第2話 川音に漂う白き紙
1.朝の
江戸中期、土佐藩の城下町。
春の朝の鶴喜楼には、炊き立ての飯の香りと、鍋に立ちのぼる湯気が満ちていた。
女中たちが立ち働く中で、ひときわ元気な声を上げているのは『
「へいっ、お膳の支度できやした!」
だが次の瞬間、膳の角を柱にぶつけ、汁椀が傾いた。
「ひゃあっ!」
慌てて受け止めるが、先輩女中の冷やかしが飛ぶ。
「またお雛かい、朝から騒がしいこと」
いつもの朝の一時、そこへ帳場に現れたのは雲の旦那、『
藩の御用を仰せつかる土佐奉行所の与力で、鶴喜楼の常連だ。
とは云っても、座敷に上がれる程の懐具合の持ち主ではなく、表の座敷がいつもの席だ。
「雲の旦那、お早うございます」
主のお広が見かけた途端に元気な挨拶を送る。
「お広さん、夕べは大変だったらしいね」
これは藩の若侍たちがこの店で大立ち回りした事を云っているのだ。
もう町の隅々にまで知れ渡っている。
侍の面子が立たない事態だが、人の口に戸は立てられない。
「若侍たちは大目玉を食らって謹慎しているよ」
「でも大したけが人が出なくて、よございました」
お広の笑みに場が和む。
「いやね、弁当の握り飯をお願いに参上したんだよ」
「あれま、ご旅行ですか?」
「ああ、山ノ内様の『御用紙の漉き出しを検分せよ!』とのお達しがあって、これから『いの町』へ出立しなきゃならないんだ」
いの町、紙漉き、その言葉を聞いて、お広は目を輝かせた。
「いの町!
雲の旦那!
実は、和紙は日ノ本のお料理に欠かせぬ品でございます。
懐紙や紙塩など、多きに渡って使われております。
私も一度、紙漉きをこの目で見たいと思っておりました。
山ノ内さまのお口にも入るお料理を、より良く仕立てるためにも、漉く所を拝見したいのです」
言葉に熱がこもり、周囲が思わず息をのむ。
「紙漉き場は藩の御用所で、女の身で簡単に立ち入れる所じゃないよ」
「そこを……雲の旦那、なんとかお頼み申せませんか?」
お広は深々と頭を下げた。
雲は苦笑して顎を撫でる。
「この店は藩の重鎮が足繁く通っている店でもあるし、お奉行から話をして頂こう!」
そう云って、雲の旦那は踵を返して、足早に奉行所に戻って行った。
…
土佐和紙(とさわし)は、高知県(旧 土佐国)で作られる和紙。
福井県の越前和紙、岐阜県の美濃和紙と並び、三大和紙に数えられる]。
江戸時代から土佐漆喰、生糸と並び「土佐三白」と称され、全国に出荷された。
927年に完成した延喜式に土佐の紙の最古の記録が残るが、当時土佐から上納された紙はまだ稚拙であり、上流階級が普段使いする程度のものであった。
土佐の紙づくりが広く知られるようになったのは中世末から近世にかけてであり、国分(南国市)の久礼田紙や成山の土佐七色紙などが発展した。
…
半刻ほどして、雲の旦那が帰って来た。
「お奉行に話した所、昨夜迷惑をかけた手前もあるし、何しろ山ノ内様を始め藩の重鎮が通う店であり、身元もしっかりしているから良かろうとの仰せだ。
ここに来ても精進を忘れないとは、見上げた心意気だとのお褒めの言葉も頂いた!」
「ありがとうございます、雲の旦那!!」
「お雛、あんたは土佐に来てから町中しか見たこと無いだろう。
一緒に行くよ!
