第3話 浦戸湾奇譚 — 月影の封 —

 01 金の砂

 夜の浦戸湾は、息をしていた。


 沖から入り込む潮が静かに湾の底を撫で回し、どこかで溜めた息を少しずつ吐き出すように、波の肌を細かく震わせる。


 その夜、漁師の弥三郎やさぶろうかいを止め、耳を澄ませた。  

『ジャン、ジャン、ジャン』

 海の底から半鐘の音が聞こえてくる。


 火事の時のように心をざわつかせ、響く感じではない。

 遠くから鳴る、水に溶けて届いたような、湿った音だ。


 それが二度、三度と繰り返す。

「ジャンが来た!!久しぶりに現れやがった!!戻って知らせなきゃ」


 弥三郎は、胸の内で三度目の音に合わせて櫂を返し、舟を岸へ向けた。


 明かりは点けない。

 点けた灯はジャンを呼ぶ、昔からそう言われている。


 そう思った時、海面が揺れた、地震だ!

 一拍置いて、弥三郎は船ごと海に飲まれた。

 落ちた後の浦戸はさざ波が揺れていた。

 翌朝の砂浜には、弥三郎の水死体が打ち上がった。


 海からの半鐘の音は『孕みのジャン』と呼ばれており、地震の前触れと信じられている。


 昨夜の地震は陸地への被害はもたらさなかった。

 海だけの揺れは海震うみのしんと呼ばれており、海中で何者かが暴れていると言われている。


 それが『孕みのジャン』なのかは定かではない。

 が、人々の恐怖は相当なものだ。


 町の古老の口伝によると、半鐘の音が鳴り響くと大地振おおぢふりが起き、この漁師町どころかご城下まで被害をもたらした事もあるそうな。

 

 打ち上がった弥三郎は『ジャン』に引き込まれたと人々の口に登った。


 そのてのひらには、金の砂が握られていた。


 海に洗われてもなお、陽をはね返すほどに細かく眩い金。

 漁師たちは息を呑み、子どもは恐怖で家に走り去り、噂だけが風より早く城下へ届いた。


 02 海へ向かう

 ある日の鶴喜楼。

 朝の帳場に現れたのは雲の旦那『早雲進ノ介』だった。

 いつもより声が低い。

  

