現代ダンジョンの影の支配者

犬山テツヤ

第1話【プロローグ】

 午前十一時四十六分、庁舎のブラインドがいっせいに薄く鳴った。蛍光灯の光が机の上で細かく揺れ、桜ノ宮はカーソルの点滅から目を離す。紙コップのコーヒーには波紋がふたつ、みっつ。隣の佐藤が椅子の脚を押さえ、「四はいった?」と声を潜めた。


「たぶん。今日は定時って言ってたよね」

「言ってた。いま撤回した」


 冗談が口にできるのは、まだ“いつもの地震後”の空気が残っているからだ。プリンターはせわしく紙を吐き出し、廊下を小走りする靴音が重なる。チャットの通知が点滅し、被害確認・停電・落下物・道路点検のテンプレが流れていく。手順は身体に入っている。だからこそ、声の角度を整えるのに要るのは一呼吸だ。


 先に鳴ったのは佐藤の電話で、その音を追うように桜ノ宮の内線が点灯した。受話器を取り、腹の奥で呼吸の数をひとつ数えてから口を開く。


「はい、長野県庁です」

『もしもし。松本の上野と申します。市役所が繋がらなくて……こちらで合ってますか』

「地震関連はこちらで承ります。ご住所と状況をお願いします」


 テンプレの空欄に打鍵する。住所、氏名、電話番号。右手で打ちながら、左のペン先で付箋に「地震後・住民から」と小さく書く。よくあるのは断水、塀の破損、落下による軽傷——と想定を胸の列に並べたとき、相手の声がその列から一段はみ出した。


『庭に洞窟ができたんです』

「……洞窟、ですか?」

『はい。二階ぶんくらいの高さで、横に長くて。東側だけ口が開いてる』


 カーソルが規則正しく明滅する。穴ではなく、岩肌のようだと本人が言う。地盤沈下や擁壁破断の語を頭の棚に並べつつ、判断を急がない。今すべきことは決まっている。


「近づかないでください。まずは距離を取りましょう。見た目、深さ、奥行きはどの程度ですか」

『灰色で、ごつごつしていて……さっきまでは浅かったのに、今は奥が見えません。暗さが増えた感じで。でも、怖くないんです』


 打つ指が止まった。心拍が半拍遅れて胸骨に当たる。地震直後の見知らぬ空洞を前にして「怖くない」。その言葉は、現象側に付箋を貼る音をしていた。


「いま、なんとおっしゃいましたか」

『怖くない、って。むしろ落ち着くというか、見ていたくなるんです。変ですよね』


 変、である。だが、その“変”の名付けは電話口のこちらではできない。桜ノ宮は呼吸をもう一度数え、言葉の順序を整える。


「説明はあとで構いません。すぐに家の外へ。十分に距離を取ってください。近隣にも声をかけてください。写真は離れた場所からで。縁には決して乗らないように」

『わかりました……あ、今、少し口が広がったかも』


 付箋にはもう「異常」とあり、その横に新しく「恐怖反応鈍化?」と書き足す。佐藤が振り返り、目で問いかける。付箋を滑らせて見せながら、危機管理課の内線を呼び出した。向こう側では別の電話が鳴っていて、その上に短い返事が重なる。


「未確認の空洞現象の通報です。松本市。住民が“怖くない”と証言。現地確認と避難誘導をお願いします。仮称は——」


 言いかけて、画面の空白を見る。名前は掌握の最初の動きだ。名があれば検索が効き、共有が効き、責任の線が引ける。


「仮に界孔(かいこう)A-01で回します」

『了解。上げます』


 数十秒後、危機管理課から全庁に短い通知が落ちた。対策本部の準備、仮称は界孔で統一。用語集の先頭に暫定のMDI(迷宮由来危機)が追加される。桜ノ宮はメールの新規ウィンドウを開いた。件名:未確認空洞現象(界孔A-01)/要避難・要現地確認。宛先は危機・土木・警察連絡・自衛隊リエゾン。本文の冒頭に太字で住民の恐怖反応鈍化の可能性。文末は簡潔に閉じ、送信。既読の緑が順に灯る。


 庁内スピーカーが小音量でニュースを流す。県内で震度四。続いて他県名が連ねられ、最後に海外の地名が接続詞もなく置かれた。「同時」「微震」という語がスマホのプッシュにも並び、アナウンサーの声色が一瞬探るように変わる。


「……世界中で揺れてるってこと?」と佐藤。

「“可能性”。結論はまだ」


 結論はまだ、という言い方は庁内でよく使う。市民向けの文書では使えない。曖昧さの管理が今日の午後を占める、と桜ノ宮は思う。


 最初の写真は想像より早く届いた。東向きの庭。芝の手前で砂利の色が急に変わり、切り抜いたような口が開いている。灰色の岩肌はコンクリートほど人工的ではなく、自然岩ほど無秩序でもない。口縁の影が濃い。写真に音は写らないのに、見ていると耳の奥がわずかに詰まる。音が吸われている錯覚。


