SCENE#103 パパを見て、ね?

魚住 陸

パパを見て、ね?

第一章:芽生えた疑念




涼はどこにでもいる小学1年生だった。元気いっぱいで、少しいたずら好き。父親である隆夫は、そんな息子を心から愛していた。しかし、ここ最近、隆夫の心に黒い影が差し込み始めていた。きっかけは、ささいなことから始まった。





ある日、涼が隆夫の淹れたミルクコーヒーを「パパ、このコーヒー、苦い!僕、イヤだぁ...」と言って、一口も飲まずに残した。いつもはがぶ飲みするほどミルクコーヒー好きな涼にしては珍しい、と隆夫は訝しんだ。





「あれ?涼、どうしたんだ?いつものコーヒーだぞ?」




その翌週、隆夫が風邪をひき、涼が妻と一緒に看病してくれた時のことだ。涼は隆夫の薬を水に溶かし、「パパ、早く元気になってね!僕が看てあげるから、これ飲んでね!」と屈託のない笑顔で差し出した。隆夫は温かい気持ちになり、「ああ、涼、ありがとうな。パパ、助かるよ…」とそれを飲んだ。





ところが、その薬を飲んでから隆夫の体調はさらに悪化し、丸一日ひどい吐き気に襲われたのだ。「変なだな…まさか、薬が古かったのか…いや、そんなはずはない。風邪をこじらせただけだ…」と隆夫は自分に言い聞かせた。





だが、小さな異変はそれだけではなかった。涼は以前にも増して隆夫に甘えるようになった。夜中に隆夫の寝室に忍び込み、隆夫の頭を撫でながら「パパ、大好きだよ。ずっと僕のことだけ見ててね…」と囁いたり、隆夫が風呂に入っている間に、わざとらしく浴室の戸を開けて「パパ、大丈夫?何かあったら呼んでね!」と心配そうに顔を覗かせたりする。その度に隆夫は愛情を感じていたが、同時に何かしらの違和感も覚えるようになった。まるで、隆夫の動向を常に探っているかのような、奇妙な視線を感じることが増えたのだ。





ある日、隆夫が仕事から帰ると、涼が隆夫の書斎で何かを探していた。隆夫が声をかけると、涼はびくりと体を震わせ、「あっ、パパ!あのね、パパの机、ちょっと散らかってたから、綺麗にしてあげようと思ったんだ!」と慌てて笑顔を作った。その手には、隆夫が普段使っているカッターナイフが握られていた。





「涼、それは危ないだろ!何してるんだ!」




隆夫の背筋に冷たいものが走った。その夜、隆夫は妙な夢を見た。涼が真っ暗な部屋で、隆夫を見下ろして嗤っている夢だった。






第二章:深まる不信と増幅する恐怖




隆夫の疑念は、日を追うごとに膨らんでいった。涼の行動は、隆夫の注意を引くためだけの、普通の子供のいたずらには見えなくなっていた。涼は、隆夫の食べ物や飲み物に異常なほど興味を示すようになった。






隆夫が食事をすると、必ず「パパ、それ、どんな味?僕にもちょうだい!ねえ、いいでしょ?」と言い、隆夫が与えるまでしつこくねだった。しかし、いざ口にすると、すぐに「うーん、やっぱりいらない…」と言って吐き出すことが多かった。「まさか、俺の食べ物に何かを…」と隆夫は思考の泥沼にはまり込んでいった。






隆夫は、涼の行動をこっそりと記録し始めた。食卓に隠しカメラを仕掛け、涼が隆夫のコップに何かを入れる瞬間を捉えようとした。しかし、涼はいつも隆夫が目を離した隙を狙うため、決定的な瞬間は撮れなかった。隆夫の心は疲弊し、夜はほとんど眠れなくなった。寝室にいるはずの涼の声が、廊下から聞こえる気がする。目を閉じれば、涼の冷たい視線を感じる。