「浦戸で死人だ!」

 漁師の弥三郎の事である。


てのひらに金の砂が握られていた」

「昼夜の別なく海底から半鐘の音がする」

 と、漁師が口々に言い始めたのが、ご城下にも届いた。


 町の治安を預かる奉行所としては、放っても置けずに、早雲新之助に白羽の矢を立てたのだった。


「お広さん、これから浦戸に行かなくちゃならないんだが、また弁当を頼めるかい?」

 …

 浦戸とは現在の浦戸湾の事で市内から約12キロの場所にある。

 土佐湾の支湾のひとつである。浦戸湾内には高知港があり、湾口には高知新港がある。

 …


「雲の旦那、浦戸にはにはウチが懇意にしている網元が居りまして、一緒に行けば、海でのお調べなら何かとお役に立てると思いますが…」


「そりゃあ、助かる!!」

 お広の提案に雲は短い返事で応じた。


 そしてお広もすぐに支度を始めた。

「いやいや、お広さん、紹介だけしてくれたらいいよ」

「いやいや旦那、漁師はへそ曲がりが多いから、知らない人には喋りませんよ~

 最悪殴りかかられるる事もありますよ~」


 軽口を叩くお広の後ろから、お雛が板場から顔を出し、雲の弁当を差し出しす。

 手拭で手を拭きながら駆け寄る。

「お広さん、海ですか?」

「海だよ、浦戸湾。

 あんたは留守番と言いたいところだが、耳と目は多い方がいいってね。ついておいで」


「へいっ!この間の『いの町』行きの三人組の復活ですね」

「生、云うんじゃないよ。この娘は」


 お広の平手を避けたお雛を見た雲の旦那は笑みが溢れる。

 そして『三人組』は、日が傾こうかとしている頃に浦戸へ着き、先ずは浜に向かう。


 翌朝の漁の準備に、港は落ち着かぬざわめきに満ちている。

 櫓の音が重なり、潮の匂いは草いきれと混じり合う。


 遺体はすでに寺へ運ばれ、浜には人だかりだけが残っていた。

 浜には網元の黒潮漁撈ぎょろう左衛門の姿もあった。

 …

 網元とは漁網や漁船を所有する漁業経営者の事で、漁師たちを束ね、漁をする権利を持っている。

 …

 網元の屋敷で挨拶を済ませたお広は、雲の旦那を前に進めて、

「こちら、奉行所の与力・早雲進ノ介様でございます」


 網元は腕を組み、愛想笑いを浮かべる。

「十手持ちは、さっき帰ったぜ。もう一通り、お調べは済んでる」

 その顔は晴れない。

「怖いのは、海より人の心だ。皆、怯えて漁に出ようとせん。この調子じゃ、明日の朝、網も上がらん。

 こんな日が続けば、浦の暮らしは干上がっちまう。


 港の衆は死人が出た事より、金の砂に怯えている。

 金の砂は大地振の前触れと言われ、古老達から口伝で伝えられている」


 お広は静かに頷き、雲の旦那に視線を送る。

 雲は顎を撫で、少し考えてから。

「……今夜、確かめるしかないね」

 お広が目を細めて問いかける。


「確かめる?」

「つまり、海に出るってことさ」

 その言葉に、お雛が大げさに手を振った。


「ええっ、いやですよ! あたし泳げませんってば~!」

 雲の口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「泳がなくていい。ジャンの正体を見に行くだけだ。

 ジャンの目的が何かを見定めなくちゃね。

 何かを封じているのかもね?」


 水平線を見つめた『雲』の眼には何かが見えているのだろうか。

 剣を極めた者にしか見えないものが。

 外では、風がざわりと海の匂いを運んできた。

 夜の海が、三人を待っているようだった。


 03 月影の封

 夜が来た。

 湾は静かに呼吸を変え、吐いていた息を吸い込むように潮が引き始める。

 雲の旦那は網元と話をしており、お広は船の手配と灯の準備をしていた。


 お雛はつつみに腰掛け、海面を見下ろしている。

 夜の浦戸湾は昼間と違って静けさに包まれて、走り回る子供の声や人々の威勢の良いざわめきも聞こえない。


 死人の様だ… お雛はそんな心が起き上がってくる。

 ふいに、お雛の視界の真ん中で、海が淡く光った。

 青白い灯が一つ、二つ。


 浅瀬の小石が、月明りを抱え上げて見せるみたいに弱々しく、だが確かに燃えている。


「……きれい」

「月影のふうって、知ってるかい」

 背後からお広の声にお雛は振り向いた。


「海が秘密を隠すとき、夜の月を借りて蓋をする。そう言い伝えられてる。

 封じ目は光る、忘れてもらうために」


「忘れて、もらう……」

「忘れられないものが海にあると、人は海を憎むからね」


 お広は小舟の綱を引き、雲の旦那が戻るのを待った。

 ほどなく準備が整った、雲がやって来て、短く言う。

 

「御用船らしい。

 昔、藩が幕府の荷を預かったとき、湾の中央で沈んだ。

 記録は消されていたが、古い帳に残っていた。……積荷は、金塊」

「なんで、塊が砂になるの?」

「きっと、浦戸湾の荒い海流でこすれ合って、細かくなったんじゃねえの!」

 雲が説明するが、自信は無さげだ。


「行こう」

 照れを隠す様なその声に、お雛の心の鼓動が強く打った。  

 お広が舟に足を掛け、雲がかいを握る。


「お雛、怖けりゃ残っててもいいぜ」

 心配した旦那の声に、


「い、行きます!

 海は初めてなの〜

 夜なのが残念ですが、お役目なのですからね!」

 いっぱしの役人気取りで、強がっている、子供のようだ。

 その声が合図かのように漕ぎ出した。


「雲の旦那、剣と一緒で船の扱いもお上手なんですね」

 お広の声に

「土佐で御用をするんなら、この位出来なきゃね」

 船は月明かりに照らされた、浦戸の海に漕ぎ出していく。

 …

「この辺りが弥三郎が昨夜漁をしていた場所らしい」

 櫓を上手に操りながら雲が口を開く。


 漆黒の海面を見つめる三人。

 吸い込まれそうな気持ちが湧いてくる。

 怖い。


 お雛は直感的に感じていた。


 04 孕みのジャン

 その時、「ジャン!ジャン!ジャン!』

 半鐘の音が鳴り響いた。


 小舟の三人は一気に身構える。

「来た!」

 雲の旦那の声を切掛けにしたかのように、海が揺れだした。


「きゃあ~」

 その瞬間、海が鳴った。


 『どん』と腹の底を揺さぶるような音。

 潮が逆巻き、舟が跳ねた。


 「お雛、掴まれ」

 雲の声が、風に消される。

 指先が舷側ふなべりを掴んだが足もとが崩れた。

「ドボン!!」

 冷たい闇に呑み込まれるお雛!


