無題
虹見 夢
読切
特に何の前触れなく、目が覚めると、私は白い空間にいた。
冷たく硬い床の上で仰向けに寝そべり、照明と白い天井の眩しさに目を細める。不思議と、痛みはない。
身体を起こし、辺りを見回す。見渡す限り、どうやら私はドーム状の天井である、白い建物の中にいるようだった。窓は申し訳程度の大きさでしかなく、そこから見える景色は広大な海だった。海、とはいっても、すぐそこに水面がある訳ではない。見下ろした先に海がある、ただそれだけだった。窓の大きさ的にも、高さ的にも外に出るのは不可能。
身なりも見窄らしく、大きい患者服と下着だけしか纏っておらず、サンダルすら履いていない。辺りをもう一度ぐるりと見渡しても靴なんてなく。
「…………はあ」
仕方がない、と割り切り、もう少し自身の置かれた部屋を歩き回る事にした。
やはりと言うべきか、部屋の内装は至ってシンプルで、物らしき物が何もない。
部屋にある出入り口からぺたぺたと裸足で廊下に出た。
廊下に出れば、まあまあ広く長い道と、スライド式のドアが多くあった。なんというか、大きい病院のようだ。設備も見る限り、新しく思える。最も、人がいればの話だが。
この建造物内に、私以外の人の気配を感じられない。一体何故だろうか。早くに廃墟となったのか、或いは単に、私がいる階層に人がいないだけなのか。それにしたって些か不自然ではないだろうか?
歩みを進め、近くにあったドアに書いてあった名前をそれとなく見やる。ドアには、『集中治療室』と書いてあった。確かにここは病院なのかもしれないな、と少しだけガラスから中を覗き込んでみた。それが、いけなかった。
(……血?)
辺り一面、血、血、血。集中治療室とは一体何だというのか。少なくとも、自分がドラマや大病院で見るような集中治療室ではない。どうしてこんなに血で汚れている? まるでゾンビ映画の導入みたいじゃないか、笑えないし、気持ち悪い。
喉から迫り上がってくる酸っぱい何かを堪え、集中治療室の内装を見なかったかのようにして歩き出す。ぺたぺたと、裸足で歩く足音だけが廊下に響く。
一体私はどうして此処にいるのか。何故こんな所にいるのか。それさえも分からない。まるで起きた場所以前の切欠を全て抜き取られた感覚だ。自分が何者であるかさえも、朧げだ。記憶喪失ってこんな感じなんだな、と遠い何処かで考えながら、無心に歩く。
きっとこれは夢なのだろう。こんな馬鹿げた空間にいるだなんておかしいし、第一病院に来るような病気だって抱えていない。集中治療室が血で汚れている病院なんて、碌でもない。
辺りをキョロキョロと、眼球を忙しなく動かして見回す。ふと、目に入ったチラシ。
「…………冬季旅行サービス?」
チラシも、オカシイ。外は海があって、部屋の気温も程よく暖かいくらいだ。現に裸足で歩いているが、床が異様なほど冷たいとも、熱いとも感じなかった。
そういえば、今は何時なのだろう。日付も分からない。季節さえ、分からない。だが、こんな薄着で活動できている時点で、決して冬ではない。不思議なことに、この建物の中には空調らしき設備が少なく、見つけてもそこから風が出ている感じはしない。先程見た集中治療室は血で塗れていた上に、人の気配も今の所はしない。そうだというのに、廊下に埃一つなければ、見ているチラシもまあまあ新しい。歩いていれば必ず人を見かけるとか、すれ違うなりする筈が、誰一人としてすれ違ってもいなければ見かけてもいない。話し声も、物音もしない。それが、余計にこの状況の異様さを際立たせていた。
目に入ったチラシも、現実ではあり得ないようなものだった。場所が書かれていない。ただ、冬に何処かへ旅行へ行きましょう! というありきたりなキャッチフレーズと、何処かのスキー場でスキーをしている若者が写っている画像が載っている。肝心の期日はぼやけていて読めないし、第一病院でこんなチラシを置くだなんて変じゃないか。入院している患者の中には、もう二度と普通の生活には戻れず、永遠にこの病院で過ごすことが決まっている人だっているだろうに。そう考えると、あまりにも無神経で、無責任だ。見た者が、「こんなイベントにすら、もう二度と行けやしないというのに!」と癇癪を起こされたって、無理もないし、置いた側が悪いとも取れる。それになんだ、場所が書いていない時点で論外だし、何をやるかすらも明確に書かれていない。期日がぼやけているあたり、相当昔のチラシなのだろうか。いやそれでもこんなチラシが世に出回るのは変だ。