「幻聴か…?疲れているんだ、きっと…」




妻の由美も隆夫の変化に気づき始めていた。「あなた、最近元気ないわね。どうかしたの?」と尋ねたが、隆夫は何も答えられなかった。






「こんなこと、言えるはずがない…」




ある晩、隆夫がキッチンで皿洗いをしていると、背後から涼がそっと近づいてきた。隆夫が振り返ると、涼は何も言わずに隆夫の手に持っていた包丁をじっと見つめていた。その瞳には、子供らしからぬ、どこか冷たい光が宿っていたように隆夫には見えた。





「涼、どうした?こんなところで。危ないから向こうに行ってなさい…」




隆夫は思わず包丁を落としそうになった。その時、涼がぼそりと呟いた。




「パパは、死んじゃったほうが、僕のことを見てくれるかな?」隆夫は耳を疑った。





「今、なんて言った?涼!」




しかし、涼はすぐにいつもの無邪気な笑顔に戻り、「え?何も言ってないよ!パパ、どうしたの?」と首を傾げた。






隆夫は背筋が凍りついた。彼は自分の身を守るために、様々な対策を練り始めた。食べ物や飲み物は、涼が触れない場所に置くようにし、シャワー中は必ず鍵をかけるようになった。それでも、涼のどこか無邪気で、しかし底知れない行動は隆夫を追い詰めていった。





ある夜、隆夫が寝ていると、涼が隆夫の耳元で何かを囁いた。その声は、あまりにも小さく、隆夫は聞き取ることができなかった。しかし、その声を聞いた瞬間、隆夫の全身に悪寒が走った。





「今、涼は何か言ったのか…?」






第三章:確信への道と過去の影




隆夫は、もはや涼の行動をいたずらや偶然では片付けられなくなっていた。彼の心には、確固たる疑念が根を下ろしていた。ある週末、隆夫と涼が公園で遊んでいた時のことだ。涼は一緒にブランコに乗っていた隆夫に、突然「パパ、もっと高くこいで!もっと!もっと高く!」と叫んだ。隆夫が勢いよくブランコを押すと、涼はバランスを崩し、ブランコから落ちそうになった。





「危ない!涼!」





隆夫は間一髪で涼の服を掴み、事なきを得たが、涼は顔色一つ変えずに隆夫を見上げた。その瞳には、一瞬、失望のような感情がよぎったように隆夫には見えた。「…パパ、へたっぴ」涼は小さく呟いた。





隆夫は、涼の行動に法則性を見出そうとした。そして、ある共通点に気づいた。涼が隆夫に危険な状況を仕掛けるのは、いつも隆夫が一人でいる時、あるいは由美の目の届かない場所で、そして、まるで事故を装うかのように巧妙に行われているのだ。





「まさか、計画的だとでも言うのか…?」





隆夫は、涼が読んでいる絵本や児童書を調べ始めた。特に気になったのは、涼が最近よく読んでいた、動物たちが登場する、一見するとかわいらしい絵本だった。その絵本には、毒を持つキノコや植物が挿絵として描かれており、その特徴が詳しく説明されていた。





「この絵本を涼が…まさか!」





隆夫の脳裏に、あの体調不良の日のことがよぎった。涼が隆夫の薬を溶かして差し出した水に、もしかしたら何か別のものが混入されていたのではないか?





隆夫は、涼が遊んでいたおもちゃ箱をそっと漁った。すると、その奥から、小さなビニール袋に包まれた植物の種のようなものが見つかった。それは、絵本に描かれていた、ある毒性のある植物の種と酷似していた。





「これは…間違いなくあの植物の種だ!」




隆夫の心臓が激しく脈打った。これは偶然ではない。涼は、確実に、俺を殺そうとしている。隆夫は、警察に相談することも考えた。





「まさか、小学1年生の息子が父親を殺そうとしているなんて、誰が信じる?物的証拠もこれだけでは…バカげてる…」





隆夫は、涼の真意を突き止めるため、ある行動に出ることを決意した。





「涼…お前は、一体何を考えてるんだ…」




その時、隆夫の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇った。涼がまだ幼児だった頃、庭で捕まえたカナヘビを、隆夫が見ていないところで石で潰していたことがあった。「涼、どうしてこんなことを…」と尋ねると、涼はただじっとカナヘビの死骸を見つめ、無言だった。あの時の涼の瞳は、まるで感情がないかのように、ただ静かに輝いていた。