 『息が、できない、溺れる!』

 肺に海水が入り込み、耳の奥が鳴る。


 光は遠く、音は消え、ただ自分の鼓動だけが響いていた。


 声にならない声を吐くが胸の奥で何かが裂けた。

 熱い。

 冷たい水の底なのに、灼けるように熱い。


 金の粒が、浮かび上がる。

 瞳の奥で光が弾け、髪が波に散る。

 白い指先がしなやかに伸び、爪が鋭く光を返す。


 背に風のような衝撃が!!

 尾が形を変え影を成す。

 小袖の裾が裂け、金糸の文様が生き物のように動いた。


 虎が、目を覚ました。

 金色の毛並みが月光を反射するかのようだ。

 瞳は、炎でも氷でもない。

 ただ真っすぐな意思。


 05 海底の虎 

 沈んでいく。

 海面を天空に睨みながら、手を広げて降りてゆく。

 怖さはない、何故だろう?


「温かい」

 冷たいはずの海水に温もりがある。

 何故か母の記憶が蘇ってくる。


 ……

 どの位沈んだだろうか?

 海底に船の残骸が姿を見せた。

 その時、人の声がした。


「こんばんわ、お雛ちゃん」

「誰?」

 声のする方を向くと、そこには少年の姿が。


「お雛ちゃん、やっと来たね。

 待ってたよ、

 僕は昔から『孕みのジャン』と呼ばれているんだ」

 まるで心の奥を叩くように、低く、優しく。


 周囲は光の遠い仄暗ほのくらい世界。

 呼ばれている。

 誰かが、あたしを待っている。

 海底には船の輪郭が浮かび上がってきた。


 ……

 古びた木の船には藤の花の彫り物があり、それはどこか手の模様に見えた。


 甲板の中央に、古い箱が鎮座している。

 縄が切れ、隙間から淡い光が漏れている。


「お雛ちゃん、この箱が君が呼ばれた理由だよ」

 ジャンの言葉も耳に入らない。

 吸い寄せられるように近づいていく。


 指先が箱に触れると、

 冷たさの中に、人肌のような温もりがあった。


『おかえり…』

 蓋がゆっくりと開き、白い光が海中に広がる。


 中には、人形ひとがたたたずんでいた。


 「……お母さん?」

 涙のような泡がこぼれ、消えていった。

 確証は無い。

 触れた瞬間そう思った。

 船と一緒に沈んだ箱。


 お雛が人形を抱き上げようとすると、強い抵抗が走った。

 手のひらが弾かれる。


「触れない……」

 念が強すぎる、想いが絡まりすぎている。

 けれど、心の奥に、もう一つの声が聞こえた。


『あなたなら、れられる。

 お前の血はお前を守る為の物だから。


 ……呼吸が続かない、胸が焼ける。

 しかし、瞼の裏におぼろげな母の記憶が映し出された。


 目を閉じ、両腕を伸ばして抱き寄せた。

 その時、光が爆ぜた。


 冷たい海の中で、ただ一点、春の陽だまりのような温かさ。

 人形の指が、微かにお雛の袖を掴んだ。

 抱きしめると、心臓の音が二つに重なった。


 船体が軋む。

 箱が崩れ、泡が一斉に立ちのぼる。

 ……

 同時にお雛の体が明るい光に包まれて、浮かび上がり始める。

 上へ、上へ。

 月の光の差す方へ。


 06 人形の夢

 抱えた人形は軽く、まるで水の中の夢のようだ。


「やっと会えて良かったね。お雛ちゃん。

 この人形に宿る想い。

 その力で僕も姿を貰ったんだ。

 でも、それも終わりだよ。

 役目が終わったんだ。

 本当に良かったね」


 ジャンの声、寂しくも温かい響きを持つ。


『ジャン』

 海から呼ばれた。

 

