砂の切手〜繰り返す繰り返す〜

樫野埼 灯

夢追い人

浜川タツオ、73歳。

背筋はまだピンと伸びているが、額のしわと白髪に混じる薄い頭髪が、歳月の重さを物語っていた。


10年前に妻のカス子を癌で亡くしてから、郊外にある古い一軒家で息子のシュンペイと二人暮らしだ。


この家は、30年前にカス子とタツオが新婚時代に建てたものだった。

庭にはカス子が愛した紫陽花が今も咲き、夏になると青やピンクの花がタツオの心を少しだけ和ませる。

だが最近はその花を見るたびに、妻の不在と息子の現状が胸に突き刺さる。


シュンペイは42歳。

大学を中退してから20年近く、定職に就かず、2階の自室に籠もって「大物YouTuberになる」と豪語している。

朝から晩まで、カメラを手に奇妙なポーズで喋り続け、編集ソフトをいじり、視聴者数が一向に増えない動画をアップロードする日々だ。


タツオがリビングで朝刊を広げていると、2階からシュンペイの声が響いてくる。


「よお、みんな!

今日もシュンペイチャンネル、元気にスタートだぜ!わーお!」


タツオは新聞を折り畳み、深い溜息をついた。


シュンペイの声は、20代の頃の勢いそのままに、どこか空々しい。


リビングの古いソファに腰を下ろし、妻の遺影をチラリと見る。

カス子はいつも穏やかに笑っていた。


あの笑顔が、シュンペイの将来を信じていた頃の自分を思い出させる。

だが、今のシュンペイは、タツオの知る息子とはどこか違う存在に思えた。


「父ちゃん、時代はYouTubeだよ!

サラリーマンなんてダサいだけ! 俺、絶対ビッグになるから!」


シュンペイは夕飯の席でそうまくしたて、箸も持たずにスマホをいじりながら熱弁を振るった。


テーブルにはタツオが作った質素な肉じゃがと味噌汁が並ぶ。

シュンペイは一口食べると、「これ、ちょっと味薄いね」と文句を言い、すぐに自分の部屋に戻ってしまう。

タツオは黙って皿を片付けながら、胸の奥で燻る苛立ちを抑えた。


いつの間にか、「まあ、詐欺や賭博に手を出すよりマシか」と自分に言い聞かせるのが癖になっていた。


タツオ自身、若い頃は夢を追いかけた時期があった。

だが、親の反対と生活の現実に直面し、夢は色褪せた。


結局、役所の業務に就き、30年以上の月日をコツコツと勤め上げた。

定年退職の日、役所の上司が「浜川さん、よく頑張ったな」と肩を叩いてくれたが、タツオの心は空っぽだった。

あの頃の情熱は、どこに消えたのだろう。


だから、シュンペイの「夢追い人」ぶりは、タツオの若い頃を映す鏡のようだった。


だが、シュンペイの夢はどこか現実離れしているように思えた。

YouTuber? 動画で金を稼ぐ? タツオには理解しがたい世界だった。


テレビで流れるYouTuberのニュースを見ると、派手な生活や莫大な収入が取り上げられるが、シュンペイのチャンネルは登録者数が300人にも満たない。

「シュンペイチャンネル」の動画は、ゲーム実況や街歩き、たまにシュンペイが歌う下手なカラオケ動画で、コメント欄には「もっと編集頑張れよ」といった冷ややかな言葉が並ぶ。


それでも、シュンペイはめげなかった。

部屋には新品のカメラやマイク、三脚が散乱し、タツオの年金と貯金を切り崩して買ったものだと知ると、タツオの胸は締め付けられた。

シュンペイは「投資だよ、父ちゃん! これで絶対リターンがあるから!」と笑うが、タツオにはその言葉が空虚に響いた。


町内の雰囲気も、タツオの心を重くしていた。

この小さな町は、昔ながらの商店街と新しい住宅地が混在する、どこか懐かしい場所だ。

朝の散歩で近所の主婦たちと挨拶を交わし、コンビニの店員と他愛もない世間話をするのが、タツオの日課だった。


だが、最近はシュンペイの噂が町に広がっている気がした。

町内会の集まりで、隣の家の山本さんが「シュンペイさん、最近どうしてる?」と遠回しに聞いてきたとき、タツオは笑顔で誤魔化した。

「まあ、若いもんは色々試してるよ」と。


だが、本心ではシュンペイの生活に苛立ちを覚えていた。

42歳にもなって親のスネをかじり、部屋に籠もって動画を撮る息子。


町の人々がどう見ているか、想像するだけでタツオの胃がキリキリした。

それでも、シュンペイを追い出す気にはなれなかった。


カス子の遺言が耳に残っている。

「お父さん、シュンペイを信じてあげて

あの子は、いつか自分の道を見つけるから」


妻の言葉を思い出すたび、タツオはシュンペイを叱るのをためらった。


ある朝、タツオが庭で紫陽花に水をやっていると、シュンペイが2階の窓から顔を出した。


「父ちゃん、ちょっと金貸してくれよ! 新しい照明買いたいんだ!」


タツオはホースを握る手を止めた。


「またか? お前、いつになったら自分で稼ぐんだ?」


「すぐだよ、父ちゃん! もうちょっとでバズるから!」


シュンペイの笑顔は、どこか子供のようだった。

タツオは溜息をつき、財布から1万円を渡した。


シュンペイは「サンキュー!」と軽い調子で部屋に戻る。

その背中を見ながら、タツオは思った。

―このままでは、シュンペイは永遠に夢の世界に閉じこもるのではないか。


妻の言葉を信じたいが、現実はあまりにも重い。


夕方、タツオはリビングで古いアルバムを開いた。

そこには、シュンペイが小学生の頃、家族で海に行った写真があった。


シュンペイはカス子の手を取り、波打ち際で笑っている。

タツオはその写真を指でなぞり、胸の奥で何かが疼いた。


あの頃のシュンペイは、どんな夢を見ていたのだろう。

そして、自分はあの頃の夢を、どこで諦めてしまったのだろう。


―…シュンペイの部屋から、またあの声が聞こえてくる。

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