第4話 天響の里
高い城壁の門をくぐると、天響の里の景色が広がった。
石畳の道の両脇に家々が並び、中央には大きな広場、その奥に荘厳な社殿がそびえている。社殿の上空には、淡く輝く光の帯が漂っていた。それは言霊の力が祈りによって天へ還る証――天響の里だけに見られる現象だった。
遥花がその光景に目を奪われていると、声がかかった。
「陽路!」
駆け寄ってきたのは、落ち着いた雰囲気を纏う女性。陽路とよく似た面差しを持ち、しかしその瞳には柔らかな慈愛が宿っている。
「母上……」
「遅かったじゃない。――何かあったの?」
彼女の視線が遥花に向けられた。瞬間、目が大きく見開かれる。
「……遥花様」
震えるような声に、遥花は戸惑いを隠せなかった。
「私を……知っているんですか?」
遥花が問うと、陽路の母は一瞬言葉を失った。
その瞳に走ったとまどいを、遥花も陽路も見逃さなかった。
「……まさか、覚えておられないのですか?」
「……はい。ごめんなさい。私、何も……」
遥花が言いよどむと、母はすぐに表情を和らげ、深く首を振った。
「謝ることではありません。……ええ、かつて私は貴女の従者でございました。今は、里に残る務めを果たしておりますが……こうしてまたお目にかかれるとは……」
膝を折る母の姿に、遥花は胸の奥がざわつくのを感じた。自分は覚えていない。けれど、この人の想いの深さだけは、はっきりと伝わってくる。
「母上。まずは長老のもとへ向かいましょう」
陽路の言葉にうなずき、三人は社殿の奥へと進んだ。
社殿の最奥、玉座の間。
静謐な広間。柱に吊るされた灯籠が淡い光を揺らし、張りつめた空気のなか、そこには天響の里の長老が鎮座していた。白髪で背はやや曲がっていたが、その瞳の輝きは鋭く、威厳を放っていた。
陽路は片膝をつき、深く頭を垂れる。
「――長老。ご報告いたします。遥花様が……無事にお戻りになられました。」
「おお……。」
長老の目が細まり、遥花に向けられる。その眼差しは慈しみと、同時に重い期待を帯びていた。
「……ですが。」
陽路の声に緊張が宿る。
「おそらく禍ツ者の刺客が里の外にて姿を現しました。彼らの目的は未だ見えませぬが……遥花様を狙ったのは間違いございません」
広間の空気が揺れる。長老はしばし沈黙し、やがて低く言った。
「やはり……動き始めておるか。久遠の均衡が揺らぎかけている……。」
陽路は拳を握りしめ、顔を上げた。
「遥花様は……記憶を失っておられます。しかし、いずれ必ず思い出される。いいえ――思い出していただかねばなりません。その日まで……私が共に支えます。遥花様を、再び道へ導くことをお許しください。」
長老は静かに遥花を見つめる。少女の瞳には不安が揺れていた。だがその隣に立つ陽路の姿は、揺るぎない覚悟を示している。
「……よい。そなたに託そう。」
深い声が広間に響き、決断の重みが落ちた。
広間を出ると、外はすでに宵の帳が落ちていた。灯籠が淡く揺れ、虫の音が響いている。
遥花は隣を歩く陽路に、まだ落ち着かない面持ちで問いかけた。
「……長老に、ああ言ったのは……。」
陽路は一瞬言葉を選ぶように口を閉ざし、やがて真っ直ぐに視線を返した。
「長老に伝えねばならなかったのです。けれど……あれは義務の言葉ではありません。遥花様が綴る者として歩むかどうかに関わらず、私はただ、傍にいてお守りしたい。そのためには、ああ申し上げるほかなかったのです。」
遥花は胸を押さえ、目を伏せる。心にまだ霧がかかっている。だが、陽路の言葉の熱は確かに届いていた。
ふたりはしばし沈黙の中を歩いたのち、陽路が穏やかに言う。
「――そろそろ、お戻りになりましょう。ご家族も、遥花様を案じておられるはずです。お宅まで、お送りいたします。」
遥花は小さく頷いた。
その歩みはまだ頼りなく、しかし確かに“帰る場所”へと向かっていた。
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