見ていても何も分からない。分からない事に思考を巡らせて、無駄に疲弊するのはよそう。そうだ、それが正しい。既におかしな場所に放り込まれているのだ、何を今更。
チラシから目を逸らし、再び歩みを進める。相変わらず人の気配はない。話し声も全く聞こえない。唯一あるのは自分の足音だけだ。足音以外、不自然なくらいに静まり返っている。先程血で汚れた部屋を見たというのに、血の匂いは全くしない。消毒液の匂いと、コインランドリーの洗濯機の匂いが充満している。消毒液はともかく、コインランドリーの洗濯機の匂いについては、あまりいい匂いではない。寧ろ気持ち悪い匂いだ。なんというか、鼻に残る。臭いと言えば臭いが、世間一般で言う臭いとは少し外れるだろう。そう、年配の方が持つ匂いというか、なんというか。とにかく、自分にとっては嫌な匂いなのだ。起きて、部屋を出た後は顔を顰めたが、歩いていればもうその匂いにも慣れてしまった。人間、慣れというものは恐ろしいものだ。
しかし私は本当に何故、ここにいるのだろう。私は、精神病患者なのか? あのチラシも、私が見た妄想なのだろうか。集中治療室にあった血も、幻覚だったのだろうか。そうでなければ、血生臭さが存在しない事がおかしいではないか。仮に幻覚だったとして、私が今見ているこの光景は本当に幻覚ではないと言えるのだろうか? 私は本当に正しい景色を目に入れられているのか? それとも、この異様な光景自体、私が見ている永い夢なのか?
ウンウンと考えながら目玉をギョロギョロと動かし、歩き続け、次に目に入ったのは患者がいるであろう病室だった。ドアは開いており、どうぞいつでもお入りくださいと言わんばかりだ。
私は恐る恐る、ドンドンと、内側から胸を叩くような煩い鼓動をそのままに中を覗く。そしてまた、目玉を動かす。目に入った景色は、ベッドはひっくり返され、布団は無造作に床へ敷かれており、食べ物だったであろう物が窓に散乱しているという、病院で起こりうる地獄をこれでもかと表現された状態だった。よくよく見れば布団も、その上に被さっているシーツも黄ばんでいる。中に入って探索しようなどとは到底思えなかった。入ったら、酷い悪臭に見舞われる気がしたのだ。もし匂いがしていれば、この距離で嗅ぎ取れない方がおかしいと言うのに、何故かそう思ったのだ。食物は窓にへばりついて、ガラスを伝って床へと落下しようと、トロトロと地面に向かって滴っている。食器も地面へ放り出されており、とろみがかった何かが広がっていた。更に目を凝らせば、吐瀉物らしきものもある。なんという事だ、あまりにも不衛生すぎではないか! ここが病院ならば、既に廃墟と化している事だろう。いや、廃墟でもここまでは汚くない筈だ。長時間放置されていたのかどうかは知らないが、吐瀉物には蛆が集っている。吐瀉物だけではない、とろみがかった何かにも、食物だったであろうものにも蛆や蝿が集っているのだ。そしてその蛆どもは、もそもそと動き、吐瀉物を覆うようにうねうねと動いては、それを貪ろうと身を埋めている。
私は気持ち悪さに耐えきれず、ドアを閉めようとスライド式のドアノブに手をかけ、勢いのまま閉めようと腕を横に動かした。新品に近い割には、滑りが悪い。私はその事に何故だ、とドアのレールや本体を見たのが、いけなかったのだ。
「ひ、」
ドアのレールは虫だらけで、蛆ほどのサイズではないにしろ、羽虫ではない虫が大量に集っていた。ムカデやゲジ、ヤスデや芋虫まで。黒く細長い、針金のような虫もいる。キリキリと音を立てながら、レールの隙間を縦横に動き続けている。どうして今まで気づかなかったのか! 私はそれ程までに、部屋の中へ心奪われていたと? くそ、好奇心とは酷いものよ。