見聞を広める 良い機会と思い、お雛を同行させる。
二人は旅の支度をして、雲の旦那の握り飯を準備した。
お城から『いの町』まで2里半ほど(約10キロ)の距離で、歩けば2時間くらいだ。
お雛にとっては初めて見る景色、仁淀川、雄大な山々。
こうして三人は、仁淀川沿いの道を歩いて いの町へと向かった。
道中、川の水は空の青をそのまま映し、眩しいほどに透き通っていた。
「川が……歌っているみたいです」
お雛が呟くと、お広は
「その歌こそ、紙を生む調べだよ」と答えた。
仁淀の川風を吸いながら、いの町へと足を進めた。
2.いの町 ― 紙漉き場とお不二
いの町は、仁淀川の清流に抱かれた紙漉きの里である。
町に入ると、まず紙漉き場へと向かう。
ここは厳重に警備されており、紙漉きの技術が他への流出を防いでいる。
一方、雲の旦那は紙屯所へと向かい、役人たちと検分の段取りを話し合っていた。
その間、二人は案内されて紙漉きの見学をする。
白い繊維が水に漂い、幾度も揺り動かされては、一枚の和紙が生まれてゆく。
「まるで川そのものが紙を生んでいるよう……」
お雛は目を丸くして見入っている。
そこで案内役を務めたのが、お不二という若い女であった。
「こちらでは土佐
仁淀川の水の冷たさと澄み具合が肝心なのです」
落ち着いた声に、どこか艶を含んでいる。
「お不二さん、紙漉きのことはなんでも知っていそうですね」
「いいえ、まだまだでございます。
ただ、川を見ておりますと、教わらずとも紙の白さがわかるのです」
お雛は思わず感嘆した。
お不二の瞳は澄んだ仁淀川の色をそのまま映している様に見えた。
3.天神宿場の夜
日も暮れて、一行は天神の宿場で足を止めた。
お雛とお広は旅籠に泊まり、雲の旦那は屯所に詰める。
驚いたことに、その旅籠で女中を務めていたのは、昼間に案内をしてくれたお不二であった。
「おや、またお会いしましたね」
「これは
お広は一歩引いて二人を眺めながら、心の中で何かを測っている様子であった。
夕刻になり、夕餉が運ばれてきた。
お膳には、仁淀川で取れた鮎、キクラゲの和え物など、いの町で取れた地の物。
そして、地の酒、文旦、池川茶。
近隣で取れた心尽くしの料理が並ぶ。
それを腹いっぱい賞味するお雛。
宿の裏手、川のせせらぎを背にした露天の湯。
夜空には無数の星が散り、仁淀川の水面に映って瞬いている。
湯気の立つ湯船に、並んで肩を沈めるのはお広とお雛。
川風がほのかに肌を撫で、
「ふぅ……働き詰めの身には、ありがたいもんだねぇ」
お広が肩をほぐしながら言うと、お雛は照れたように笑った。
「お広さんと一緒に、こんなにのんびりするの、初めてかもしれません」
湯気に包まれながら、お雛はぽつりと口を開いた。
「……あたしには、父も母もいません。母の顔も、おぼろげにしか覚えていなくて。
物心ついたときには、もう独りで……」
その声は、湯に落ちる雫のように小さかった。
「土佐の前は備前に居たんですが、どこで生まれたかは分からないんです。
山や川の景色は懐かしいのに、母の声だけは、どうしても思い出せなくて。
……それが、少し、さみしい」
星を仰いだ瞳が潤む。
お広はしばし黙り、やがて穏やかな声で応えた。
「人はね、忘れるもんさ。
忘れたことを気に病むよりも、今をどう生きるかの方が、大事なんだよ」
お雛は小さく頷き、微笑んだ。
「はい。……でも、鶴喜楼に来てからは、皆さんが良くしてくれて。
