第2話【帰還】

 雲が薄く裂け、刃のような稜線が幾重にも重なっていた。

 飛騨山脈の尾根に立ち、如月勇斗は膝に手を置く。背後で空気がひずみ、開いたままの輪が低く唸った。次元門——七年の向こう側と、こちらをつなぐ唯一の口。


 吸い込んだ空気は冷たく、土の匂いが日本だった。広島の山ではない。遠い。目を閉じれば、向こう側の火の色と砂の手触りがすぐそこに戻る。目を開けると、白い雲が薄い。どちらも嘘ではないのだと、栗色の岩肌を見ながら思った。


 指を鳴らすと、召喚獣が翼を伸ばして空へ上がった。視界が高く、広く、鷹の目で地表が展開する。尾根、谷、溝、古い崩落痕。地図帳で見た線が、頭の中の座標に合う。赤い輪郭が浮かび、岐阜と長野の境が強調される。帰郷はすぐではないとわかる距離だ。


 背後の輪から、風とは違う流れが微かに漏れていた。エーテル——こちらには名のない粒子。ほんの数秒、口が世界と通じただけで、周囲の濃度が上がる。胸骨の裏に小さな熱が生まれ、膝裏の腱が硬くなる。世界が異物を吸い込み、馴染ませようとする音がする。


 初めの微震は靴底をくすぐる程度だった。間を置かず、二度、三度。向こう側でダンジョンが生まれる前触れに似ている。勇斗は躊躇わず右手を輪の縁に当て、左手を空へ掲げた。浄化。音を持たない光が尾根を洗い、梢の葉が白い裏を一瞬だけ見せる。濃度は僅かに下がる。その間に口を狭め、縁に簡易封をかける。完全閉鎖は今は選ばない。向こうに置いた人と約束がある。


 微震は止まらない。視界を広げ、半径百キロに探知を伸ばす。暗い地中に、灯りの芽のような点が散る。点は核の予兆だ。地殻の弱い場所、人の集まる場所、古い水脈の上。彼の頭の地図は静かに増殖し、十が二十に、二十が五十に増えていく。


「……遅い」


 言葉は風に混じって消えた。遅いのは自分ではない。漏れに対して世界の反応が早過ぎる。勇斗は門の外縁をもう一度光で縫い、山を離れる。足ではない。視線の中の一点と自分の位置を結び、転移する――。


 はじめの着地は、小さな住宅街の端だった。東を向いた庭の手前、砂利の色が途切れて、切り抜いたような口がある。写真では見えない“音”が、実物の周りにはあった。耳の奥に軽い圧がかかり、言葉の後ろが丸く鈍る。縁に立つ主婦の肩が、安心の角度で下がっていた。


 怖くない。

 この世界にも、もうその癖が伝わっている。


 勇斗は姿を薄くし、隠蔽をかけた。庭の端で主婦には届き、現象には触れない程度に声を滑らせる。


「見ないで。離れて。戻らないで」


 主婦は顔を上げ、頷いて踵を返した。勇斗は口縁に手をかざし、小さな封印の針を四隅に刺す。完全ではない。ただ、局所の生育速度を落とすだけの針。今日は同じ作業を何十回もすることになる。


 街の角から悲鳴が上がり、遠くのサイレンが近づいてくる音になる。勇斗は位置を掴み、視界をずらす。ビル陰。舗装の中央で、狼型が背を丸めていた。毛並みは黒緑で、喉の奥から金属を擦る音がする。人が散り、誰かが転ぶ。勇斗は仮面を落とし、外套の影から刃を出した。


 刃は光らない。早い。喉元に一度、後脚に一度。血が空気に触れて黒く変色し、倒れた影が路面に広がる。

「走って」という声だけ置いて、勇斗は別の口へ移る。移るたびに陽の角度を読む。光は味方だ。灰童は直射に弱い。

 外套の内側を反射板にして、目と手首に光を入れる。皮膚が灰を吹き、口縁に戻ろうとする本能が勝っていく。


 午後は長く、しかし細切れだ。勇斗は封鎖線の外側を縫う。警察の拡声器の声、消防の無線の音、バリケードテープの黄色。自衛隊のトラックが来て、降りた隊員の動きが整っていく。銃弾が効く。核が浅い。彼らは今日、勝てる。その勝ち目を確実にする仕事が、勇斗の仕事になった。


 学校の帰り道では、列が静かすぎた。泣き声が小さい。小ささは危険だ。先生の声が掠れ、子どもの視線が口の方へ滑る。勇斗は角度をもう一度だけ測り、反射光で縁そのものを焼く。灰童の一体が音を立てずに崩れ、黒い粉が風にほどけた。列が動き出し、先生が「こっち」と短く言う。それで十分だ。彼は頷かず、刃の傾きで返した。


 半日——スタンピードは条件が揃えばいつでも起こせた。勇斗はそれを起こさせなかった。浄化で濃度を薄め、封印で生育を遅らせ、刃で芽を刈る。誰も彼を見ない。見せない。彼の影は、報道の画角の外にある。


 夕暮れが尾根の向こうから降りてきたので勇斗は山へ戻った。門はまだ低く唸り向こうの風は湿りを帯びている。婚約者たちの顔が順に浮かび約束の言葉が耳の後ろに温度を残す。いま閉じれば二度と会えないが開けたままならこの世界が削れるかもしれない。選択に唯一の正解はなくどれも完全ではないことを彼は知っていた。


 彼は門の縁に右手を置き左手で稜線を指す。光柱が立ち飛騨の尾根が白く染まる。浄化の膜が広がり近くの核は熱を少し失い遠くの街ではテレビがそれを捉えて謎の光というテロップが躍る。画面の片隅に自分の罪の形が映るのを見て彼は今じゃないとだけ言い地面に腰を落とした。


 探知は止めない。灯りの芽は百に届きすべてが口になるわけではないが十分に多い。封じられるものと間に合わないものがあり彼は指で地図を撫でるように優先順位を並べ替える。選別は嫌悪ではなく手順の問題だと自分に言い聞かせる。


 夜気が一段冷えたころ彼は別の案に触れる。

 数と名前と報酬で世界を可視化すれば助かる人は増えるだろうが同時に世界は遊技のかたちに傾く。娯楽は力であり力はときに病にもなる。まだ早いと彼は首を横に振る。先にやるべきは減速と封鎖で設計はその次だ。行政は名を与え現場は数字を積み自分は影で針を打つ。名は出さず功は譲り危険だけを先回りして抜く。


 門の縁に自壊の紐を結ぶ。閾値を越えれば眠らせ、眠らなければ自分が殺す。誰の許可にも依らない行為の重さは胸骨の内側にだけ残る。風は乾き星が二つ滲む。彼は立ち上がり視界の地図をもう一度開く。小学校の校庭の端で小さな呼吸が始まったので転移し音を立てずに着地する。誰も見ないし見せない。刃が短く光り口は静かに縮む。


 同じ時刻に県庁の共有フォルダでは界孔A-01というディレクトリが増え時刻が一行ずつ記録され恐怖反応鈍化という六文字が貼られていた。名付けと封印は離れた場所で同時に進み世界はゆっくりと夜に慣れていく。

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