「嫌な静けさ」と佐藤。桜ノ宮は頷き、付箋に「音圧低下?」と書き足したのち、報告用テンプレートを開く。項目をひとつずつ埋めていく。教科書通りに、しかし教科書から少しずつはみ出しながら。


 発生日時:11:46


 発生場所:松本市〜(略)


 概要:庭の地表に口径約5mの空洞(仮称:界孔A-01)。東向き。岩状。


 被害:現時点で確認なし。住民避難中。


 特記事項:住民より恐怖反応欠如/落ち着きの証言。音環境の違和感の可能性。


 要請:現地確認、半径300m避難、学校等への周知、近隣インフラ点検。


 文末に「以上」と打ち、送信前に短い注意文を一行、先頭に置く。


 ※“落ち着く”等の感覚は現象の一部の可能性。十分な距離を取り避難を。


 共有フォルダに界孔A-01のディレクトリが生まれ、文書が次々格納されていく。座標、航空写真のピン打ち、避難所一覧、学校・保育所・老人ホームのリスト。ピンに番号が振られ、フォルダに責任者欄が増える。届く手が、少しだけ増えた。


 二度目のコールバックで、上野の息は少し整っていた。ご近所も一緒に移動。静かで、落ち着くと感じる。感じるからこそ離れる、と確認させる。


「見ないこと、近づかないこと、戻らないこと。お願いします」


「お願いします」は、思いのほか効く。望みとして届くと、命令より強く働くことがある。受話器を置いたとき、掌に自分の体温が戻ってくる感覚があった。今日の午後は長い。疲れはその長さの中に均等ではなく、きまぐれに分布する。きまぐれに備えるには、文章を冷たくしすぎないことだ。


 ネットは先に走る。人工地震、軍事実験、宇宙人。アニメの台詞のコラージュ。見過ぎない。手が止まるからだ。手が止まれば現実が遅れ、遅れた分だけ足元に穴が開く。


 広報文案が落ちてくる。否定も肯定もしない。市民の行動に直結する文だけを置き、余計な語を削る。


【お知らせ】

 県内で地震後に空洞が確認された事例があります。現地では近づかず、見ないようにし、避難所等へ移動してください。県・市町村・関係機関が確認を進めています。SNS等の未確認情報にご注意ください。

 ※「怖くない」「落ち着く」等の感覚を覚えた場合、それは危険の兆候である可能性があります。落ち着くほど離れてください。


 送出。反応。反応への反応。机上の紙の束が左へ少しずつ移動し、空いた場所に新しい束が積まれる。付箋の色が重なり、ボールペンのインクが短くなる。昼休みは気づいたら通り過ぎ、コンビニのパンは半分で止まる。


「桜ノ宮さん、現地からもう一枚」


 佐藤が画面を示す。さっきより口がわずかに大きい。縁の影が深い。画素では測れないが、見る者が“深さ”と呼びたくなる暗さがある。見続けたい、という穏やかな衝動がにじむ。視線を外す。紙に戻す。


「学校と保育所、もう一度回すね」

「お願い。避難所スタッフにも“見ない・近づかない・戻らない”を」


 通話口の声には、よく知っている種類の緊張がある。だが、そこに“いつも”にはない色が一本混じっている。緊張の種類が違うと、人は言葉を選び間違えやすい。間違いは余計な火をつける。言葉は短く、しかし短さの中に温度を残す。


 午後の初め、上からの通達。**特定異常災害(特異災)**の検討開始。用語は仮、制度は現行を基礎に運用。運用には文が要り、文には数字が要る。数字は現地から上がる。現地は動いている。蜘蛛の巣の中心に指を置き、振動だけを手で感じているような時間が続く。


 給湯室で紙コップに水を少し。冷たさで舌の奥がほどけ、肩の力が半分抜ける。戻る途中、危機管理課のドアが開き、飯村課長補佐と目が合う。頷きが一つ。頷きで伝わる量が今日は多い。


 席へ戻ると、付箋の最上段に自分の字が見える。界孔A-01:恐怖反応鈍化。書き足したい語がいくつか浮かぶが、付箋は小さい。小さいままでいい。全部を一度に書こうとすると、文が壊れる。壊れた文は現場の足を引く。


 庁舎の空調が一段強くなり、紙の端がわずかに揺れた。内線がまた鳴り、別の机でも鳴る。「お願いします」と「わかりました」が、織物のように往復する。共有フォルダの界孔A-01に、時刻が一行ずつ増える。ピンは増え、番号は増え、責任者欄が埋まっていく。


 外の光は白いまま、夕方の手前で濃度を増した。桜ノ宮は新しい付箋を一枚取り、太い字で書く。


 名前を先に。怖さに先回りして。


 貼る。息を整える。呼び出し音がまた重なった。文の位置を少しだけずらす。句点の場所を選び直す。選び直すたび、胸の奥で呼吸が揃う。今日は長い。長いが、進む。呼吸の数だけ、進む。

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