第5話 無限回廊と方向音痴
口裂け女の刺激や、花子さんとの拳遊びのスリルがまだ指先に残っているような気がするのに、日常はあっという間に、まるで何事もなかったかのような平穏な軌道に戻ったように感じる。もちろん、この「平穏」っていうのは、我々超常現象調査部にとっての話だ。普通の生徒にとって、旧校舎三階のあの部室は、「超常現象調査部」なんて中二病じみた名前の看板が掲げられた、誰も寄り付かない神秘的なスペースでしかないだろう。
昼休み、私は――千早夜奈は――部室の隅っこにごろりと転がりながら、白石千夏がまとめた分厚い『都市伝説 ルールと対処法マニュアル(初版)』を夢中で読みふけっていた。こっちの方が教科書より断然面白い! 各種怪談の発生条件や行動パターン、突破方法まで、やけに詳細に記されていて、まるで現実版のモンスター図鑑だ。
「へえ、“八尺様”は金属音や高周波ノイズが苦手なんだ?“如月駅”ではあの質問に答えてはいけない?“くねくね”のルールは複雑すぎ…」私は感心しながら読み進め、完全にこれをゲームの設定資料集として研究していた。
「おい、夜奈!」佐藤亮太の声が突然耳元で響く。彼特有の、明るく振る舞おうとしながらもどこか虚勢が混じったトーンで。「そんな恐ろしいものばかり読んでないでさ! ちょっと購買にパート買いに行こうよ、腹減った!」
顔を上げると、亮太はドア枠に寄りかかり、自分ではカッコいいと思っているポーズを取っていた。しかし、彼の目は時折、窓の外をチラリと見ては、日の光が十分かどうかを確認しているようだ。
「自分で行けば?」私は慵げに欠伸を一つ。「今、“口裂け女”の二十七通りもの対処法を研究してる最中なんだよね〜、忙しいの」
「あの…その…」亮太の表情が少し固まり、声をひそめて言った。「実は…ちょっと道に迷っちゃって…本校舎の廊下、なんか複雑で…」
私は「……」
白石千夏がページから顔を上げ、静かに口を挟んだ。「佐藤先輩、あなたのクラスは二階です。購買は一階中庭の傍。階段を一段降りてまっすぐ進めばいい。理論上、迷う可能性はありません」
鈴木淳之介も珍しく基盤から顔を上げ、メガネを押し上げながら小声で付け加えた。「…統、統計によると、先輩が今月、“道に迷った”を理由に購買への同行を求めた回数は八回です。確率分布から見て、これは偶然とは考えにくく…」
「おい、お前ら!」亮太の顔が一気に紅潮し、首をギュッと伸ばして言い張った。「俺、俺はただ方向音痴がちょっとひどいだけだ! それに今回はマジで! 廊下の感じが普段と違う気がするんだ!」
神原美羽部長が優雅にコーヒーを啜りながら、鼻で笑った。「ええ、違うわね。あなたの臆病度が普段よりちょっと増したって点が。さっさと行きなさい。千夏や淳之介の邪魔は無用よ。千早、あなたが付き合いなさい。ついでに体も動かして。本当にゲーム廃人にならないようにね」
部長の鶴の一声には逆らえない。私は仕方なくマニュアルを閉じ、立ち上がった。「はいはい〜、我らがリア充王子様にお付き合いしますよ」わざとらしく语调を伸ばして、からかうように言ってみせる。
亮太は赦された囚人のように、さっさと私を外へ引っ張り出した。「別に臆病じゃない…ただ慎重なだけだ…」と口の中でぶつぶつ言いながら。
部室を離れ、旧校舎と本校舎をつなぐ廊下を抜けると、本校舎の方からの喧噪がすぐに押し寄せてきた。昼休み。生徒たちが三々五々、おしゃべりしたり、ふざけ合ったり、活気に溢れている。明るい窓から差し込む陽光がピカピカの床に降り注ぎ、全てがこれ以上なく正常に見えた。
「ほら、何も変わったことないじゃん?」私は亮太を横目で見た。
「ああ…さっきは気のせいだったかも…」亮太は頭をかき、少し気を緩ませると、また明るく爽やかなイメージを取り戻そうと背筋をピンと伸ばした。「でも、俺がいるから、仮に何かあったとしても怖くないぜ!」
突っ込むのも面倒くさい。私は足を早めて階段口へ向かった。購買は一階、降りればすぐだ。
しかし、歩いているうちに、次第に少しだけ違和感を覚え始めた。
周囲が…静かすぎないか?