叱られることも多いけど、楽しいんです。お広さんは……その……母みたいで」
言葉を濁すお雛の頬が赤く染まる。
湯の熱のせいか、それとも胸の内のせいか。
お広は目を細めて笑った。
「母かどうかは知らないけどね。
ま、あんたのことは放っておけないのさ。
大変だけど、嬉しいもんだよ」
二人の笑い声が湯気に溶け、仁淀川の川音に重なって流れていった。
風呂から上がった2人、そしてお不二は庭に佇んでいる。
満天の星空を仰いでいる。
「……星が川に映って揺れている」
「ここは御城下とは違い、時がゆっくり流れるのです。仁淀川があるおかげで」
隣に立ったお不二が囁く。
お雛は思わず胸が温かくなるのを感じた。
4.御用紙の運搬
翌朝。
いの町は早くも川風に白い靄が立ちのぼり、紙師たちが御用紙の荷を整えていた。
お雛とお広も宿を出る支度にかかる。
「お雛、帯をもっときゅっと締めな。坂道を登るんだ、緩んだら歩きづらいよ」
「へい……ん、ちょっと苦しいです」
「苦しいくらいが丁度いいんだよ」
お広は手早く結び直し、荷籠を背に渡した。
お雛は帯を押さえながら、ふと思い出したように声を上げる。
「そうだ、お土産! 鶴喜楼の皆さんに何か買って帰りましょうよ」
「まったく……あんたは荷を担ぐ前に増やすことばかり考えるね」
「でも、お世話になってますから。
女中仲間には小さなお守りでも、板場の皆さんには……そうだ、川魚の干物なんてどうです?」
通りに並ぶ市の露店をのぞくと、仁淀川でとれた鮎を干した串、紙細工の小物、藍染の布端切れなどが並んでいる。
お雛は夢中で見比べては、あれもこれもと目を輝かせる。
「この折り紙、裏手の彩姐さんに似合うかも……」
彩姐さんとは店の裏手に住んでいる、何をやっているのか分からない大酒飲みの女だ。
鶴喜楼の奉公人とは仲が良い。
「姐さんは紙より酒の方を喜ぶだろうよ」
「あっ!!」
お広が嬌声を上げた。
「久礼があるじゃない。
ここから西の方にある酒蔵のお酒だけど、美味いって聞いた事があるよ」
「じゃあ、それにしましょう!」
「じゃあ、この鮎は板場に……あ、でも帰るころには匂いが……」
お広は溜息をつきながらも、結局いくつか選んで買い求めていた。
「はい、お雛。これで勘弁しておくれ」
「えへへ、ありがとうございます!」
お雛の顔は、子どものように嬉しさで輝いていた。
こうして土産を抱えつつ一行は合流し、御用紙を載せた荷駄の列に加わった。
雲の旦那が声を張る。
「宇治峠までは気を抜くな。怪しい者が出るとの噂もある!
荷を守るは土佐の面目に関わる!」
人足たちは緊張の面持ちで頷き、列はゆっくりと峠道へと向かっていった。
5.宇治峠の襲撃
荷駄の列は、峠の坂を黙々と登っていた。
朝方の柔らかな陽射しはすでに山影に隠れ、峠の空気は湿り気を帯びている。
山鳥の声も遠のき、ただ人足の
「もう少しで頂きだ、気を抜くな!」
先頭を行く雲の旦那が声を張り上げ、背筋を伸ばし腰の大小へ手を添えたまま進む。
頂上近く、道が大きく曲がるところに差しかかった、その刹那!。
藪を割って怪しげな影が飛び出した。
刃が陽を反射し、鋭い声が峠に響く。
「御用紙を置いていけ!」
驚きの声を上げる人足たち。
だが次の瞬間、人足のうち四人が荷縄を投げ捨て、にやりと笑って隠し持っていた刀を抜いた。
「こいつら、仲間……!」
雲の顔が険しくなる。
早雲新之助、土佐御家流の『
さらに居合の『
賊と切り合う事も多い与力にとっては、初太刀の速さが命を守る!