当然勢いのままに引っ張られたドアは急に止まる筈もなく、ブチブチと嫌な音を立て、虫の悲鳴を流しながら、未だ蠢く虫を轢き殺し、部屋の中を隠した。当然レールの隙間から身体をはみ出させている虫はそこから出ようと必死にもがいている。もぞもぞと、左右にうねうねと動かす身体が、厭なほどに気持ち悪い。ぎいぎいと鳴き声をあげながら、あり得ない方向に体を曲げるその姿へ鳥肌を立たせ、何度気持ち悪さを味わえばいいのだろうかと他人事に思う自分がいながらも、ひたすらに込み上げる吐き気に耐えていた。自分の足に虫が登って来なくてよかったという安堵と、蛆を見た事による嫌悪感、虫どもをドアでブチブチと轢き殺し、未だもぞもぞと動くそれを見ているグロテスクな光景への精神的ショック。
「あ、アア…………ア…………」
虫どもが、私を見ている。きいきい、きりきり、ぎこぎこと、耳をつんざくような声を上げて、私を見ている。ドアの隙間から溢れんばかりの虫が、此方へ寄って来ようともがいている。口らしきものをガバリと大きく開き、唾液のようなものを滴らせて。
もう駄目だ、此処からは早く離れてしまおう。
私は震える足でよろよろと走り出し、ぜえぜえ、ひゅうひゅうと喘ぎながら病室の前を後にした。靴どころか、靴下さえも用意されていないこの場所に嫌悪感を覚えながら。ひたすら、何かから逃げるように、何かから忘れるように足を動かし、此処から出るという本来の目的さえ忘れて走り続けた。最もその足取りは覚束なく、千鳥足のようによろめいていた。走るというよりも、歩くようなものだった。だが私はそれを“走っている”と誤認し、ただただ歩みを進めていた。
これは何かの罰ゲームなのだろうか? それとも私が見ている夢?
夢でなければ、一体なんだというのか! こんなモノが現実であってはならない、現実ならば、私はどうしてこんな汚らわしいところにいる!
「そうだ、夢だ、私が見ているのは夢なんだ」
ふらついていた足を止め、膝から崩れ落ち、譫言のように「これは夢なのだ」と繰り返し呟く。数えきれない程に呟いて、呟いて、呟いて、呟き続けて。一体どれ程の時間が経ったのだろうかと思えるくらいに、唇がかさつくくらいまでに、呪文のように唱え続けた。夢だ夢だ、これは現実ではない、夢なのだと。
満足するまで呟き、その後にひたすら笑い出したくなった。この状況へのやり場のない怒り、動揺、不信感を全て吐き出して、身も心も空にしてしまいたかったのだ。何もかも吐き出してしまえば、このイカれた偶像に対応出来ると、ありもしない事を考えながら。
「ふひ、ひひひ」
一度漏れて仕舞えば、ダムの水が決壊したように声は漏れ出した。
此処に人がいれば何事かと走り寄ってくる程、廊下中を己の笑い声で満たした。声は響き渡り、反響し、自身の鼓膜を揺らす。やりようにない感情を笑いに変え、喉が枯れるまで笑って、笑って、笑い続けた。あはは、ぎゃはは、わはは、がはは、ふひひと法則性のない笑い方をしながら、両手で頭をぼりぼりと、かさかさと皮膚を削るように掻きむしり、頭を振り乱し、何かから身を守るように上半身を丸め、床へ笑い続けた。何も面白おかしくないのに、楽しくもないのに、喜びもないのに、狂ったように口角を上げて。もしこの場に鏡があれば、私は今酷い顔をしていた事だろう。にちゃりと、幼い子供がぐちゃぐちゃに描いたような笑顔を浮かべ、不自然な笑顔を作っている私の顔。口角は上を向き、頬は引き締められ、目元も細まっている状態を、テープで固定された感覚だ。決して笑みを絶える事なく、私は大きな声で、声がカスカスになるまで、肺にある空気を全て空にするまで、耳をつんざくような音で廊下の床から天井へ、天井から壁へ、壁から部屋へと反響させ続けた。側から見たら滑稽に映るだろう。それすらもどうでもいい、私はただ、自分の中にある中身を全てここで吐き出してしまいたかった。なんとも惨めだろうか。
不意に視界がぐにゃりと歪む。歪んで、輪郭さえも覚束なくなって、床と自分の境界も、手と頭の境界さえ分からなくなっていく。そうだ、私は地面と一体になるのだ。地面と一体になれば、何もかも忘れられる、何も考えなくていい。不安にならなくてもいいのだ。人間というしがらみから逃れられる絶好の機会ではないか。
