第二話 夜明けの観察  夜明けの川中島。双眼鏡に映るのは、飢えた兵と二つの旗。

 夜の闇がほどけ、東の空が白み始めた。

 光が薄く地平を裂き、霧が帯を解く。世界の形は戻ってきても、図書館の内部は依然として無音の箱だ。外界の音は一切届かず、こちらからはただ「像」だけが差し出されてくる。


 私は双眼鏡を目に当てた。

 焚き火の残り火の周りに兵たちが座り込み、粗末な小袖に包まれた背中を丸めている。腰を押さえて立ち上がる者、膝に手をついて伸びをする者。むしろを肩に引っかけたまま火を足で崩す者。無理もない、長期の滞陣、一月余り、着の身着のままで夜を過ごしているのだから。


 食器は木椀。中に残っているのは濁った灰色――雑穀の粥だ。ところどころ刻んだ野草や豆の影が混じる。満足に食える量ではない。


 兵の顔は疲労に覆われていた。槍を杖代わりに舟を漕ぎ、焚き火の縁で膝を抱える。眠気と空腹が表情を重くし、彼らの心にある願いはただひとつ――五体満足で無事に帰りたい。


 馬の姿も拾った。

 肋骨が浮くほどではないが、尻の肉は薄く、尾の振りに力がない。鼻面を地面に落とし、短い草をむしっている。干し草の束は見当たらず、馬丁のひとりは桶の底を覗いて指で縁をなぞり、塩気を確かめていた。無理もない、領国からの補給があるわけでもなく、現地での調達もおそらく出来まい。馬の顔つきは、補給の細さを物語っている。


 視野を広げる。

 右手の丘には白い大きな布。中央に太い一字――毘。

 左手の低地には赤地に金の四字――風林火山。

 旗は士気の象徴であり、飢えを覆い隠す布でもあろう。腹を満たせぬので、士気を高めるため、旗を高く掲げる。文字通りのやせ我慢か。思わず口をつく。これでは戦など出来まい。


 私は双眼鏡を下ろし、机へ視線を移した。蛍光灯がノートの罫線を照らし、ガラス扉の外のテラスは空のまま。丸テーブルの天板には夜露の輪が残り、椅子の背に小さな水滴が光っている。

 コンビニで手に入れた栄養バーを開け、一口かじる。包装を破る音が、静寂の箱にやけに大きく響く。甘さが口に広がり、思考が落ち着いていく。補給とはこういうものだ。大軍であれ一人であれ、腹を支えるものがなければ前に進めない。


 双眼鏡に戻る。

 兵の間を若い影が走り、小さな桶を抱えて老人に渡す。老人はほんのわずか首を下げ、中身を分け合った。鍋の底の残りだろう。わずかでも余裕があるからこそ「分け合う」ことができる。余裕がなければ、強奪と混乱が生まれるだろう。かろうじて秩序は保たれているようだ。


 見張りの兵は槍を肩にかけ、遠くを睨んでいた。槍の石突きが地面に打ち込まれた跡がいくつも並び、夜を越える間に眠気と闘った痕が読み取れる。命がかかっているのだ、真剣にもなろう。別の兵は脛当ての紐を締め直していた。紐はすでに使い古され綻び、煮染めたような色だ。補給の心細さを装備が語っている。


 丘の上、白い旗の下で馬上の影が動き、周囲の兵が二歩動いた。命令の言葉は聞こえないが、動きで意図はわかる。陣の角を詰め、道を開けたのだ。尾根の向こうを薄い影が流れる。迂回の準備か、伝令か。


 対岸の列も濃さを増していた。槍の列の密度が変わり、足元の湿りが兵の動きをばらつかせる。湿った裾は冷えを呼び、冷えは判断を鈍らせる。どちらも余力はない。


 私はノートの新しい頁に「初動」と記した。筆圧が強い。すぐ横に「音情報なし」「推測含む」と書き添え、息を整える。興奮を抑えなければ観察を誤る。


 双眼鏡の視野で槍の列が傾き、旗持ちが遅れてついていく。

 教科書には屏風絵の華やかさが描かれているが、現実はそれとはほど遠い。ここには音も色もない。あるのは鈍い動き、冷え、湿り、空腹。


 私は再び栄養バーを噛み、心を落ち着けた。

 「観る」「記す」「比べる」――声にせず、口の中で言葉を転がす。

 外で人が動き始めている。私はただ観察し、記録するだけ。


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