そして、御用紙を守る様に立ちはだかる。
お広はお雛の前に立ち、懐から守り刀を引き寄せる。お雛の胸に冷たい戦慄が走った。
その頭上の高い岩場に立つ影が一つ。
なんと、お不二であった。
白い装束に身を包み、風を受けて袖をはためかせる。
「――今だよ!!!!」
低く、しかしはっきりと響いたその声が、賊たちの合図となった。
「ふん、やはり来おったか……!」
雲は一歩踏み込み、刀の鯉口を切った。
金属同士が乾いた音が抜き打ちの気迫を生み、辺りを包む。
静寂を裂くように、峠の戦いの幕を開けた。
雲は奉行所の与力ゆえ、腕は立つ。
が、相手は盗賊として踏んでいる場数と多勢に任せた余裕を見せている。
初太刀の抜きつけで賊に傷を負わせたが、そこからは防戦一方となっている。
そうする内、一人が抜いた刀をギラつかせて、お広とお雛に迫る。
お広は帯に差した短刀を抜き、お雛の前に立ちふさがる。
「隠れてなさい!出るんじゃないよ!!」
身を挺して守るお広。
後ろで震えているお雛。
賊の一振りがお広を襲う。
かろうじて受け止める。
刃のギラツキが後ろのお雛を眩く照らす。
その時、お雛の体に冷たい線が走る。
耳の奥に獣の唸りが響き、視界が金色に染まる。
川霧が吹き上がるように白い紙片が舞い、少女の瞳に金砂が散った。
指は爪に変じ、髪は風にざわめき、背に影が尾を描く。
淡い光に包まれ、少女は幽玄の虎へと変わった。
途端に雛虎は空に舞い、着地の前に賊の首筋に手刀を入れる。
強さは感じなかったが迫って来た賊は膝から崩れ落ちる。
次!
防戦一方の雲!その前の賊に向かう。
金色の髪をなびかせた姿が風の如く襲いかかる。
賊はこちらを見定める前に首を撫でられ昏倒している。
瞬きの間合い。
最初の賊が刀を振り下ろすが、
虎は一閃、爪で刃を弾き飛ばし、男を谷側へと突き飛ばした。
三人目の突きを
刀は宙を舞い、草むらへ消えた。
四人目が背後から斬りかかるが、虎は振り返りざまに打ち払う、見えない尾がある。
肩を掴んで地に叩き伏せる。
打ち倒された賊は恐怖に駆られた。
黄金の瞳に睨まれた途端、体中の力を吸い取られた。
虎の咆哮が峠に轟く。
蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
お雛は力を使い果たし、膝を折った。
肩で息をしている。
残ったのは唖然としている雲だけだった。
「大丈夫!お雛」
駆け寄るお広に、
「大丈夫です。
今回は虎の時間が短かったから…」
答えたお雛はゆっくり立ち上がる。
それを見下ろしている女、お不二。
不敵な笑みを浮かべ後ろの藪に消える。
が、消える前に声が残る。
「お雛!!!私にももう一つの名前があるんだよ。
「
藪の中に姿を消した。
8.余話
逃げた人足を呼び戻し、『いの町』の屯所に走らせ役人と、新たな人足を連れてこさせ、ご用紙の運搬を再開した。
お雛とお広は荷車の後ろに乗り、揺られて、お雛は足をバタつかせながら、楽しそうに帰路に着く。
「雲の旦那、さっき見た事は内緒でお願いします」
お広の言葉に
「云ったて信じて貰えないよ」
にこやかに笑うだけだった。
御用紙は無事に城下へ運ばれた。
人々は「川風が賊を退けた」「白い光が峠を守った」と噂した。
だが真実を知るのは、お広とお雛、そして姿を消したお不二だけである。
仁淀川は変わらず清らかに流れ、夜には満天の星を映していた。
お雛の胸には新たな名が刻まれる。――
やがてその名は、密やかに人々の口の端に上ることになる。
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