「ハハハハハハハハハハハハ…………」
一頻り笑いきって、上を向く。長い長い時間笑って、喉は枯れ、息は濁った音を出しているのにも関わらず、私の口角は上がっていた。既に私の頭はイカれていたらしい。でなければ、こんなトンチキな夢など見る筈もないのだから。
ゆらり、とスローモーションに立ち上がる。よたよたと、幼児が二足歩行を覚えたばかりのような足取りで、目的もなく片足を前へ前へと押し進めた。どうせイカれてるんだ、何を考えたって無駄なんだと思い込みながら。
途方もないくらい歩いて漸く目に入った階段を降り、踊り場にあった地図を見た。私はつい先ほどまで五階にいたらしい。成る程道理で窓から見える景色は見下ろす形になる訳だ。しかし地図を見ても分からない事は多く、この場所が何であるか、何の部屋がこの階にはあるのか、この階は何が中心とされているのかは分からず、ただ自分の現在地だけしか把握出来ない。文字が掠れているのはあの時見たポスターと同じだ。内装はあれ程小綺麗で新品に近いというのに、自分が知りたい情報ばかり古ぼけたように読めなくなっている。
──前言を訂正しよう。小綺麗なのは廊下と階段だけだ。そこらへんにある部屋は例外なく汚かった。それはもう、信じられない程に。私の夢だというのなら、都合良く事が進んで欲しいものだ。
はあ、と何度目かのため息をついて四階へと降りる。この階段、あまりにも不親切な設計で、一気に一階へと降りられない構造になっている。つまりまた四階の中を歩き回って、別の階段を探さねばならないのだ。エレベータがあれば直ぐに済む話だが、いかんせん地図を見る限りそれらしきものは見当たらないどころか、仮にあったとしても徒歩で行くには遠すぎるなどと、大病院にしては広すぎる上に不便極まりないのだ。よく分からない施設なのもあり、下手に歩き回るのは避けたい。階段を探す、というのも変な話だが、地図には階段マークというものが示されておらず、建築法としてどうなんだと思う。第一階段を取り付けるなら普通五階から一階まで降りられる設計にするだろう。何故四階までしか降りられない設計にしているのだ。まだ一階まで降りられはするがシャッターが閉まっているせいで四階までしか降りられないなら納得できる。何故四階より下に下がる階段そのものが無いのだ。生憎私は法律に疎い。建築法も大して知らないが、これは違反にならないのだろうか?
文句ばかり言っていても仕方あるまい、と渋々四階の廊下を歩き出す。階段を降りた先は二手に分かれている訳でもなく、一方通行だった。本当にこの施設の作りはどうなっている? 夢にしたってもう少し現実味を付けるべきだろう。
よたよたと歩いていると、遂に虫ではない生き物の気配がした。曲がり角の先から聞こえる、何かの声と、音楽。
「サアサア、皆さま踊って踊って……此処は楽園なのです、痛みも苦しみも無い場所なのです……」
一体誰が喋っているのだろう、とひょっこり頭を出す形で曲がり角の先を見た。
「サアサア、何もかも忘れて踊りましょう……ただただ楽しみましょう……」
人ではなく、動物がリズムに合わせて跳ね回り、踊り、歌っている。
私は眉間を摘んだ。本当に、この場所はイカれている。動物が人間の言葉を喋り踊っているなんて、どこの夢の国だ。いや夢の国でもまだマシか、まだそっちは人の形をしている。あくまでも今見ている動物はありのままの姿だ。四足歩行の動物が、人の言葉を喋り、ピョンピョンと跳ねて踊っている。よく見れば、飾られている花もそうだ。口や目がついている花もあれば、そうでない花もある。
「あらあら……コンニチハ、貴方のような大きなヒトは初めてよ」
「エ…………」
何をコソコソしているのかしら、と足元に擦り寄ってきたのは一匹の狐だった。
「ああ、心配しなくていいワ。私たちは毎日体を清潔にしてるの。シャワーも浴びるし、石鹸を使って体を洗いもするワ。ホラ、人間で言うエキノコックスとかも、心配ご無用ヨ」
「は、はあ…………」
動物の言う清潔と人間の言う清潔は同じ価値観なのだろうか。だが見る限り毛並みは整っているし、心なしかもふもふな気がする。人間の言葉を話しさえしなければ、私の心を癒すには十分だっただろう。