第四章:露呈する真実と崩壊する心




隆夫は、涼に直接問い詰めることにした。しかし、感情的にならず、あくまで冷静に、涼の口から真実を聞き出すために。ある日の夕食後、由美が風呂に入っている隙に、隆夫は涼に切り出した。





「ねえ、涼。パパのこと、嫌いになったのかい?何か、パパに隠してることはないかい?」





隆夫の問いに、涼は首を傾げた。「どうしてそんなこと聞くの?僕、パパのこと、大好きだよ!世界で一番大好き!」その笑顔は、あまりにも無邪気で、隆夫は一瞬たじろいだ。しかし、隆夫は怯まなかった。





「じゃあ、この前、パパの飲み物に何か入れたのはどうしてだ?これ、涼が持ってた種だろ?この植物、毒があるって絵本に書いてあったぞ。もしかして、あの時パパが風邪で寝込んだのも…」





隆夫は、涼が持っていた毒性のある植物の種らしきものを見せた。涼の顔から、笑顔が消えた。そして、その表情は、隆夫が今まで見たことのない、冷たく、どこか大人びたものに変わっていった。





「パパは、僕のこと、嫌いなんでしょ?」涼の声は、驚くほど冷静だった。




「パパは、僕が嫌いなんだ!いつも僕に構ってくれないじゃないか!」





隆夫は混乱した。「何を言ってるんだ、涼!パパは涼のこと、嫌いなんかじゃないぞ!涼を嫌いになるなんて、天地がひっくり返ってもありえない!」





涼は、隆夫の言葉を遮るように話し始めた。「だって、パパは、いつもママとばかり話してるもん。僕が話しかけても、上の空。ねえねえって言っても、後でって言うだけ。僕のこと、嫌いなんだ!もう僕のことなんて、どうでもいいんでしょ!?」





「違うよ!違うよ涼!パパは…パパは涼が大好きだ!」





隆夫は愕然とした。涼の行動は、隆夫への「愛情」の裏返しだったのだ。しかし、その愛情の表現方法は、あまりにも歪んでいた。涼は、隆夫の気を引くため、そして、自分に注目させるために、隆夫を病気にさせようとしていたのだ。究極的には、隆夫が死んでしまえば、隆夫の注意は完全に自分に向くと、そう考えていたのかもしれない。





「涼…そこまで追い詰めてしまっていたのか…まさか、こんな形で…」





「パパのこと、大好きなのに…」涼の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。隆夫は、涼を抱きしめた。





「ごめん、涼。違うんだ。パパ、最近、仕事が忙しくて疲れてたんだ。パパは、涼のこと、誰よりも大切に思ってる。涼がこんなに寂しい思いをしてたなんて、パパは気づいてやれなかった。パパが悪かった。涼の話を、もっと聞いてあげるべきだった。寂しい思いをさせて、本当にごめん…」





涼は、隆夫の胸で泣きじゃくった。隆夫の心から、重いものが取り除かれたように感じた。しかし、同時に、胸の奥には、拭いきれない不安が残っていた。小学1年生の子供が、そこまで追い詰められていたこと。そして、その思考回路が、あまりにも恐ろしい方向に向かっていたこと。隆夫は、涼との関係を修復するため、心から努力することを誓った。






「これからは、涼の全てを受け止めてやる。絶対に、もう二度と寂しい思いはさせない…」





隆夫の心は、安堵と、拭い去れない恐怖の間で揺れ動いていた。彼はその夜も、ほとんど眠れなかった。涼のあの冷たい目が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。







第五章:薄ら笑いと残された真実




隆夫は、それからというもの、涼との時間を何よりも大切にするようになった。毎晩絵本を読み聞かせ、休日は一緒に公園で思い切り遊び、涼の話に真剣に耳を傾けた。





「パパ、聞いて聞いて!今日の給食、カレーだったんだよ!すごく美味しかったんだ!」





「おお、そうか!それは美味しかっただろうな!涼がそんなに美味しかったなら、パパも嬉しいよ!」





涼も以前のような、どこか大人びた冷たさはなくなり、本来の無邪気な笑顔を取り戻していった。隆夫は、涼との関係が修復されたことに安堵し、あの恐ろしい疑念は過去のものとなったと信じていた。





