第2話 トンネルの声は、過去の私
夜十時を回った帰り道、電車を降りてからの住宅街は異様に静かだった。
人影はなく、犬の吠える声さえ聞こえない。
アスファルトは夕立の湿り気をまだ残し、街灯の光は雨粒を反射して冷たく光っている。
近道をしようと歩道橋の下を通った。
そこは昼間でも薄暗く、誰も近寄らない場所だ。
コンクリートの壁は落書きで黒ずみ、古い鉄骨からは錆の匂いが漂っている。
足音がやけに響き、ひとりでいることを突きつけられるようだった。
不意に、胸の奥からいたずら心が芽生えた。
誰もいないからこそ試してみたくなる──声を出せば、どんなふうに返ってくるのか。
私は立ち止まり、湿った壁に向かって小さく声をかけた。
「やあ」
数秒の沈黙。
それから、濁った声がゆっくり返ってきた。
──やあ。
ただの反射音。科学的に言えば残響。
音は壁にぶつかって折り返し、遅れて耳に届く。
ただそれだけのはずだった。
だが、次に返ってきたのは違った。
耳に刺さるように甲高い声──十年前、母に泣きながら謝ったときの自分の声。
「……ごめんね」
震える声で呟くと、今度は歪んだ低音がトンネルの奥から響いた。
──ごめんねぇぇ……。
空気が急に重くなり、背筋に氷の刃が走った。
残響ではない。誰かが、暗闇の奥で私の言葉を真似している。
逃げなくては。
けれど、振り返ったらその「誰か」と目が合ってしまう気がして──私はただ前だけを見て駆け抜けた。
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