「あ、アノ……この階にある階段が何処か、知りませんか……?」
「階段? 知らないワ、だってどうでもいいもの」
「そう、ですか……。じゃあ、今行われてる、お祭りみたいなものは……?」
「お祭り? お祭りですって?」
あっはっは! と大声で狐は笑った。狐は私の前を歩き出し、漸く見つけた第一村人的な動物を此処で逃がすのはマズイ、と私は人肌寂しさに着いて行った。
「お祭りに見えてしまうのも無理はないかしら? アレはただのパレードよ」
「ハア…………」
「みぃいいいんな、ああしなくちゃいけないからああしてるの。上の人がへこへこお願いをしてるから、嫌々アレに付き合ってあげてるの」
「それは……いつから……?」
「そうね、丁度一年前かしら。外の世界がひどい事になってるから、少しでも楽しい事をしましょうねってやってるのよ。外は荒れ果てている、だから皆明るく振る舞ってください、宜しくお願いしますの繰り返しよ。結果、嫌がって反抗しだすモノもいれば、諦めてるモノもいるワ」
「外の世界が荒れ果てているって……?」
「あらあら。あらあらあらあら、知らないの? 世間知らずね。
外の世界は御通夜状態、みぃいいんな暗い顔して部屋に引きこもってるの。だから、私たちだけでも明るくしましょう、元気づけましょうって、意味もなく延々とこうしてるのよ。外は最悪の事態とか、緊急対応とかでいっぱい。既に医療体制も崩壊し始めてるし、人間もバタバタ死に始めてる。なのに上の人は知らんぷり。ただただ明るく過ごしましょう! 暗さは罪だ! と言って、明るく過ごしてくださいお願いしますとぺこぺこ頭を下げてる日々。そして暗く過ごしてるのが多い若者ばかりが叩かれて、だぁああああれも助けてくれない。馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。この世は地獄よ。そうよ、地獄なんだわ」
「エ…………じゃあ私は、どうしてここに…………」
「しぃーらなぁい。だってアタシ、此処の階層でしか生活出来ないんだもの」
「へっ…………?」
「あらららららら? アナタもしかして、キオクソーシツってヤツかしら?」
それはごめんなさいね、とケラケラ笑う狐。
どうしてだろう、人ではないのに、人らしい。少なくとも、私よりも人間らしいと思ってしまった。この人を小馬鹿にしてくる態度に、呆れたと言わんばかりの声色。動物の癖に、人間味が強すぎる。不気味だ、背筋が凍る。
「マ、そういう事よ。少なくともアタシはアナタの事を知らないワ。そ、れ、にぃ。アナタ、“この階にある階段が何処か知りませんか”ぁって聞いたじゃない。となれば、アナタは少なくともこの階の住人ではないもの。一体全体何があってこのフロアに降りてきたかは知らないけど、それはそれはたぁいへんな目に遭ったのでしょうねぇ」
「いや、ちが……」
「何が違うの? ホラ見なさい、あの壁」
「え…………」
狐に顔でフン、と指された壁を見る。
その壁には夥しい量の血と引っ掻き傷が付いており、「だして」「もうやだ」「しにたい」「ころして」「くるしい」「つらい」といった、マイナスな言葉が血文字で書かれている。新しいものもあれば、時間が経って黒く変色したものもある。
五階にあった治療室の血痕といい、一体此処は何なんだ……。
「アレね、全部この階にいる奴らが外に出ようとした跡よ。馬鹿よね、あの壁から出られる訳ないのに」
「あれ……まだ……新しいのがありますよね……? 今も、あるんですか……?」
「此処だけじゃないけど、今もいぃっぱいあるわよ。ホラ、耳を澄ませてみなさい」
指示通り、耳を澄ませる。遠くから聞こえる音楽と声以外に、別の音は無いか。
────もういやだ!! だせ!! だせよお!!
────しにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたいしにたい…………
────ぃたいいたいいたいいたいいたいいたいよぉぉおおおお
────どぉおおしてころしてくれないのぉおおおお!! ころしてえ!! ころしてえーっ!!