 海底に振り向くと、崩れた船の影が遠ざかっていく。

 白い光の中で、誰かが微笑んでいるようだった。

 それは母か、それとも月か。

 お雛は目を閉じた。

 温かい。怖くない。

 まるで母の乳房に包まれているかの様な幸せな気持ち。


 『此処にいる理由』が、ようやくわかった気がした。

 この想いを、地上へ運ぶため。


 最後の泡が弾け、静寂が訪れた。

「お雛ちゃん良かったね。さようなら」


 次の瞬間、白波の間からお雛の姿が浮かんで来た。

 胸に人形を抱き、穏やかな寝顔で。

 舟を操るお広と雲は急いで手を伸ばした。


 「お雛!」

 お広が抱き寄せると、人形がひととき光り、やがて静かに閉じた。

 潮風の中に、母のような声が微かに響いた。


 ――ありがとう。もう封は解けた、娘の元に帰れた。

 夜の浦戸湾に、半鐘の音が木霊した。

 お別れかの如く。

 ただ波のきらめきが、月影の封のように、穏やかに揺れていた。


 07 暁の港

 舟は浦戸の港へ滑り込む。

 東の空が白み、波が銀に染まる。


 お雛は甲板の上で人形を抱きしめていた。

 濡れた髪が風に揺れ、微笑みが浮かぶ。

 その顔には安堵と、どこか母の面影が宿る。


「……まるで母親に抱かれている子の顔だね」

 お広の声に、雲は静かに頷いた。


 舟が岸に着き、三人が足を掛けた、その瞬間。


 **ピシィンッ!**

 乾いた音が夜明けの港を裂いた。


 ムチだ。

 黒い縄のようなそれが、腕の中の人形に絡みつく。

 お雛が目を見開くより早く、縄がギリギリと締まる。


 「お雛ッ!」

 お広が叫ぶ。

 雲は鯉口を切り、刃が光を返した。


 波の向こうに一艘の小舟。

 舳先に立つ女、お不二。

 風に髪をなびかせ、冷たい眼差しでお雛を射抜いている。


 「それを渡してもらうよ!」

 ムチが鳴り、海鳴りを断つ。

 縄がぐっと引かれ、人形が持ち上がりかけた。


 **弾けた**


 鋼線のようなムチが、火花を散らして跳ね返る。

 お不二が身を仰け反らせ、舷に手をつく。

「な……何だと!?」


 お雛の腕の中で、人形が淡く光を放っていた。

 海霧のように柔らかく、それでいて誰も寄せつけぬ気配。

 温もりが波の上にまで伝わる。


 お広が一歩前に出る。

「この人形には、まだ想いが残ってるんだよ。

 お雛以外には触れられない」


 お不二は舌打ちを一つ。

 しかし、すぐに肩の力を抜いた。


 「……なるほどね。そういうことなら、仕方ない」

 口元に微笑を浮かべ、目だけが鋭く光る。

 「預けておくよ。その娘に。――今は、ね」


 舟の櫓が音を立て、朝靄を切る。

 お不二の影が徐々に遠ざかる。

 お雛は胸の人形を抱いたまま、静かに頭を下げた。


 港を包む空気が、ふっと緩む。

 雲が刀を納め、お広が小さく息をつく。

 東の空が朱に染まり、波間が金色に揺れた。


 お雛の頬に朝日が当たる。

 その光はまるで母の手のように、やさしく、温かかった。


 08 余韻・ひかりの鼓動

 お不二の舟が朝靄の向こうに消えたあと、

 港はようやく静けさを取り戻した。

 だが、お雛の胸の中では、まだ“何か”が脈打っていた。


 人形を抱く腕に、ほんのりと温もりが残っている。

 海の底で抱きしめた時と同じ――

 肌に触れた瞬間、心臓の音が重なったあの感覚。


 (おかあさん……)


 声には出さない。出せない。

 けれど、胸の奥に浮かぶ面影は、確かにそこにあった。

 いつもより深く息を吸うと、潮の匂いの奥に、

 わずかに紙と花の香りが混じっている気がした。


 お広が寄り添うように近づき、そっと肩に触れる。


「大丈夫かい、お雛」

「……はい。なんだか、あたたかいんです」

 お雛は胸もとを見下ろしながら微笑んだ。


 人形は眠るように静かだ。

 けれど、その沈黙は冷たいものではなく、

 抱いていた母の腕の重みを思い出させるような、

 やわらかい沈黙だった。


 雲が少し離れたところで腕を組み、

 朝日に目を細めながらぼそりと言う。


「……その人形、お前が持つのがいちばん良いのかもしれん」

「わたしが、ですか?」

「触れられるのはお前だけだ。それはもうえにしというやつだろうよ」


 縁――。

 その言葉が胸に落ちた瞬間、

 お雛の腕の中の人形が、ふっと軽く温度を上げた。

 まるで返事をしているように。


 朝日が港全体を照らし、

 波が黄金色に揺れる。

 お雛は目を閉じ、そっと人形の額に頬を寄せた。


 ――海の底で感じたあの鼓動が、まだここにある。

 忘れないように。

 失わないように。


 彼女の胸の中で、静かに、確かに、灯がともっていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虎吹雪ちろり @kata_sukasi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画