17話 練習

朝の村はまだ涼しく、空気には焚き火の残り香が漂っていた。

馬たちがいなないて、鉄の蹄が石を打つ軽快な音があたりに響く。


アメリアは小さく息を吸った。目の前に立つのは大きな栗毛の馬。穏やかな瞳をしているのに、近づけば圧倒される迫力がある。


「怖いか?」

背後から落ちたヴァルクの低い声に、肩が震える。


「……少し。でも、大丈夫」


おずおずと答えると、彼は小さく笑い、馬の手綱を取った。


「こいつは気性が穏やかだ。最初は歩かせるだけでいい。俺が横にいるから落ちる心配はない」


「……はい」


ヴァルクの大きな手がアメリアの腰を軽々と持ち上げる。思わず声が漏れた次の瞬間、彼女は鞍の上に座っていた。


「……っ」

視界がぐんと高くなり、地面が遠のく。背筋が強張り、無意識に手綱を握りしめる。


「力を入れすぎだ」

ヴァルクが後ろから手を添え、彼女の指をゆるめさせる。

(この人のどこが女慣れしていないのか……)

エインハルト卿の言葉を思い出し、憎らしくなるほど胸がときめいた。


「馬はお前を落とそうなんて思っちゃいない。呼吸を合わせろ。すぐ慣れる」


「呼吸を……」


馬の体がゆるやかに揺れると、自然に身体がそのリズムを受け入れていく。歩みは思った以上に穏やかで、不安はすぐに薄れていった。


「……歩けてます」


「そうだ。その調子だ」

ヴァルクの声は、誇らしげに響いた。


振り返ると、いつの間にか彼も愛馬に乗り、真っ直ぐこちらを見つめていた。厳しい戦士の顔ではなく、優しく見守る眼差し。胸が熱くなり、アメリアは思わず視線を逸らす。


(……どうしよう。本当に、この人がどんどん素敵に見えてしまう)


馬の揺れに合わせるように、心も静かに波打っていった。


「歩くのには慣れてきたな」


「ええ、思ったより怖くないです」


「なら、少し速足にしてみるか」


「えっ……!」

振り返ると、ヴァルクはにやりと唇を上げた。本気とも冗談ともつかぬ目をしている。


「無理はさせない。俺がついている。手綱を少し、軽く前へ」


深呼吸をして、アメリアは恐る恐る手綱を動かす。

次の瞬間、馬が軽やかに歩みを速めた。


「きゃっ……!」

体が揺さぶられ、思わず鞍にしがみつく。


「落ち着け、背筋を伸ばせ!」

すぐそばから声が飛んできた。ヴァルクの馬が横につき、片手で彼女の腕を支える。


必死に息を整え、揺れに合わせると、恐怖は次第に興奮に変わっていった。


「……走ってる……! わたし、本当に……」


「そうだ。よくやった」

ヴァルクの口元に誇らしげな笑みが浮かぶ。


やがて馬が止まり、アメリアは息を切らしながらも晴れやかな顔をしていた。


「……すごい……思ったよりずっと、気持ちいい……」


「だろう?」


そう言って彼は馬から軽々と下り、アメリアに手を差し伸べた。

その掌に導かれ、彼女は鞍から降りる――その瞬間。


「きゃっ……」

足がもつれてよろめき、胸元に強い腕が回り込む。


「……大丈夫か?」

至近距離で響く低い声。


彼の体温が近すぎて、アメリアの頬は熱を帯びた。


「……だ、大丈夫です……」


「本当か?」


顔が近づく気配に慌てて視線を逸らす。


「アメリア様、お見事でしたー!」


小走りで近づいて来たテティを見て、アメリアは慌てて体を離した。

手拭いを受け取り、額ににじむ汗を拭う。


「さすがの馬術の腕ですね!」


「え?」


「え?って、アメリア様は毎年秋の馬術大会に出られてるじゃないですかぁ!」


血の気が引くように心臓が跳ねる。


(しまった……馬術はアメリアの特技だった)


自然に馬と呼吸を合わせられたのも、この身体が覚えていたから。


恐る恐るヴァルクを盗み見たが、彼はこちらの会話を聞いていないのか、自分の愛馬とアメリアが乗った馬を繋いでいた。

ホッとして努めて平静を装う。


「ええ。でも、山道での乗馬は競技とはまるで違うわ」


「そうなんですか?私は乗ったことないので不安ですぅ」


「……乗ったこと、ない?」


アメリアは驚き、ヴァルクのもとへ駆け寄った。


「ヴァルク様、私の侍女も馬に乗るのですか?」


不思議そうに「そのつもりだ」と答えるヴァルク。


(……この人、侍女の立場を兵士と同じだと思ってるの?)


「ヴァルク様、テティは馬に乗れません。おそらく私よりも。ここから山を越えるのは彼女には厳しいかと」


ヴァルクは鼻歌交じりに歩くテティを一瞥し、大きくため息を吐いた。


「少し待て。どうにかしよう」


やがて、年若い青年を連れてきた。


「アメリア殿下、ご挨拶申し上げます。リンク・メルディと申します」


「リンクはメルディ家の三男で、騎士団入りを志願した変わり者だ。まだ見習いだが、乗馬の腕は団内随一。彼が侍女と相乗りする」


メルディ家といえば、高位の貴族。――婚約者を決める夜会でヴァルクに従っていた青年ではなかったか。

屈強な騎士たちよりも、彼となら相乗りしても負担は少ないだろう。


「相乗りっ!? わ、私……相乗りするんですか?!」


涙目になるテティの肩を、アメリアは安心させるように撫でた。


「大丈夫よテティ。ひとりで乗るより安全だから。ここからは馬車では行けない道らしいの。少しだけ我慢して」


「……時にテティ殿、体重はいかほどですか?」


「えええっ!」


リンクの唐突な質問に、アメリアもテティも目を丸くする。


「あっ……すみません。ただ、馬の負担を考えて確認しておきたくて」


「ううう……あなたにだけ言います……」


「では、あちらで。馬も見ていただけると助かります」


テティとリンクは厩舎へと向かった。


「お手間かけてすみません」


「いや、侍女のことを考えなかったのは俺の落ち度だ」


「テティ、かなりショック受けてましたね」


「まあ……自分で操るよりはマシだろう。殿下も『相乗りが良かった』と泣き言を言うかもな」


意地悪く言う彼に、アメリアは頬を膨らませて反論した。


「いいえ! 私は最後まで一人で乗り切ります!」


「では……お手並み拝見しよう」

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