なんだ、コレは。
遠くからでも、耳をすませばハッキリと聞こえてくる、悲鳴と喚き声。バタバタと暴れる音も、ガシャンガシャンと鎖が引っ張られては叩きつけられている音も聞こえる。
「……ね? 聞こえたデショ。アレが現実よ」
「…………地獄、ですか? ここは…………」
「うふふふふふふ、それも間違いじゃないわね。タブン、もうすぐ死ぬんじゃない?」
「は…………」
「あれだけくらぁい言葉を喚いておいて、しかも暴れてるのよ? そんなヤツは非国民だから死んじゃえーッて、ビリビリっと電気で殺しちゃうの」
「…………」
「あらゴメンなさい、ショッキングな話しちゃったわね」
「い、イエ…………」
イカれている。狂っている、何なんだこの施設は!
病院なんて冗談じゃない、こんなイカれた連中が集まっている施設なんて、この世の果てにだってある訳がないじゃないか! なのにどうして私は、此処にいるんだ!
「ああ、アタシ、一つ噂話を聞いたのよね」
「噂、ですか……」
「ええそうよ。五階のウワサ」
五階って、さっき私がいた階層じゃないか……。
「彼処では自我っていうか、なんかそういう感じの実験をしているらしいわねぇ。人間を二人用意して、片方の人間の中身を全部引き摺り出して、もう片方の人間の中身を入れるっていう、中身だけを交換する実験」
「そんな、SFじゃあるまいし…………」
「そうよねぇ。第一中身を全部出しちゃったら死んじゃうじゃない、その人間。中身を全部出して、それを交換っこする事で得られる結果って何なのかしら。中身、と言っても、脳も血液も含まれるのかしら? 信憑性に欠けるわよねぇ」
全く、馬鹿な話もあったもんだわと呆れる狐の声が、遠く聞こえた。
二人の人間、中身だけをそれぞれ交換する実験。集中治療室とやらが血で塗れていたのも、片方の人間の血を全部抜いていたから? もしや、私はその実験台になったのでは……?
バッと大きな患者服の胸元から自分の身体を見下ろす。縫い目は、見当たらない。腕も、針が刺さった形跡もない。
ホッと息を吐き、やはり噂は噂に過ぎないのだと安堵した。
「マア、もし仮にそれが本当だったとしたら、連れ込まれた人間は可哀想よねえ。……ゴメンなさい、アナタも人間だったわね」
「いえ、気になさらず…………その……私以外に、人間って来ましたか……?」
「知らないわね。だってここ、広いもの。広いから、仮に来ていたとしても会ってないかもしれないし、そもそも来てもいないかもしれない。見てないから、何も言えないワ。見てもいないのに、どうして人間が来たとも、来ていないとも言えるのかって問題になるじゃない。だからアタシは“知らない”と答えさせてもらうワ」
「エ……じゃあ、来てないんですか……?」
「話聞いてた? アタシはアナタ以外に人間を見ていないのよ。その日何時何分何秒にアタシが分裂してこの階層全部を見ている訳ないじゃない。リアルタイムで監視カメラを見てたって、人間がハッキリと来たかどうかなんて見てなきゃ答えられる訳ないでしょ。アナタシュレディンガーの猫って知ってる? いやその反応を見る限り知らないわよねゴメンなさいねぇ? とにかくアタシはアナタ以外に人間を見ていないの! だから他に人間が来たかどうかも知らないし、そもそもアナタ以外に人間がいるかどうかさえも知らないの」
「は、ハア…………」
「全くもう、少しは考えなさいよ。何の為に脳みそがあると思ってるの? アナタみたいに考えない愚図が増えるから、今のあのようなパレードとやらをやれとへこへこ頭を下げる馬鹿が増えるのよ。ま、いい経験になったんじゃない?」
ふんす、と息を吐いてまた歩き出した狐の後ろを着いていく。なんというか、嫌な上司がいるとしたらこんな感じなのだろうか。喋り方も女性らしいし、この狐はもしかしたら女なのだろうか?
