第三部 蛇足
成人式はひとりで帰った。
もちろん、その後の同窓会や二次会には参加しない。ぼくは式が終わるなり、その古びた公民館をすぐさま後にした。
孤独だったわけではない。中学の卒業式以来、およそ五年ぶりの再会を果たした数人の男の子たちとそれなりの会話をしたし、記念に写真の一枚や二枚も撮った。気がする。
けれどもそんなことは、ぼくにとっては重要ではなかった。なぜなら、式の最中、あのひとが、ぼくの斜め前の席に座っていたからだ。
恐らくそれはただの偶然なのだろう。誰の意図も介在していない、ただの偶然。神様や運命のイタズラなんてこともありえない。正真正銘、ただの偶然だったのだ。なぜって、それは神様も運命も、ぼくにイタズラをするほど関心を寄せていないのだから。誰しも、イタズラというのは自分の興味のある相手にしかしないものなのだから。
だとしても、この偶然はぼくの心臓に悪い。どのくらい悪いって、それこそ終わったはずの物語の続きを、もう一度求めてしまいたくなるほどに。
ぼくとあのひとの物理的距離が近いことには、幸いなことに周囲の誰ひとりとして気がついていないようだ。いや、そもそも、これこそまさに誰もぼくのことを気にしていない証明だろう。誰もそのことを覚えていないし、関心もないのだろう。
だから、斜め前の席で姿勢よく座り、壇上で話す大人たちの話に静かに耳を傾けているあのひとの、その赤い晴れ着の襟元からのぞくほっそりとしたうなじを見つめ、ぼくはひとり語る。
「やぁ、ごきげんよう。お久しぶりですね。ぼくのこと、覚えていらっしゃいますか? はい、そうです。ぼくです。あなたが小学四年生の頃、ほんの少しだけ仲よくしていたあのクラスメイトの男の子です。ほら、一緒に校長室に、『枕草子』の暗唱をしに行ったでしょう。はは、懐かしいですか? 懐かしいですね。たった十年前のことなのに、もう何十年も前のことのようですね。それとも、まるで昨日のことのようですか? 十年といえば、ぼくたちのこれまで生きてきた時間の、丁度半分ですね。はは、なんだかおかしいや。え? あなたのこと? もちろん覚えていますよ。忘れるわけないじゃあないですか。だって、あなたですよ? ぼくはこの先の人生、何があってもあなたのことを忘れるはずがありませんよ。なぜかって? ははは。実はね、ぼくはあの当時ずっと、あなたのことが好きだったのですよ。あなたもとっくに気がついていたかもしれないけれど……。えぇ、やっぱり気がついていましたか。はは、なんだか恥ずかしいな。はい、はい、そうです。ぼくはあの頃、あなたのことが、それはもう狂おしいほどに好きだったのです。忘れるわけないじゃないですか。それにあなたは、ぼくが人生で初めて心の底から本気で好きだと感じた女の子だったのですから——」
もちろん、あのひとには一言も声をかけずに帰宅した。
どうせぼくのことなんて覚えていないんだろうし。
偶然——偶然ってヤツは、案外どこにでも転がっていやがる。それはいつも必然的に——、あのひとの母親と会った。彼女は、あのひとが現在、隣県でひとり暮らしをしていることをぼくに教えた。なかなかいい男性とも出逢えておらず、親として娘の将来を心配していることも。あのひとは読書が好きで、家ではよく、ひとり自室で本を読んでいることも。将来の夢は国語の先生らしい。
彼女はぼくに「娘は君とよく似てる」と言ったし、別れ際には「もしあの子が今度こっちに帰省してきた時には、ぜひ連絡してあげてね。あの子も地元のおともだちたちと会えるの、楽しみにしてるから」とも言った。
なんてグロテスクなひとなんだろう。
彼女は、ぼくがあのひとのことが好きだったことを、とっくの昔から知っていたはずだ。
それから数日後、母親——これはぼくの母親だ——が、ぼくに向かって唐突にこんなことを言った。
「そういえばこの前、あの子のお母さんと話したんだけどね——、ってほら、あんたが小中学生の頃好きだったあの子よ。でね、そのお母さんから聞いたんだけど、あの子、成人式の日あんたが会場に来てたことに気づいていたそうよ。ついでに、一緒に来てたあの子のお母さんも気づいていたって。で、お母さん、式が終わってすぐの時にあの子に言ったらしいのよ。『ほら、懐かしい、あの子も来てるよ。せっかくだから、一緒に写真でも撮ってきたら?』って。そしたらあの子、『どうせわたしのことなんて覚えていないだろうから』って言って、結局あんたには声をかけなかったって」
あの日、あの古びた公民館の中で、あのひとはいったいどんな顔をしていたのだろうか。やはり、笑っていたのだろうか。照れくさそうに、はにかみながら、心の底から溢れ出る喜色を隠しきれず、真っ赤な晴れ着を纏った二十歳のあのひとは、笑っていたのだろうか。
ぼくは何も知らない
——了
〈呪縛〉三部作 寒川春泥 @Shundei_1031
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