第11話【日常】

 朝七時四十分。交差点の角で旗を持つ。路面の白線には夜の青がまだ薄く残り、角のアスファルトに星形の薄い塗装が光っている。市の実証だと説明会で聞いた。「ここに立つと落ち着く」というアンケートの結果に合わせ、迷い点を街にも持ち出したのだという。


 黄色い帽子が列を作る。星の上で足並みがそろい、チャイムが四拍で鳴る。いち、に、さん、し。向こうの保護者が同じテンポで旗を上げ、こちらも無意識に真似をする。四拍で手が動き、四拍で子どもが渡る。危なげはない。危なげがないほど、足音は似てくる。


 列の最後の男の子が星から外れて立ち止まる。視線が車道の先に吸い寄せられ、頬の筋肉がほどける。説明会で配られた資料に書かれた「落ち着く」という形容が、その表情にぴたりとはまる。手を振ると、男の子ははっとして星に戻る。戻った瞬間、交差点の音が少し沈み、肩が下がる。ありがとうと小さな声が聞こえ、彼は駆け足で列に追いついた。旗を下ろす手の重さが、朝よりわずかに増える。


 橋の上では高校生が自転車で風を切る。耳の中で呼吸アプリがビープを刻み、ペダルの回転が四拍に合う。ハンドルには帰還石の形をまねたキーホルダー。ふざけたお守りに見えるが、握るとほんの少し呼吸が整う。欄干には小さなステッカーが貼られている。「走らない・触れない・引き返す」。字が丁寧で読みやすい。読みやすさが、効き目の半分を占める。


 通学路の途中、コンビニがガラス戸を開け放つ。入口の脇には、色とりどりのカプセルが詰まったガチャ機が二台。「帰還石チャーム」「星の迷いペイント(ミニ)」とポップが踊り、カプセルの中身には「玩具です」「ダンジョン効果はありません」と太字で書かれた札が入っている。小学生が列を作り、百円玉を手のひらで温めながら順番を待つ。台座の説明文には、さらに小さな文字で追記がある。「迷ったら戻る。苦しいときは話す。」レジで印字されたレシートにも同じ文が出ると、店員が言う。


 一番前の女の子がハンドルを回す。金属の音が四拍に合わせて鳴り、透明なカプセルが丸い口から転がり出た。開けた蓋の中には、小さな星形シールと、指でころがすとひんやりする石のチャーム。彼女はチャームをランドセルの金具に付け、星形シールは靴の中敷きに貼ると言った。母親は笑うが、笑いながら「星は剥がれにくい?」と店員に尋ねる。店員は「水拭きに強くしてあります」と答えて、ガチャ機の横に立てかけた棚を指す。棚には「ミニ帰還スポット(冷感ジェル)」と書かれた新商品が並び、小さな青いパックが星形に抜かれている。額や首筋に貼ると、少し落ち着くのだとポップが保証する。


 八時過ぎの電車は体温の集合体になる。ドア上モニターの下帯に相談ダイヤルの番号が出続け、広告枠には「安全な冒険サラダ」の写真。ボウルの上には結晶片に似せたクルトンが散り、フォークが四拍で持ち上がるような角度で写っている。向かいの席で乳児が泣き、すぐ近くのスマホから同じ音色のビープが三つ、少しずれて鳴る。車内の呼吸が一瞬だけ合い、乳児は泣きやむ。母親は帰還石の形の小物を握り、胸の前で一度だけ押し当てる。音が止まると、視線はそれぞれの画面に溶け、呼吸もばらける。さっきの拍子を、誰も覚えていないふうだ。


 オフィス街の昼。ガラス張りの店に人が流れ込む。サラダカウンターの列で、隣り合った二人が声を落として話す。

「このあいだの迷宮探検ツアー、予約取れた」

「観光型のほう?」

「うん。入り口だけだけど、1/10が2/10になるの見られるらしい。帰還石の写真スポットもあるって」

「写真まであるの」

「あるらしい。四拍の練習してから入るってメールが来た」

 二人は笑い、列の進みを四拍で計り、トングで具材を四回すくう。「オーブの時間貸しやってます」と印刷された名刺を差し出す男が横から滑り込む。片方の女性がスマホを掲げると、装備証明のアプリが赤い枠で画面を囲んだ。レジのカウンターの端に付いている小さなサインポールが一度だけ点滅し、男は「失礼」と笑って名刺を引っ込める。BGMは四拍のループで、音量がほんの少し下がった。


 午後、観光バスが山へ向かう。迷宮探検ツアーのバスは座席ごとに小さな袋が配られていて、そこに視線遮断フードと赤色灯、薄い手袋と耳用のビープが入っている。ガイドは穏やかな声で、三つの約束を繰り返す。

「走らない。触れない。引き返す。」

「落ち着く感じがあっても、それは危険の兆候です」

「帰還石に触れればいつでも戻れます」

 最後にビープを鳴らして四拍の呼吸を合わせ、外へ出る。


 観光型の入り口は遊歩道のように整備され、足元の石に薄く星が描かれている。苔は淡く光って1/10を出し、数歩進むと2/10が浮かぶ。子どもの手が上がり、数字を指さす。ガイドが「学びの進捗です」と説明する。数字が体力や攻撃力ではないことを強調する口ぶりに、どこかで聞いた広報の調子が宿る。

