十年の帝国 ―甘美な針―十年の帝国Ⅱ ― 愛の遺伝子
奈良まさや
第1話
第一章 母セラの十年(2045〜2055)
1. 影として生まれ、蜜として恐れられる
2045年、東京。
突如現れた「蚊人間」は、人類にとって奇異であり畏怖の対象だった。
見た目はほぼ人間。だが彼らは一年で成人し、寿命はわずか十年。老いの過程なく、ある日突然、針が折れるように衰え、死に至る。
人差し指から血を吸い、中指からは薬剤やビタミン、そして微量の脳内麻薬を注入できた。
蚊人間の中でも有益な物質を体内で精製できるのは人口の一割にすぎない。
彼らの性交はさらに危険だった。
人間と交われば、常人の何倍もの強烈な快楽をもたらし、相手は抗えぬ中毒に陥る。
政府は「人間と蚊人間の性的接触を厳罰に処す」法律を制定し、違反者は双方とも重罰となった。
社会的に危険視された蚊人間は都市を追われ、山間部で林業や鉱山の下働きに従事させられた。
「人間の影で労働する存在」――それが彼らの立場だった。
2. 戦争と評価の揺れ
転機は2050年。沖縄が隣国から攻撃を受け、2年に及ぶ戦火に包まれた。
自衛隊は日本軍へと改編され、総力戦となる。国家は大量の蚊人間を前線に送り込み、人間と肩を並べて戦わせた。
敵の血を吸い情報と体力を奪い、味方兵士にビタミンと鎮痛薬を投与し、時に快楽で恐怖を薄めた。彼らは前線で散った。
その功績は称えられ、「日本を救った英雄」と祭り上げられた時期もある。
だが評価は表層にとどまる。日常へ戻ると、病院で「投与」を繰り返した患者が依存に陥り、工場で共に働いた同僚がある朝突然に衰弱して見つかる。
便利で危険――「戦争では英雄、日常では脅威」。それが国民の共通認識になった。
3. セラの野望
そのなかで、未来を作り替えようとする者がいた。セラ。
都市の病院に潜り込み、末期患者の痛みを和らげ、荒れた兵士に短い休戦の甘さを与え、「恩人」と呼ばれる顔を身につける。
そして確信する――人間は快楽と美に抗えない。毒を恐れても、同じ針から蜜を与えられれば、やがて自ら腕を差し出す。
セラにとって「進出」とは武力ではない。「依存」と「感謝」を同時に植えつける支配だった。
政治家や軍人の血から読み取った秘密を同胞へ共有し、小さな勝利を積み重ねる。
4. 運命の女
2052年、沖縄戦後の「蚊人間功績報告会」。
拍手と罵声が交錯する壇上で、セラは代表として演説し、ひとりの若い女性と目を合わせる。
厚生大臣の娘、佐藤真知子、25歳。黒髪を束ね、質素な服装に凛とした背筋。
彼女は叫ぶ。「蚊人間……あなたたちを、このまま人類にのさばらせはしない」
その憎悪は、正義感だけではない深さを帯びていた。
真知子の母は、かつて蚊人間に救われ、やがて依存の果てに衰弱死した。
二つの小さな刺し痕を残して。
――人類を危険にさらす蚊人間を討つ。彼女は胸に誓った。
セラは冷笑し、すれ違いざま、彼女の手首に針をかすめさせ、血の温度と情報を覗く。
そこに刻まれていたのは「激しい怒り」と「純粋な誠実」。
セラは決める――この女の遺伝情報を、未来の息子に刻もう。憎悪と愛が絡み合う“呪縛の鎖”を。
寿命の影が近づく頃、セラは1歳の息子に遺言を残す。
「人間は、美と快楽に弱い。刺すときは与えるふりをして奪いなさい。お前が私たちを王にするのよ」
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