いや喋り方だけで決めるのは早計か。生態学的にオスかメスかも分からないというのに、喋り方だけで女と決めつけるには情報が足りない。そもそも、身体は女でも中身は男って事もあり得る。逆もまた然りだ。この狐が言う事も正しいのかもしれない。もう少し口数は減らして欲しいものだが。
「ところで、何処に向かっているのでしょうか……」
「何って、階段探しよ。アナタは此処の階層来るの初めてなんでしょ。アタシも何処に階段があるかどうかはもう忘れちゃったけど、少なくとも土地勘みたいなものが全くないアナタを一人で行動させるには忍びないし、アタシもそこまで非情じゃないもの。そ、れ、に? 今さっき見たパレード、アレに巻き込まれると厄介よ」
「どういう、ところが……」
「あのパレードは上の人がへこへこ頭を下げてやってほしいと“お願い”をしているけど、ほぼ強制的にやれって言われてやってるようなもんよ。気が狂うまで踊らされるし、意味の分からない言葉も言わされ、笑いたくもないのにゲラゲラゲラゲラゲラゲラ笑えって言われるのよ。弱音を吐いたら周囲から冷たい目で見られるし、酷い時は叩かれる。あんな集団に入って飼い殺されるくらいなら、自分で好きに生きて抗って抗って抗った結果殺される方がマシよ。アナタも見たでしょ、あの壁に書かれた血文字」
「アア……あれは、あのパレードに耐えきれなくなった人が書いたモノなんですね……」
「そういうコト。あんな風になりたくないなら、パレードを避けて階段を探した方が賢明じゃない」
それもそうか、と頷く。一見楽しそうに見えるパレードも、永遠と無理やりさせられているモノなら、参加したくもない。それに、アレに参加したものの末路が、壁に書かれた血文字のようになるのならば、狐の言い分も分かる。あんなイカれたものに巻き込まれるなど、夢の中でも御免被る。正直な話、この狐に着いていく事も嫌なのだが、この階層の事を全く知らない私が単独で行動でもしたら、直ぐにでもイカれたパレードの住人になってしまう事だろう。それよりかは、比較的理性を持っている狐に着いていく方がマシだというもの。この狐も腹の内ではどす黒い事を考えている可能性も否めないが、今ある選択肢の中では一番安全だろう。私の見ている夢の癖して、なぜこうもうまくいかないことばかり。夢なら私の思い通りにしてほしいものだ。
「ところで、アナタの名前を聞いていなかったわね。“人間”じゃ堅っ苦しいでしょ? お名前、教えて頂戴」
「あ……ソノ…………」
「何、嫌だった?」
「違…………」
「ふぅん。じゃあ、“ワンちゃん”ね」
「へっ」
「だってアナタ犬っぽいんだもの。ああ、アタシの事は“月村”って呼んで頂戴」
「は、はあ」
私は、今物凄く不名誉な名前を付けられたのかもしれない。
一刻も早く、自分が何者であるかを思い出さねばならないと。そう、胸の内で強く感じた。
どのくらい歩いただろうか。パレードというイカれた奴らがいる集団に遭わないように遠回りをしながら階段を探し続けるが、何も景色が変わらない。歩いても歩いても同じ場所を歩いている心地がする。自分がしている行為は無意味だと感じてくる。ああなんだか同じ白い景色を見すぎて目がチカチカしてきた。吐き気もする。吐きたい。気持ちが悪い。吐きたい吐きたい吐きたい吐きたい吐きたい。
「あら、何バテてるの?」
「い、え…………ぼ、ボクは……体力が、ないもので…………」
「へぇ。へぇ! アナタ、その図体で体力もないの? 情っけないわねえ! ダサいわ、ダサいダサいダサい!」
「すみ、ませっ…………」
「ああ謝らないで頂戴。アナタの謝罪なんて誰も求めてないから。求められてないものをやった所で全部無意味よ。価値もないワ。ほらとっとと歩く!」
震える己の足を叱咤し、もう一度歩みを進める。
いい加減別の景色が見たい。いい加減変化が欲しい。いい加減かわりがほしい。
「アアそうそう、アナタ天使の話って知ってる? 知らないわよね、うふふふふふふふふふふふふふふふ」
月村という奴の話さえ聞こえてこない。音が遠い。レンズもぼやけている。解像度が低い。
夢だ。
夢であってくれ。
こんなもの、現実であってほしくない。
ぐらり、と全ての感覚が傾く。
「あら、あらあらあらあらあらあらあらあらあらあらあら。逃げるの? 逃げるの?」
ああもう五月蝿いな、黙っていてくれ。
「逃げるの? 臆病者ね。臆病者。臆病者、臆病者、臆病者」
頭にくる。
「ダサいわ、ダサいダサいダサいダサいダサいダサいダサいダサい」
うざったらしい。
最後に聞こえたのは、忌々しい狐の気持ちが悪い断末魔だった。
無題 虹見 夢 @Yume_Nijimi
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