが迫り、子供たちは立ち上がった。
「そろそろ戻らないと」
「また遊んでください!」
駆けていく背中を見送りながら、胸がじんわりと熱を帯びる。
庶民の暮らしと自分の暮らし、その差は埋まらない。
だが――その差を知ったからこそ、守りたいと思えた。
(俺は両方の世界を大切にする。貴族としての責任も、この友情も。どちらも捨てない。きっとそれが……俺の目指す自由だ)
静かになった庭に、風が吹き抜けた。
芝生を揺らし、遠くから犬の吠える声がかすかに届く。
そのとき、ふと背筋に寒気が走った。
石壁の向こうから、低いうなり声が微かに聞こえた気がした。
すぐに消えたが、胸の奥にざわめきが残る。
(……気のせいか?)
夕闇に沈む庭を見回しながら、俺は小さく首を振った。
笑いの余韻と共に、不穏な影が静かに忍び寄っていることを、このときの俺はまだ知らなかった。
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