第7話【一年後】

 朝の通勤列車。吊り広告には「迷宮体験ウィーク/家族で“安全な冒険”を」の文字が踊る。右隣には厚労省の注意喚起──**迷宮性気道熱(MRH)**の予防とワクチン接種会場の案内。広告の色は明るいのに、字面は慎重だ。


 一年で、日本には百のダンジョンが生えた。政府は迷宮由来機構(MDI公社)を設立し、資源獲得と観光の両輪で運用を始める。ただし門はすべて開かれない。死なないと統計で言える場所だけが、予約制の「観光型」「訓練型」としてオープンする。残りは封鎖だ。ウイルス、毒性霧、反響性眩暈、そして致死性挙動。数字で語るには、まだ荒い危険が多すぎる。



 土曜の午前、千葉の海沿いに新設された「観光型MDI・潮音洞」。入口広場は遊園地のようで、係員が帰還石(結晶碑)の使い方を説明する。

「怖くなったら、触ってください。安全半径に戻ります」

 足元の迷い点は子どもでもわかるように星形で光り、拍が乱れた人のビープをそっと拾い上げる。壁の苔の数字は1/10から始まり、学びの進捗を演出する。進めば2/10、3/10。ガイドは言う。

「走らない、触らない、戻る。三つ覚えて、楽しもう」


 同じ時間、新潟山間のA-39は赤いフェンスに囲まれ、自衛隊と警察の合同警備。白いテントでは陰圧の簡易診療所が動き、迷宮性気道熱の疑いのある作業員が検査を受けている。封鎖区域の看板ははっきり言う。

「この迷宮は開きません。近づかないでください」

 言い回しは冷たいが、冷たさが必要な場面はある。ここでの落ち着きは毒だ。



 桜ノ宮は、県庁からMDI公社・広報統括室に出向になった。机の上には、観光型ポスターの校正刷りと、封鎖型の警告掲示の案が重なる。温度差は大きい。句点の場所ひとつで人の足が変わることは、一年前から何も変わらない。


【観光型】

 はじめての迷宮体験。見ていい。触れない。引き返す。帰還石で、いつでも帰れます。

【封鎖型】

 この迷宮は開きません。見ない・近づかない・戻らない。落ち着きは危険の兆候です。


 昼休み、桜ノ宮はモニターでOSINTチャンネルの新着を眺める。迷い点の位置が季節で微妙にずれるという検証。観光型の「楽しい安全」が誰かの手の上で調律されている気配が、またひとつ数字の形で示されていた。


 名古屋ダンジョンの三層では、鶯谷恭弥が新人の訓練に付き合っていた。ビープは軽く、拍は早すぎない。協調補正の窓に体が自然に入れば、弾は減らないし、疲労も貯まらない。

「焦らないで。一拍遅れでいい」

 ゴブリン・アーチャーの矢筋が分かる前に、彼は矢の意志の位置を見る。刃は低く、短く、止めを急がない。レベルカードを拾った新人の顔は嬉しさと戸惑いで赤い。

「それ、装備中だけだ。常備はできない。帰ったら返せ」

 言い方は淡白だが、背中は温かい。死なないための冷たさと、楽しいための温度の配分は、ここでも毎日、学び直される。



 東京大学の公開講座。ホールに人が詰めかけ、演台に立つのは理論迷宮学を自称する東ヶ丘教授だった。スクリーンには一年前の界孔A-01と、最新の観光型のデータが並ぶ。

「“楽しい安全”は自然には生まれない。迷宮は拍に反応し、協調を好み、報酬を遅く与える。これは設計の性質だ。誰が、なぜ」

 図には**±0.3%という数字が五つ、赤で囲まれていた。封縁の自動作動、二段射の学習リセット、迷い点の移動幅。どれも人の癖に似ている。

「私の仮説は“設計者仮説”**です。ただし、犯人探しではない。許可の哲学だ。世界を“面白く”していいのは、誰の許可か」


 会場は静かに沸く。拍手は長くは続かない。質問は賛成と反対が半々で、どちらも丁寧だった。翌日、教授のスライドはまとめサイトに縦長で載り、OSINTは手順を追試した。結論は出ない。出ないまま、問いは流行になる。