さっきまで聞こえていた階下の中庭の賑やかな声が、いつの間にか消えている。廊下の両側にある教室のドアは全て閉まっており、窓からも人影は見えない。休み時間のはずなのに、この主階段へつながる廊下には、私と亮太の二人しかいない。
それに…この廊下、ちょっと長すぎない?
連接部から階段まで、せいぜい二十メートルくらいだったはずなのに、一分近く歩いているというのに、前方の階段口が相変わらず遠くにあるように感じる。
「な、ねえ、夜奈…」亮太の声にはかすかに震えが混じっている。「お、おかしくないか? ずいぶん歩いてる気がするけど…」
私は足を止め、眉をひそめた。そう、私も気づいていた。長いだけじゃない。周囲の細部も次第に不気味に変わり始めている。廊下の両側にある教室のプレート番号が…ずっと繰り返している? 401, 402, 403…そしてまた401, 402, 403…? 窓の外の景色も固まってしまい、変化のない、明るすぎる空ばかりが続いている。
空気が重くよどみ、淡いチョークの粉と古い壁の匂いがして、ずっと嗅いでいると少し眩暈がする。
「私達…やばいのに巻き込まれたかも」私は声を潜めて言った。心の中の気楽さが、ようやく警戒心に取って代わられた。
「や、やばい? 何が?」亮太は緊張してあたりを見回し、無意識に私の方に寄った。
答えず、私はさっと振り返り、来た道を見た。
後ろには、本来あるはずの旧校舎への連接廊下の入口が…消えていた! そこには、無限に続く、同じ様な廊下が広がっている! 両側には繰り返される教室のドアと窓。前へも後ろへも果てが見えない!
「鬼壁…」私はマニュアルで見た言葉を口にした。
「き、きへき?!」亮太の声は一瞬で裏返り、泣き声が混じった。「マジで?! ど、どうしようどうしよう?! ここに閉じ込められちゃうの?! 俺まだ若いよ、死にたくないよぉ!!」
彼は飛び上がらんばかりに驚き、さっきまでの強がりの爽やかさは瞬く間に消え失せ、本来の臆病な本性だけが剥き出しになった。
「黙れ! 落ち着け!」私は叱りつけた。自分も内心では少し怯えていたが、長年のホラーゲーム経験が強引に私を冷静にさせた。こういう状況では、慌てるのが最も役に立たない。「マニュアルによると、鬼壁は通常、空間が歪められているか、知覚が干渉を受けている状態だ。突破方法があるはずだ」
私は試しに、傍らにある「402」と表示された教室のドアを押してみた。ドアは微動だにせず、まるで溶接で固められたようだ。ドアの窓ガラスから中を覗くと、教室はがらんどうで、机と椅子は整然と並んでいるが、不気味な灰白色をした埃をかぶっていて、何十年も使われていないように見える。
窓を叩いてみても、ガラスは鈍い音を立てるだけで、異常に堅固だ。
「だ、駄目だ!」亮太は泣き声で言った。「試したよ! 何も開かない! 呪われたのかよ?!」
「呪われたも何もないよ!」私はむっとして返し、頭をフル回転させた。ゲームで鬼壁に遭遇したらどうする? 通常は陣眼やキーアイテムを見つけるか、あるいは…時を待つ? いや、現実はゲームじゃない。じっと待ってはいられない。
携帯電話を取り出す。案の定、電波は入らない。時間表示は12:25だが、秒針…動いていないようだ。
「そうだ! 淳之介がくれたやつ!」私はふと、鈴木淳之介が前にくれた小さい装置を思い出した。改良版の簡易EMF探知機で、異常なエネルギー波動を感知するらしい。私は急いでポケットから取り出した。
それはキーホルダーサイズの電子部品で、LEDライトが付いている。普段は緑色だが、今、それは狂ったように眩しい赤色を点滅させていた!