しかし、隆夫の心の中には、微かな、しかし確かな影が残っていた。ある日、隆夫が涼の部屋で片付けをしていると、涼が最近書いたらしい、小さな絵を見つけた。そこには、隆夫らしき人物が横たわり、そのそばに涼らしき人物が立っている絵だった。隆夫は、その絵から、かつてのあの冷たい視線を感じたような気がした。





「気のせいだ…もう涼は大丈夫だ…」





隆夫は自分に言い聞かせた。別の日の午後、由美が出かけている間に、隆夫は涼がリビングで読書をしているのを見かけた。涼は絵本ではなく、隆夫が読み途中で置いていた植物図鑑を真剣に読んでいた。隆夫が近づくと、涼は慌ててそれを閉じた。





「涼、何読んでるんだ?」




「ううん、なんでもないよ、パパ!」そのわずかな動揺に、隆夫の胸騒ぎは収まらなかった。





そして、ある蒸し暑い夏の夜、隆夫は珍しく深い眠りに落ちていた。その日の夕食は、涼が隆夫のために由美と一緒に作ってくれたという、手作りのサンドイッチだった。




「パパ、これ、ママと一緒に僕が作ったんだよ!パパのために一生懸命作ったんだからね!絶対残さないで全部食べてね!」




涼は、隆夫が一口食べるごとに「美味しい?パパのために頑張ったんだよ!」と、愛らしい笑顔で隆夫を見つめていた。「ああ、涼!最高に美味しいぞ!パパは幸せだ!」隆夫は、そのサンドイッチを心ゆくまで味わい、涼の成長を喜んでいた。





あの時、涼が差し出した薬に、そして今、サンドイッチに混ぜられた毒物は、あの絵本に載っていたトリカブトの根を乾燥させ、粉末にしたものだと、隆夫は薄れる意識の中で悟った。






隆夫の意識が薄れていく中、夢うつつのまぶたの裏に、涼の顔が浮かんだ。しかし、それはいつもの無邪気な笑顔ではなかった。口元は微かに上がり、瞳は闇の中で冷たく輝いていた。まるで、遠くからこちらを見下ろしているかのように。





「…涼…?」




隆夫は、かすかに涼の名前を呼んだ。その声は、もう喉からほとんど出なかった。





涼は、隆夫のすぐそばに立っていた。その瞳は澄んでいて、何の濁りもない。しかし、その奥には、底知れない狂気が宿っていた。





「パパ、僕、ずっと待ってたんだよ。パパが僕だけを見てくれる日を…」




涼は、倒れ伏す隆夫の耳元にそっと唇を寄せた。その声は、冷たく、はっきりと隆夫の意識に突き刺さった。





「これで…パパは、僕のこと、ずっと好きでいてくれるよね。ずっと、ずっと、僕だけのパパだよ。ずっとね…」





翌朝、由美が隆夫の寝室を訪れると、隆夫は冷たくなっていた。




「隆夫さん!?どうしたの!?しっかりして!」




由美の悲鳴が響き渡る中、その傍らには、穏やかな顔で眠っている涼がいた。由美が救急車を呼ぶために部屋を出て行くと、涼はゆっくりと目を開けた。そして、隆夫の顔を一瞥すると、口元に薄ら笑いを浮かべた。その笑みは、幼い子供のそれとはかけ離れた、すべてを見透かすような、恐ろしいほどに冷徹なものだった。





「よかった…」




涼は、隆夫の冷たい手を握り、満足そうに囁いた。やがて救急隊員と警察官が到着し、由美は嗚咽を漏らしながら隆夫の死を伝えた。涼は、涙を浮かべながら隊員を見つめ、「パパが、急に苦しそうになって…僕、どうしたらいいか分からなくて…」と震える声で答えた。その演技は完璧で、誰一人として、涼を疑う者はいなかった。ベッドサイドには、空になったサンドイッチの包みが、静かに置かれていた。事件は、不審死として処理された。しかし、涼の瞳の奥には、いつまでも消えることのない、あの薄ら笑いが宿っていた。





そう…涼は、小学1年生にして、完璧な「事故」を演出したのだ…

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