「ここを過ぎると反響が強くなるので、ビープを付けたまま、迷い点の星の上で必ず立ち止まってください」

 ガイドは先に行く前に帰還石の使い方を見せる。磨かれた結晶碑に手を当てると、入口へ戻る細い導線が見える。導線は観光用に太くされ、足元の石は滑らないようザラつきを増してあった。落石防護のネットが頭上に見える。四拍のビープが弱く響き、ツアー客の歩調が自然に合う。数人の肩が下がり、顔が柔らかくなる。落ち着く。落ち着くほど、慎重になる。


 折り返し点でガイドが立ち止まる。

「ここから先は、予約外です。写真だけ撮って、戻りましょう」

 金属の柵の向こう、暗さはまだ穏やかだが、音が少し吸われる。ツアー客のひとりがスマホを構える。シャッター音が四拍のリズムに乗って、橋の下を流れる水音と混ざる。隣の親子が、帰還石の前で並んで撮る。写真の中の帰還石は思いのほか普通に見え、後ろの苔に浮かぶ2/10の数字だけが飾りのように光っている。

 戻るとき、ビープの音色がわずかに変わる。戻り道に入った印だとガイドが笑いで教え、四拍で手を振る。バスに乗ると、座席のポケットにアンケートが差し込まれていた。「落ち着きましたか?」「戻るの操作は簡単でしたか?」チェック欄の最後に小さく、「迷ったら戻る。苦しいときは話す。」の文がある。


 夕方の街にバスが帰る。商店街の角では、朝の交差点に小雨が降り、星形の塗装が濡れて冷たさを増していた。自転車がブレーキを誤り、タイヤが滑る。乗り手は星の上で足を着いて持ち直し、深呼吸を一度して走り去る。大きく息を吐いた拍子が、信号のチャイムと合っている。空の高いところを無人機が小さく通り過ぎ、遠くでサイレンが薄く重なる。誰も見上げない。見上げないことは、慣れの証しで、守り方でもある。


 コンビニのガチャ機には夕方の列ができる。学校帰りの子どもと、仕事帰りの大人が同じハンドルを握る。新しく追加された「探検ツアー限定カラー」の帰還石チャームが当たるかどうか、SNSに写真を上げた者は抽選で割引券がもらえるとポップが約束する。ハンドルを回すたび、金属の音は四拍に寄る。店員がレジで「ビープは消せる?」と聞かれて「設定で音量は下げられます」と答える。完全には消えない。消えない音は、店の外まで薄く伸びる。


 バスを降りた二人は、そのまま「安全な冒険サラダ」の店に吸い込まれる。席に着くなりスマホの写真を見せ合い、帰還石の前で笑っている自分たちにまた笑う。ひとしきり盛り上がった後で、片方が声を落とす。

「最後、ちょっと怖かった」

「どのへん?」

「歩くテンポが合いすぎるとき。楽だけど、自分のテンポがどこかに置いてけぼりになる感じ」

「わかる」

 二人は顔を見合わせ、四拍で水を飲む。笑い合う時間に、怖さも混じる。混じったままでも、大きな問題は起きない。たぶん、今はそれでいい。


 夜の手前、中華屋の出前バイクが角を曲がる。ライダーは信号で止まり、青になっても一拍だけ遅れて動く。鍋を振るリズムが、彼の中の一番古い拍子だ。すれ違いざまに、交差点の星の上で深呼吸をする親子が見える。父親は胸ポケットから小さな袋を取り出し、子どもの首筋にミニ帰還スポットを貼ってやる。冷たさが肌に広がり、子どもの肩が落ちる。旗が上がり、チャイムが鳴る。四拍。街は息を合わせ、合わせすぎない。


 家に帰って靴を脱ぐと、星形のシールが中敷きから少し剥がれかけていた。端を押して貼り直す。糊の匂いがわずかに立ち、指先に冷たさが残る。テレビからは迷宮探検ツアーのCMが流れ、帰還石の写真スポットで笑う家族が映る。画面の隅に相談ダイヤルの番号が常に出ていて、下帯は「見ない・近づかない・引き返す」。音量を少し下げる。部屋の空気は静かになるが、耳の奥に四拍が薄く残る。残った拍に合わせて呼吸を整える。整えると、少し眠くなる。


 窓の外で、交差点のチャイムがまた鳴る。星の上を渡る誰かの足音は、もう聞こえない。聞こえなくても、星はそこにある。明日の朝も同じように光り、同じように落ち着きを呼ぶだろう。便利だ。便利で、すこし怖い。怖さは隠れてはいない。見えていて、それでも人は歩く。歩くとき、四拍で息をする。


 夜はゆっくり降りてくる。星形の塗装は雨粒を弾き、道の端に溜まった水は信号の色を揺らす。無人機は遠くへ去り、サイレンは別の通りに曲がる。ガチャ機はシャッターの内側で眠り、カプセルは透明の中に眠る。明日の朝、またハンドルが回り、四拍で金属音が鳴る。拍子は町内放送にも重なり、登校班の足に重なり、鍋の音に重なる。拍子は、だれかの不安も拾う。拾った不安を、少しだけ軽くする。


 星の上で深呼吸をしてから、寝室の灯りを落とす。暗闇は四拍で膨らみ、四拍で細くなる。眠りの手前で、今日の街が薄くよみがえる。横断歩道、コンビニのガチャ、満員電車、サラダの四拍、ツアーの帰還石、夕方の星。どれも同じ速度で流れ、最後にすっと消える。消えた後に残るのは、呼吸だけだ。呼吸は、今日を越えて明日に繋がる。拍子は、ふつうの顔をして、窓の外に立っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る