「エネルギー反応が強い! ここだ!」私は探知機を握りしめ、あたりを見回した。
亮太は点滅する赤い光を見て、顔をさらに青ざめさせ、気を失いそうになった。「赤、赤信号! 映画じゃ赤信号は死人の前兆だ!」
「騒ぐな!」私は集中し、廊下に沿って移動してみた。探知機の赤い光の点滅頻度が、私の動きに合わせて微妙に変化する。時々少し弱まり、時には極めて眩しいほどになる。
「ついて来い!」私は亮太に言った。「これ、エネルギー源に反応してるみたいだ。波動が最も強い方向を探してみよう!」
「そ、それを探してどうするんだよ?! 自ら罠に飛び込むようなもんじゃないか!」亮太は怯えて後ずさった。
「バカ! エネルギーが最も強い場所が、歪みの核か突破口かもしれない! ここに閉じ込められてるよりマシだ!」私は言い聞かせるように、へたへたと崩れ落ちそうな亮太の腕を掴み、探知機が示すエネルギーが最も強い方向へゆっくりと進んだ。
周囲の光景は相変わらず無限に繰り返され、息が詰まるほど圧迫的だ。狂ったように点滅する探知機の赤い光と、亮太の押し殺したすすり泣き(そう、彼は本当に小声で泣いていた)だけが、これが幻覚ではないことを私に思い知らせる。
どれだけ歩いたか分からない。数分か、数十分か。時間の経過を失ったこの空間では、一秒一秒が非常に長く感じられる。
突然、探知機の赤い光の点滅頻度が頂点に達し、ほとんど点灯したままになった!
そして私たちも足を止めた。
私たちの前に、相変わらず果てしなく続く廊下。しかし、廊下の壁に、前に無かった何かが現れていた。
それは一枚の鏡だった。
古びた、縁に錆が付いた姿見鏡が、突然のように壁際に立てかけられ、鏡面は私たちを真正面から映していた。
鏡には、青ざめ慌てた私と亮太の顔が映っている。
だが…何かがおかしい。
私は鏡の中の映像をじっと見つめた。中の亮太はまだ震えていて、恐怖の表情を浮かべている。しかし中の私は―
鏡の中の千早夜奈の口元が、ゆっくりと、非常にゆっくりと上へと吊り上がり、私には全く似つかわしくない、冷たく不気味な微笑みを浮かべているのだった!
私は全身に震えが走り、足の底から頭の頂まで冷たい衝撃が走った!
「亮太!」私は声を詰まらせて言った。「鏡を見ろ! 中の俺を!」
亮太は震えながら顔を上げ、鏡を見た。鏡の中の不気味な笑みを浮かべる私を見た時、彼の目は見開かれ、喉が極度の恐怖で締め付けられたような「ゲッゲッ」という音を立て、そして――
「わあああああああ――!! 幽霊だあああ!!!」
彼は前代未聞の悲痛な叫び声を上げ、驚異的な潜在能力を爆発させ、猛地に後ろへ跳びのき、鏡を思いきり蹴飛ばした!
「ガシャ――ン!!!」
鏡は彼の予想外の一蹴りで粉々に砕け散った! ガラスの破片が四方に飛び散る!
鏡が粉砕された瞬間、無限の廊下の光景全体が、砕けたガラスのように激しく歪み、裂けていく!
重くよどんだ空気が一瞬で流れ出し、周囲の繰り返される光景が潮のように引いていく! 階下の中庭の喧噪、足音が急に耳に流れ込んできた!
私たちは相変わらず本校舎の廊下に立っており、階段口まであと数歩のところだった。陽光は明るく、生徒たちは笑いながら私たちの傍を通り過ぎ、ガラスの破片の前で、一方は地面に座り込んで泣きじゃくり(亮太)、もう一方は呆然として魂が抜けたよう(私)な私たちを好奇の目でちらりと見る。
周囲は…正常に戻った。
「さ、さっきのは…」亮太は地面にへなへなと座り込み、言葉にならないことを口にした。
私は地面の粉々になった鏡の残骸を見、完全に正常な世界を見回し、心臓はまだ激しく鼓動を打っていた。鏡の中の不気味な微笑み…いったい何だったんだ?
私の手の中の探知機のライトは、すでに穏やかな緑色に戻っている。
トランシーバーから鈴木淳之介の焦った声が響いてきた。「千早さん! 佐藤先輩! そちらで強いエネルギー干渉を検知しました! 何事ですか?!」
私は深く息を吸い、呼吸を整えようと努め、トランシーバーを手に取った。「…私達…また幽霊に遭遇したみたい。今回は…鬼壁だった」
部室の向こうは数秒沈黙し、続いて神原美羽部長の、少し諦めと厳しさを含んだ声が響いた。
「…問題児二人組。とっとと引き上げてきなさい! 詳細な報告をよろしく!」
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