 夕方、川沿いの商店街にある小さな中華料理店。如月勇斗は白い帽子を耳に引っかけ、チャーハンを鍋から皿へ滑らせた。中華鍋が鳴る音は、ビープに似ている。リズムを保てば、焦げないし、米は立つ。


「お兄ちゃん、観光洞行った?」

 ホールを手伝う高校生が笑う。

「行ってない」

「もったいないよ。レベルカード、今日二枚もらえたって友達が」

「レベルは、上げないで持って帰るのが、いちばん難しい」

「なにその哲学」

 笑い声が油に溶けて消える。厨房のテレビからは、観光型の特集と、封鎖型の警告が交互に流れる。米軍の熱源データが一部公開され、観光洞の混雑予測に使われるようになったとテロップが言う。画面の隅にはいつもの下帯。見ていい・触れない・引き返す。


 出前の注文票に住所が書かれ、勇斗はヘルメットを被る。原付で夕暮れの街を走りながら、帰還石に触れて戻っていく親子の背中を三組見る。泣いている子は一人もいない。泣かないことがよいのか、わからない。わからないまま、配達先に着き、麻婆豆腐を渡す。微笑みは受け取るだけにする。許可は求めない。


 夜、片付けのあと、店主が缶コーヒーを一本くれた。

「ありがとう。助かった」

「また明日」

 缶を開ける音が、なぜか針を打つ音に似る。胸の奥で一瞬だけ高笑いが跳ね、勇斗は黙って飲み干した。踊らない夜も大事だ。



 夏休み、観光型の予約は連日満席。結晶片は公社が下限価格で買い上げ、スキルオーブは装備中のみの条件で貸与される。闇市場はある。摘発もある。宗教はもう生まれているが、主流にはならない。**“落ち着きは危険”**の言葉は一年で身体に沈み、走らないを覚えた人が増えた。


 封鎖型では、研究が続く。迷宮性気道熱は重症例が減ったが、後遺症は残ることがある。反響性眩暈は訓練で軽くできるが、毒性霧は避けるしかない。致死性挙動は統計でしか語れず、語るほど人の気持ちは揺れる。死なないの範囲は、線一本で決まらない。


 夜半過ぎ、飛騨の尾根。

 ——v0.8 “Festival”

 ・観光型:行列時に迷い点の密度を自動調整。帰還石の導線を太字に。

 ・訓練型:協調補正の窓を新人向けに+0.5m拡張。

 ・封鎖型:自壊閾値を-0.1%。事故の気配が厚い夜は眠る。

 ・痛み:必ず残す。自慢が減るように。

 ・報酬:遅く。続ける人だけが気づく速度で。


 パッチノートは声にならず、土の下でだけ響く。設計者の足は、今日はここで止まる。中華屋の朝は早い。


 理論学者はメディアで問う。「誰が世界を面白くしていいのか」。

 桜ノ宮は掲示で言う。「見ていい・触れない・引き返す」。

 鶯谷は背中で教える。「一拍遅れでいい」。

 OSINTは検証で示す。「**±0.3%**の向こうに、手がある」。

 そして町の中華屋では、鍋が拍を刻む。客は腹を満たし、缶コーヒーは小さく冷たい。


 百のダンジョンの国で、人はだんだん夜に慣れ、昼の作法を取り戻す。観光は熱狂し、封鎖は眠らない。面白さは、危うさの裏面に貼り付いたまま離れず、その上にルールが薄く重ねられていく。


 勇斗は帰り道、川沿いの風に当たって立ち止まる。橋の上から眺める街は、去年より少しだけ面白い。許可を求める声は遠くで増えていく。答えるのは、針ではない。拍だ。

 四拍で吸い、四拍で吐く。

 それだけで、今夜は十分だった。

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