東京

浜川タツオは、73歳の皺だらけの手で朝の新聞を取りに玄関へ向かった。

郊外の静かな一軒家は、朝霧に包まれ、どこか時間が止まったような雰囲気を漂わせていた。


ポストを開けると、いつもの新聞の下に、見慣れない黒い縁取りのハガキが一枚紛れ込んでいるのに気がついた。


タツオは老眼鏡をかけ直し、ハガキを手に取った。

そこには、乱暴な黒いマジックで殴り書きされた文字が並んでいた。


“お前の息子の行動を止めろ!”


差出人の名前はない。

タツオの眉間に深い皺が刻まれた。


もう一枚、別のハガキにはこう書かれていた。


“町の恥さらしめ!”


ハガキを裏返し、細かく確認したがヒントは何もない。

ただ、インクの滲んだ文字が、まるで誰かの怒りをそのまま紙に叩きつけたかのように、異様な迫力を放っていた。


―数日前、息子のシュンペイが東京から帰ってきたばかりだった。


42歳のシュンペイは、相変わらずの大言壮語を繰り返していた。


「YouTuberになるんだ!」と10年以上言い続け、大学中退後は定職にも就かず、父親の年金とわずかな貯金を頼りにカメラやマイクを買い漁っていた。


そんなシュンペイがある日突然、「東京に行く!」と言い出したのは、ほんの1週間前のことだ。


「父ちゃん!

YouTuber支援団体ってやつが、俺に大チャンスをくれるって! すげえ企画なんだよ!」


シュンペイの目は、まるで少年のように輝いていた。

タツオは内心で「またか」と溜息をついたが、シュンペイの熱意に押され、渋々5万円を渡した。


かつてタツオ自身も、若さゆえの無謀な夢を追いかけた経験があった。

だからこそ、シュンペイの無鉄砲な情熱を完全に否定できなかったのだ。


だが1週間後、シュンペイは肩を落とし、疲れ果てた顔で帰ってきた。

やつれたような顔をして、目にはクマが出来ていた。


リビングのソファにどさりと座り込み、シュンペイは一言呟いた。


「騙された…」


詳しく聞くと、シュンペイは「YouTuber支援団体」と名乗る男に、動画制作の資金として10万円を渡したという。

男は「これで一気にスターになれる」と甘い言葉を並べ、シュンペイの夢を煽った。

だが、約束の企画書も、撮影の予定も、すべてが嘘だった。

男は金を握ったまま姿を消し、シュンペイは東京の雑踏の中で途方に暮れたのだ。


タツオは、内心の苛立ちを抑えながら、「だから言っただろ」と小言を言った。

だが、シュンペイの落ち込んだ姿を見ると、どこか胸が締め付けられる思いだった。


シュンペイの無責任さ、夢に溺れる姿は、タツオ自身の若い頃の影を映しているようだった。

タツオは夢を諦め、役所で定年まで勤め上げた。


安定を選んだ自分と、夢を追い続ける息子。

どちらが正しいのか、タツオにはわからなかった。


それでも、今回の詐欺事件は、タツオに一つの決意を促していた。

「このままじゃ、シュンペイは本当にどうにもならなくなる」


タツオは、息子に現実を見せるべきだと考え始めた。

だが、その矢先、例のハガキが届き始めたのだ。


翌日、また新たなハガキがポストに投げ込まれていた。今度は、赤いマジックで書かれた文字だった。


“シュンペイのせいで迷惑している!”


シュンペイが何か問題を起こしたのだろうか?

タツオは、シュンペイの部屋に足を運んだ。


ドアをノックすると、シュンペイはヘッドフォンを外し、不機嫌そうに顔を上げた。


「なんだよ父ちゃん…忙しいんだから」


「シュンペイ、このハガキ、お前に関係あるのか?」


タツオはハガキを差し出した。

シュンペイは一瞥して、鼻で笑った。


「知らないよ! 俺、誰とも揉めてないって!

こんなの、ただの嫌がらせだろ!」


シュンペイの声には、どこか焦りが混じっていた。

タツオは眉をひそめ、じっと息子の目を見た。


シュンペイはすぐに視線を逸らし、モニターに向き直った。


「忙しいから」と言いながら、動画編集ソフトをいじり始めた。


タツオは黙って部屋を出たが、胸のざわめきは収まらなかった。

シュンペイが何か隠しているのではないか?東京でのトラブルが尾を引いているのか?


タツオはハガキをゴミ箱に捨てながら、考えるのをやめた。

だがその夜、シュンペイの部屋から漏れる明かりとキーボードを叩く音は、いつもより長く続いていた。


次の朝、タツオがポストを確認すると、また新たなハガキが届いていた。

今度は、黒と赤のマジックが混ざった、まるで血のような文字だった。


“息子の過ちを水(見ず)に流すな!”


このハガキは、ただの嫌がらせではない。

誰かが、シュンペイの行動を具体的に知っている。

そして、タツオに警告しているのだ。


タツオは、シュンペイが東京で何をしたのか、もっと詳しく聞くべきだと感じた。


その日の夕方、タツオはシュンペイをリビングに呼び出した。

シュンペイは不満げにやってきて、ソファにふんぞり返った。


「父ちゃん、いい加減にしてよ

俺、忙しいんだから」


「シュンペイ、東京で何があった? 正直に話せ」


タツオの声は、普段の穏やかさとは異なり、静かな迫力を帯びていた。

シュンペイは一瞬たじろいだが、すぐにふてくされた顔に戻った。


「だから、騙されただけだって!

それ以外何もないよ!」


「なら、このハガキは何だ?

町の恥だの、迷惑だの、なんでこんなことが書かれてるんだ?」


シュンペイはハガキを手に取り、顔をしかめた。


「知らないって言ってるだろ!

こんなの、ただのイタズラだよ! 父ちゃん、こんなのにビビってどうするんだよ!家族は笑顔!」


だが、タツオにはシュンペイの言葉が空々しく聞こえた。

息子の目には、どこか落ち着かない光があった。


タツオは、若い頃の自分を思い出した。夢に溺れ、現実から目を背けていたあの頃の自分を。

シュンペイは、同じ道を歩んでいるのではないか。


その夜、タツオは眠れなかった。


翌朝、タツオは近所の知人にさりげなく話を振ってみた。

町で何か噂が流れていないか、シュンペイに関する話題はないかと。

しかし、誰も具体的なことは知らないと言い、ただ「シュンペイさん、最近見ないね」と口を揃えた。


タツオは決めた。

シュンペイに直接、すべてを話させると。


朝霧が晴れ、町は静かに日常を取り戻していたが、タツオの心は嵐のように揺れていた。


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